たゆらしらべ
02.かなでつなぎ
首筋に氷を押し当てられたような感覚に、鳴海は無意識に自分の首筋を撫でた。
こくりと息を飲み、僅かにライドウから距離を置く。殺気では無いのだろうが、その冷気は鳴海の肺腑を重くさせた。
鉛を飲み込んだような擬似感覚に、動けなくなる。
(飲まれるな、鳴海昌平……!)
鳴海は落ち着くために一つ深呼吸をすると、そうして己を取り戻してから、ライドウに言葉の意味を訊ねた。
「あー、えっと……俺が、お前さんのことを不快だって?」
「……ああ。」
「それは、どこからそう思ったわけ?」
直視と冷気の残滓に妙にどぎまぎしながら鳴海が問い返せば、ライドウは小さく首を傾げて。
「先の理由が、必要か。……今、お前は後ろへ身を退いた。畏怖の念を、抱きながら。それは、俺を不快に思った故からの行動……なのだろう。」
「っ!? あ、いや違う違う! 違うって、ライドウ! そうじゃないよ!」
「……構わない。隠す必要、など……無い。」
ライドウがそう呟き、目を伏せた。
それが一瞬落ち込んだように見えたのは、単にその動作のせいだろうか?
「ライドウ……?」
傷ついたのか?
無感動、無感情のお人形さんが?
不意に、鳴海の身裡に得も知れぬ不可解な罪悪感が沸いた。
(何だよこれ。何で俺が虐めたみたいな感じになってんだ、くそっ!)
それを振り切る為か、鳴海は大袈裟ともいえる身振りで否定してみせてから、ライドウに言う。
「あーのねぇライドーちゃん……お前さんは俺のこと、その程度の人間だと思ってるわけ? ちょっとしたことで怯えて、情けなく後退る男だとでも?」
「否……。さりとて、お前を貶める気は、ない。」
目を伏せたまま無感情に言い返すライドウに、鳴海は肩を竦めると、疑いの眼差しを向けつつ笑いかけた。
「ほんとかなぁ? 実は心の中で、情けないやつだなーとか思ってたりするんじゃないの?」
「……何も、思想してはいない。」
ライドウが小さく首を振るも、何だか余計に憐れまれているように思えた。
鳴海はムッとした顔になると、つい声を荒げて言い返す。
「――言っとくけど! 俺は別に、不快感を覚えたのでも、怯えたわけでもないからね!? さっきのは、ただ……ただちょっと、足がもつれただけだから!」
何をこうもムキになっているのだろう、と自分でも思うほどに大きな声が出てしまった。
まるで子供が大人に言い訳する時のような似た口調で、必死に言い返した自分が何だか情けない。
子供に言い訳する、大人の図。
鳴海はそんな図式を思い浮かべた自分に呆れたが、直ぐに平常心を繕うと、ライドウを見て言い訳のような言葉を尚も繋ぐ。
「――……ま、この話はもういいじゃない。お終いにしよう。はい、おしまい!」
「……好きに、すればいい。」
曖昧に笑って話を打ち切った鳴海に、ライドウは、どうでもいいという風に息を吐いた。
呆れたのか、それとも、会話自体に疲れたのか。
再び顔を上げると、鳴海を見ることなく月を仰いだ。
何か少しでも表情に変化があれば良いのだが、ライドウは相変わらずその氷の美貌を凍りつかせたままだから、どんな感じでいるのか掴めない。
(こうも表情が変わらないと、折角の美貌も勿体無いよなぁ……。)
月に視線を戻したライドウの様子を見つめながら、鳴海は心中でひっそり嘆いた。
そんな鳴海の心など知る由もないライドウはというと、空を仰いだ姿勢で音も無く呼吸しながら、瞑目するように目を閉じている。
仰け反る喉は滑らかな絹のように白く、漆黒の髪は艶やかな煌きを見せている。
月光のせいか、その氷の美はいつも以上に冷たく、そして……ひどく、妖しく。
柔らかい肉で覆われた急所を無防備に晒しているライドウの姿に、鳴海は息苦しさを覚えて立ち眩む。
妖しめいた幻惑の人形。
冷たすぎる美貌が熱を喚ぶ。
眩暈が……強くなる。
不意に、鳴海はライドウを抱き締めたい衝動に駆られた。
髪に指を通して、梳いてみたいと思った。
そのしなやかな身体に触れて、強く抱き締めて。
そのまま押し倒し、めちゃめちゃに汚してやりたい。
取り澄ましたようなその顔を、快楽で歪ませて――壊してやりたい、と。
「――っ!?」
脳裏に浮かんだあまりにも淫らな考えに、鳴海は自分のことながらギョッとした。
(何考えてるんだ俺は……!!)
