真名の行き先
03.真名の彷徨い
「やあ。お早う、ライドウちゃん。」
「……っ!」
最近、この声を聞くと胸が高鳴るようになった。
声に引き止められて恐る恐る振り向けば、相手は挙動不審な此方などさして気にした風もなく、いつも通り、ただ屈託無く笑って話しかけてくる。
「丁度良かった。休憩しようと思ってたんだ。珈琲、淹れてきてくれる?」
心地のいい明瞭な声。
それに良く合う穏やかな笑顔が眩しい。
「あ、そうだ。お茶受けは、昼に依頼人から貰ったものがあるから持ってこなくて良いよ。」
そう付け加えて柔らかく笑うその表情に、目が離せなくなる。
癖のある髪を掻き揚げる仕草に、心が引き止められる。
こんな声で真名を呼ばれたら、一体どんな気持ちになるのだろう、と――。
「……? ライドウ?」
「え? ――うわっ!?」
「あいたっ!」
再度名を呼ばれて我に返ると、目の前――それは本当に顔の間近――に鳴海の顔があったものだから、ライドウは自らを繕えず、そのまま大きな声を上げて相手を突き飛ばしてしまった。
だが、驚いたのは鳴海も同じ。むしろライドウ以上に驚いたことだろう。
何せ突然、胸を強く突き飛ばされたのだから。
強く掌打された胸の辺りに手を当てて、鳴海は困惑した目でライドウを見る。
「いたた……何。どうしたっていうの、ライドウちゃん。」
「あっ! い、いえ、……も、申し訳ありません!」
「いや、良いんだけどさ。――気分でも、悪いの?」
そう言って、鳴海が何気なくライドウの額に手を伸ばす。
「っ……!」
ライドウは短く息を飲むと、素早く身を引いて背を向けてしまった。
その反応に、目を丸くする鳴海。身を守るように背を向けたままのライドウが、躊躇いがちに言葉を返す。
「あの……珈琲を、お持ち致します。」
「え……あ。……ああ、うん――」
避けるように身を引いたライドウに、鳴海は何を感じただろう。
逃げるように部屋を出て行ったライドウを、鳴海はどう見たことだろう。
「俺、何もしていない筈なんだけどなぁ……?」
一人になった後、鳴海は突かれた胸を押さえて不思議そうに首を傾げたが、何の答えも出てきはしなかった。
◇ ◇ ◇
「……はぁ……。」
サイフォンフィルターの中で、珈琲の雫が落ちる。
焦げた色をした水滴。
滴り落ちるその様を見つめながら、ライドウは所在無く台所に佇んでいた。
水場の縁に両手を付いて項垂れ、何度目かの重い溜め息を吐く。
回想するのは、先程の出来事。
どうして、自分はあそこまで自失していたのだろう。
どうして、鳴海殿が近づくのに気づかなかったのだろう。
どうして、あんな事を――真名を呼ばれたいなどと、考えたのだろう。
何て。
何て愚かな。
真名を教えることは、心を開くこと。
真名を知らせることは、この身を相手に委ねること。
鳴海殿に、私は……――俺は、どうされたいのだろう。
「……止めよう。」
ライドウが呟き、首を振る。
こんな状態で物事を考えるのは止めておこう、と思ったのだ。
これ以上の没頭は、余計なものが生まれてしまうのだと、そう考えた。
「止めるんだ、葛葉……ライドウ……。」
浮かび上がる雑念を嫌ったのか、ライドウは自らの仮名を口にすると、目を閉じて闇に意識を放り込んだ。
こぽこぽ、と液体の沸騰する音が聞こえる。
湯気の立つ音は静かで、まるで吐息のよう。
闇は、いつも自分の周囲に在った。
闇だけが、いつも側に。
精神が研ぎ澄まされていく。
冷たい刀が煌くのが見える。
暗闇から目を覚ます、過去の己。
他者が嫌いだった頃の自分が、こちらを見つめている。
凍りついた眼差し。今のライドウを見て、軽蔑でもしているのか。
ライドウは微かに苦笑する。
――そんな顔をするなよ。今、戻るから。
そうして昔の自分と今の葛葉ライドウを重ね、いつもの自分に戻ろうとする。
帝都を守るデビルサマナー。
己の役目と存在とを思い出せ。
「俺は……」
還れ、十四代目葛葉ライドウ。
目を閉じた世界、重なる残像。
あと少しで、戻る。
