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真名の行き先

01.彼の人の真名



新聞を広げ、一通りの記事に目を通すのが、鳴海の朝の日課みたいなものだった。
事務所にある自分の机の前に座り足を組み、ばさりと紙面をやや大げさに広げて読む。
しかし、読んでみたところで中身の大概はどれも同じに見え、さして目を引く記事も無いので、ただ紙面に並ぶ文字列を見るばかりで、実際には『読んで』などいなかった。

ならば何故、新聞を広げているのか?
鳴海の視線はいつしか、紙面では無く、その向こう……戸口の側に佇む人物へと向けられていた。両腕を組んで立ち、壁に背を凭れさせて俯いている様子を、じっと盗み見る。
新聞を読む振りをしながら、こっそりと。
気が付けば、そんなこと――青年の動向の観察――が、日課となっていた。

それもこれも、あの日この青年が、此処――鳴海の居る探偵事務所にやって来た日から、変わったのだ。
目の前の青年は学生帽を目深に被っているので、その表情はいつも窺い知れない。
その姿は上から下まで全身黒で統一されている。
学生帽と、学生服。それと、外套。それらは、弓月の君高等師範学校のものである。
外出時にはいつも外套を身に纏っているが、事務所内では勿論外している。
細い体躯に見えるが、これでも意外に戦術には長けているようだ。その長い足に寄り添うように添えられている、腰に帯びた刀の刀身が見える。

青年は全く人の気配をさせず、じっとそこに立っていることが多い。
座るように勧めても、遠慮しているのか鍛錬でも兼ねているのか、あまり座ろうとしない。
冷黙に佇むその姿は、まるで一個の置物のようだが、静物と認めるには存在感が強すぎた。
始終警戒している猫のようだ、と鳴海は思った。
そういえば青年の側には大抵、一匹の黒猫が就いているのだが、今は居ない。
何処かの屋根の上で、暖かな日差しを受けながら眠りでも楽しんでいるのだろうか。

青年の名前は、葛葉ライドウ。
この帝都に遣わされた、新米のデビルサマナー。

しかし、葛葉ライドウというのは本名ではないらしい。
何故なら出会った当初、自己紹介の時に彼はこう言っていた。
”十四代目、葛葉ライドウ”と。
ならば――……彼の真の名は、何と言うのだろう?
それが当初から、ずっと気になっていた。

「なぁ、ライドウ――……。」
新聞を少し下げて、ライドウの方を見ながら声を掛ければ、相手が僅かに顔を上げた。
だが、その表情はやはり分からない。
帽子の庇の下から覗く形のいい唇が動くのだけが、見えるのみ。
「……はい。何でしょう?」
艶のある低めの声は静かだが、室内に良く通る。いつ聞いても、心地がいい――。
「……鳴海殿?」
声が怪訝そうな色を含んだのを聞いて、聞き惚れていた鳴海が慌てて我に返る。
「あ、いや済まん。」
「いえ。何か御用命でしょうか。」
「御用命、ってものじゃないんだけどな……その……お前の名前って、何なんだ?」
鳴海の台詞に、ライドウが、く、と静かに首を傾げた。それは彼の感情を表す、数少ない行動だった。
そして表す感情の名は”疑問”
「私の名前……ですか? ……葛葉ライドウ――と。確か、最初に申し上げた筈ですが。」
「いや、そうじゃなくてだな――ああ、問い方が悪かった。」
頭を掻いて、言い直す。
「俺が訊いてるのは、お前の本名の方だ。別に有るんだろ? 真の名が。」
「……。」
ライドウが沈黙し、言葉の無い空白が室内を満たす。
それは短い時間だったが、鳴海には恐ろしいほどの静寂として感じられた。
ややあってから、ライドウが言葉を返してくる。
「私の名は、葛葉ライドウです。今は、それ以外に名乗るものを持ちません。」
「そう言わないで、教えてくれよ。良いじゃないか、誰にも言わないからさ。」
知りたかった。彼の本当の名前を。
しかしライドウは緩やかに首を横に振り、否定の感情を示すのみ。

「葛葉、ライドウ。それが私の名です。それだけしか有りません。」
頑ななライドウに、とうとう焦れた鳴海がムムッと唸ってこう言い返した。

「じゃあ、これは”御用命”――だ。」
本当は、こんな物言いをするつもりなど無かった。
ライドウは礼儀を重んじているのか、鳴海が言うことにはきちんと従っている。
そんな彼に、”用命”を盾にして無理やりに聞き出そうとする自分を、浅ましいと感じる。
しかし、これでもライドウは本名を口にしないだろう、と思っていた。

