真名の行き先
04.真名の隠匿
葛葉ライドウ十四代目の襲名に成功した時は、本当に嬉しかった。
葛葉四家が内の誉れ高き継ぎ名。
ああ、心底喜んだ。
人の群れる場所に行くのは少し……いや、だいぶ苦手ではあったけれど――それでも、ああそれでも。
この場所、この名より離れることが出来ると分かって――嬉しかった。
それなのに、どうして。
どうして。
どうして。
「はぁ……はぁ……っく。」
自室。窓の外はすっかり明るくなっている。だがライドウは寝台の傍に膝を着いて蹲まったまま、動けないでいた。
「はっ……ぐ、うぅ……。」
口元を押さえて顔を顰めるその表情は蒼白として、額には汗の玉が浮いていた。
長い睫を震わせ、ライドウは強く目を閉じる。
頭が痛い。
『七綺。』
声が響く。
『七綺。七綺。』
止めてくれ、とライドウは心の中で叫ぶ。
俺の名前はライドウだ。葛葉ライドウだ。七綺じゃない。
『七綺。遊ぼう。』
ライドウは首を横に振る。否定するというよりは、まるで逃げるように。
俺はもう子供じゃない。だから遊べない。……俺は、コドモじゃ、ナイ……から……。
『遊ぼうよ七綺。ねぇ――』
白い手が伸びてライドウの心を掴もうとする。
「――っ!」
堪らず目を開けた。こめかみを伝い落ちる汗に気づき、手の甲で拭う。
酷い汗だ。精神統一に失敗した挙句、この様とは。
ライドウは――七綺は情けなく顔を歪めて自嘲する。
これでは簡単にライドウに戻れない。
ライドウになれない。なりきれない。
無様な。
何と無様な。
七綺は自分で自分の身体を抱き締め、泣きそうな顔のまま、ぎゅっと目を閉じる。
「俺は、葛葉、ライドウ、なんだ。」
確かめるように言葉を一区切りずつ吐き出すと、七綺はずるずると床に崩れ落ちていった。
◇ ◇ ◇
「んー。ライドウちゃんが体調を崩すなんて、珍しいこともあるもんだ。」
廊下を歩きながら、鳴海はそう呟いて首を捻った。
朝、いつものように温かくて美味しい朝食を楽しみに事務室へと足を運んだのだが、そこに在ったのは朝食も何もないがらんとした空気だけ。
おやと首を傾げていれば、鳴海の定位置にしている机上に一匹の黒猫が立っているのに気づいた。
ライドウの目付役である黒猫ゴウトは、鳴海にライドウは具合が悪そうなのだということを伝えると、さっさとその場を後にした。恐らく、ライドウの代わりに今日の踏査を行うのだろう。
お優しいことで、と苦笑しつつ、鳴海はゴウトに言われた言葉を考えた。
ライドウが体調を崩した?
風邪でも引いたのだろうか。――だとすれば、あの黒猫は外出などせず看病に走るのだと思うが。そう考えると、あまり深刻なものではないのかもしれない。
「まあ、誰だってしんどくなる時はあるよね。」
俺なんて、しょっちゅうだし、などと暢気に笑いながら、それでもライドウの部屋に行ってみようと思ったのは、一つ引っ掛かることがあったからだ。
簡単なお粥を作り、水と一緒に盆に載せると、それを口実に部屋を出た。
訊いてみたいことが、一つあった。
◇ ◇ ◇
「――ライドウッ!?」
床の上に、彼の書生は居た。身体を丸め、青褪めた顔をして。
鳴海は驚き、持っていた盆を机の上に置くと、慌てて相手に駆け寄った。
「ライドウ、おいどうしたんだ……ライドウ!」
寝そべっているだけでないことは直ぐに見てとれた。
身体を抱え起こす。酷く汗を掻いていて、その手は指先まですっかり冷えていた。
思わずその手をぎゅっと握る。すれば、意識が戻ったのかライドウがゆっくりと目を開けた。
「……な、るみ……どの?」
声は、その瞳と同様に虚ろだった。鳴海を見ているのに、しかし焦点は何処か遠いものでも見ているかのように揺らいでいる。
――これはあの時と同じだ、と思った。
鳴海の脳裏を過ぎったのは、数日前に見たライドウの姿だ。鳴海を突き飛ばし、何かに怯え、ゴウトの呼ぶ真名を拒絶したあの日のライドウと今の姿は良く似ていた。
「……ライドウ。俺の声が聞こえるかい? 俺が、分かる?」
優しい声で話しかける鳴海に、揺らいでいた瞳が僅かに動いた。
青褪めた朱の唇が動き、震えて言葉を紡ぐ。
「……ごめんなさい。」
妙に幼い声だった。それは普段、鳴海が聞いているライドウの声音では無い。涼やかに良く通る凛々しかった声は艶どころか覇気ごと失い、弱々しくなっていた。
まるで、そう――怯える、子供のような。
「……ライドウ? この間のことを謝ってるのなら、もう良いから。俺も大人気なかったしさ。」
しかし、ライドウは同じ言葉を繰り返す。
「ごめんなさい。……ごめんなさい。」
「何に謝っているの?」
訊ねれば、そこでライドウが瞳から涙を流して。
「俺……ライドウに、なりきれません、でした。」
か細い声だった。それは今にも泣き出しそうで、けれど泣けない子供のように張り詰めている。
「……ライドウ。」
鳴海は眉根を顰め、痛ましげな顔をしてライドウを見つめた。
何を思い詰めているのだろう。どうして此処まで追い詰められているのだろう。
訊きたいことが、また増えた。
知りたいことは、たくさんあった。
しかし彼の糸は張り詰めすぎている。
思考した果てに鳴海がとった行動は、質問でも何でも無かった。
ライドウをそっと抱き寄せて優しく身体を包み込むと、その背を軽く叩いて囁くのはたった一つの言葉。
「生まれた時から名前が在ったわけじゃないだろう? ……お前はお前だよ。」
「……な……る、み……さん……」
ライドウが呻き、鳴海の背に腕を回してぎゅっとしがみ付いた。
「……ライ――」
しかし、その抱擁は一瞬だった。
ライドウは直ぐにまた気を失ってしまったらしく、鳴海にぐたりと身体を預けて大人しくなった。
鳴海は名残惜しげにしばらくその身体を抱き締めていたが、一先ずライドウは恐慌より脱したようなので安堵する。
「とりあえず、寝かせるか。」
身体を抱き上げ、寝台の上に下ろしながらかの書生の顔を見つめる。
まだ少し顔色が悪いが、呼吸は安定していた。……多分、大丈夫だろう。
鳴海は椅子を引いてきて寝台の横に置くと、そこへ座ってライドウの手を握った。
「お前が何であっても、俺はお前が好きになってるよ、書生君。」
そう呟けば、届いたのかどうか分からないが、ライドウの表情が幾らか和らいだように見えた。
それが気のせいじゃなかったら、鳴海としては嬉しいのだけれど。