――戻れるその刹那だった。
「ライドウ。大丈夫か?」
「え? ――……ヒッ……!」
耳元で囁かれた声により、それは寸前のところで断ち切られた。
闇から意識を浮上させた七綺が瞳を開ければ、直ぐ目の前に鳴海の顔があり、此方を心配そうに覗き込んでいた。
そのあまりにも近すぎる距離に、ライドウはかつての己に重なりきれなかった。
結局、不完全な状態のまま――元の姿である七綺のまま細い悲鳴を上げると、思い切り後ろに飛びずさってしまった。
まるで不審者に遭遇したかのような反応に、さすがに気分を害したのだろう。
鳴海がひどく不機嫌な顔をし、眉間に皺を寄せながら言う。
「あのさ、ライドウ。いきなり声を掛けた俺も悪いんだろうけど、その態度は無いんじゃないか?」
「あ……。……あの……も、申し訳ありません……っ。」
鳴海の尖った声を受けて、七綺は戸惑いながらもすぐさま謝罪の言葉を口にした。
けれど視線は逸らし、伏せ目がちのまま。
鳴海を見ようとしないばかりか、むしろ見たくない、とでもいうように俯いている。
七綺はライドウを保つ余裕が無かった。
それが、悪かった。
今の鳴海にも、気持ちの余裕は無かったのだから。
鳴海は無言で七綺に近づくと、肩を掴んで距離を詰めた。
強い力。指が突き刺さるようなほど強い。
走る鈍痛に、七綺が顔を顰めて口を開く。
「っ……痛い、です、鳴海……殿……!」
すると、鳴海がせせら笑いながら言い返す。
「そりゃ、痛いだろうね。そうなるようにしてるんだからさ。」
「っ!? な、……」
頭上で零れた声は、ひやりとするほど冷たい。
不穏なものを感じた七綺が、弾かれたように顔を上げて鳴海を仰ぐ。
すると、蔑視に似た冷酷な視線に射抜かれた。いつもの陽気な笑みは、何処にも無い。
「……な……るみ、殿……」
怯えの混じった瞳を向けた七綺が身を竦めれば、鳴海の顔が益々険悪なものになる。
「それって何なの、ライドウ?」
何でそんな目で俺を見るんだよ。
どうして、そう俺に怯える?
あの拒絶は何だって言うんだ。
何なんだよ、それ。
何で今更、そんな態度を――!
「ライドウ、お前――」
「――七綺から手を離せ、愚か者。」
爪で裂くような鋭い声が何処かから届いた。七綺の視線が、声のしたほう――やや前方の床付近に止まる。
「ゴウト……。」
その声で少し我を取り戻した七綺が、ライドウに還りながら手を伸ばした。
「待てよ、ライドウ! まだ話は――……!」
けれどライドウは鳴海の声も聞こえないのか、スルリと前へ抜け出すと、そのまま床に座り込むなりゴウトを抱き上げ、呟いた。
「……ゴウト……。」
「どうした? 随分と覇気が無いが……鳴海に何かされたのか?」
ライドウの肩越しから、ゴウトが鳴海に鋭い眼差しを向けた。
鳴海は渋い表情をしながらも、ゴウトと、背を向けて蹲るライドウを見つめ、鼻白む。
「あのね。俺は何もして無いよ。ライドウの態度がおかしいから、注意しようとしてただけ!」
「ふん……簡単に信用できるか。鳴海はこう言ってるが――どうなんだ、七綺?」
「……な、を……」
「うん?」
掠れた声で、ライドウが呟く。
「真名を、呼ばないでくれ……。」
「七綺?」
「ライドウ、と……呼んで、欲しい。真名は――……止めてくれ。」
苦しげにライドウが発したのは、不可思議な懇願。
ゴウトと鳴海が視線を交わしあい、目を丸くする。
「鳴海――何があった?」
ゴウトが訊ねるも、鳴海は黙って首を振る。本当に分からないのだ。
鳴海の怒りは、もう無い。こんな状態のライドウを前にしては、怒るどころか心配になってそれどころじゃなくなったのだ。
「なな……ライドウ?」
ゴウトは次にライドウに話しかけるも、相手は凍りついたまま動かず、ただゴウトを抱き締めるだけで何も答えない。
虚ろな視線を床に落としたまま、ライドウは呻くように答える。
「大、丈夫……だ。すぐ、元に……戻る、から……。」
そう言って薄く笑ったライドウを見て、鳴海とゴウトは不可解な不安に陥るのだった。