「……。」
案の定、それを受けたライドウは答えず、再び沈黙した。
また少しの空白を空けた後で、言葉を繋げる。
「従わなければ……どうなされますか?」
「どうって……それは、お前が考えることだ。」
出て行け、とは自ら言えずに、その答えは相手に委ねた。出て行って欲しくないからだ。
全く、自分はどこまで狡いのだ、と鳴海は心中で苦笑しつつも、黙ってライドウの様子を眺めた。
彼には、この帝都でまだ遣るべき事が残っている。
他に行く当ては無い筈だ。帝都のここだけが、彼に合った場所だから。

だから、ここからは出て行かない。――出て行けない。
これならば、きっと話してくれるだろう。本名を。

そう考えていた鳴海だったが、その予想は外れることとなる。
ライドウは帽子の庇を引き下げると、壁に凭れさせていた背を起こし、側に掛けてあった外套を手にしてから、鳴海の方へ振り向いた。
そして彼の返した台詞は、鳴海が望んだものどころか、反対に彼を酷く驚かせるものだった。

「――短い間でしたが、御世話になりました。」
落ち着いた声が、しん、とした室内に響いた。
それを聞いた鳴海は胸が酷くざわめくのを感じ、思わず立ち上がって叫んでいた。

「ま、待て待て! こら、ライドウ! 何で、そうなる!?」
名を呼べば、出て行きかけたライドウが足を止めて振り返る。
「何故、と? それは今、鳴海殿が仰ったではありませんか。私自身が考えろ、と。」
「確かに、そう言った……けど、な。だからって、何でお前が出て行くんだ!?」

矛盾したことを言っている、と鳴海は自分でも判っていた。
出て行くように仕向けたのは、自分の方なのに。
だが、それはライドウが出て行く筈が無いと考えていたからであって、まさか本当に退くとは思わなくて。

出て行くわけがないと考えて仕掛けた罠は、甘すぎた。
獲物はあっさりと罠を抜け、今や鳴海から離れようとしていた。

そんな鳴海の思考など、ライドウが識るわけもない。ライドウは静かに理由を語るのみ。
「私は、鳴海殿に対し抗命しました。反逆の意思を持った者を、これ以上近くに置くのは危険です。もしかしたら、危害を加えるかも知れません。ですから、私はここを出て行くのです。
――以上、これが理由です。」
「話が飛躍しすぎだ! とにかく、出て行くな! これは命令だ!」
「しかし――」
「分かった、もう無理に名前を訊き出そうとしない! 俺が悪かった! もう、良いから!」
尚も何か言いかけるライドウを遮って、鳴海が口早に叫んだ。
それを聞いたライドウは口元に手を当て、考え込むような仕草をした。
そして庇に手を掛けながら、言う。

「……分かりました。それならば私は、いま暫くは此処に留まらせて頂きます。」
「ああ……そうしてくれ。」
ライドウが外套をまた同じ場所に掛けるのを見ながら、鳴海は椅子に腰を下ろし、ぐったりと身を沈み込ませた。
一気に疲れた。こんなに冷や汗を掻いたのは、何時振りだろう?
ぎし、と椅子の鳴る音と共に、外套を掛け終えたライドウが向き直った。
「御疲れのようですね。何か、お飲み物でも用意致しましょうか?」
「ああ――……じゃあ、珈琲でも淹れてくれ。」
「畏まりました。」
そう言って足音も立てずに部屋を出て行くライドウを見て、鳴海はが天井を仰ぐ。
「一筋縄じゃいかない奴だな。……しかし……はぁ――」
安堵の息と共に、一言零す。
「……いきなり焦った。」
呟きに合わせて、大きな溜め息が漏れた音がした。

その窓の外では。
先程から中の様子を窺っていた緑の眼をした黒猫が、これまた鳴海と同じような溜め息を吐いて呟く。
「ああ、全くその通りだよ鳴海。あの”ライドウ”は、正に難攻不落の存在さ。そう簡単に落とすことなど、不可能なのだよ。」
そして、くくっと喉奥で笑って言葉を継げる。

「残念だったな、鳴海。お前の罠は自らに返ってきたぞ。」
鼻先で笑う黒猫――ゴウトの笑いは勿論、室内の鳴海の耳には届かない。
いつしか、何処か離れた場所から、芳しい珈琲の香りが漂い出して鳴海の鼻先を掠めた。