纏わり付いた誘惑を打ち払う為、慌てて頭を振り振り、ガシガシと髪を掻いた。
生じた熱をそのようにして夜気に当てて冷ましたのはいいが、まだ心臓がドキドキしている。
(あ、危なかった……っていうか。こんなところで欲情するか、普通!?)
額に手を当てて溜め息を吐きながら、鳴海は自身を強く恥じて俯いた。
(溜ってる……のかなぁ?)
そういえば最近はライドウの夜半外出に気をとられていて、自身の夜遊びは疎かになっていることを思い出す。しかし、それは別にライドウのせいではない。
単に鳴海の甲斐性が無いだけであるのだから。
――多分。
◇ ◇ ◇
目覚めた時から檻に居た。冷たいだけの檻の中。
四方八方を囲んでいた札だらけの壁は、今も鮮明に覚えている。
血で染め上げたような真紅の呪符が、唯一の色彩、変わらぬ色。
箱庭に似たその小さな世界だけが居場所であることに気づいたのは、何時だったか。
月だけしか知らず、知らされず。
温かいものなど知らず、温かいことすら解らぬまま。
砂時計の中で落ちる砂のように、生を進めていた。
指の間から零す砂に似た音を立てるような、命を。
冷たい闇が、いつも周囲を取り巻いていた。
冷ややかな月の光が、闇の中の唯一の煌き。
月だけが、在った。
いつも傍らに。
形を変えども、放つ光は不変な神秘性を孕み、冷たく、けれど静かに此方を見下ろしてくる存在を、ただじっと見つめ返していた。
月は、自分を見ても怯える様を見せない。
月は、自分の無知さを知っても何も言わない。
その怜悧で寡黙な姿は、正に至高の孤高。
何時しか、月に一つの憧れを抱いていた。
――月のようになれれば、と。
祈り、焦がれ、願った。
だがそれは身の程を弁えぬ愚かなことだと一笑に付され、取り上げられることになる。
砕かれた願いは、笑い声と共に刻まれ、流され……バラバラに、された。
幾度も願い望んだものは、そうしてそのまま、知らされた結末を辿る。
当たり前のように敷かれた、結末を。
それは、檻の中で深く知らされた”絶望”という言の葉そのものだった。
◇ ◇ ◇
冷ややかな夜風が音の無い空間を流れ、二人の停滞していた思考を撫でた。
それを受けて、先ず鳴海が我に返った。
そう言えば、もう随分長いこと此処に居るんじゃないか?と思った。
自分はライドウを探しに来たのではなかったか?
鳴海は三度、くしゃみをして身震いすると、隣で尚も月を仰ぎ見ているライドウに向き直り、話しかける。
「うはー寒……。ね、ライドウ。月光浴は分かったからさ、とりあえずそろそろ帰ろうか。」
そう言いながら、鳴海は何気なくライドウの髪に手を伸ばし、控えめに触れてみた。
――びりり、と。
髪に触れた鳴海の指先に、恐ろしいほどの冷たさが走った。
ライドウの艶やかな髪は夜気に長く当てられたせいか、鳴海以上に冷たくなっている。
「うっわ! ちょっとちょっとライドウ! お前さん、めちゃくちゃ冷えてるじゃないか!」
驚いた勢いでライドウの手をとって握ってみれば、すっかり冷えきっていた。
氷の塊、とはいかないまでも、鳴海に比べてその手は酷く冷たい。
いつから此処に居たのだろう?
こんなにも冷え切っているなんて。
これは……大丈夫なのか?
常に黒い外套を身に纏っているライドウではあるが、それでも防寒対策としてはかなり心許ない。
「その格好じゃ寒いだろ、ライドウ。」
鳴海がライドウの手を握り、肩を引き寄せて話しかければ、相手は首を傾げて。
「……寒、い――、……心細い、のか。」
「んん? 何でそういう考えに……。そうじゃ、なくて。」
「何か、違ったのか。」
「うーん……。」
鳴海がそこで眉を寄せ、口篭る。
”寒い”について説明しようと思ったのだが、ライドウは感情ならず、感覚に対してもよく解っていない節がある為に、正確な答えを伝えるのが難しい。
だが、”寒さ”を知らないとはいえ、平気な訳ではないだろう。
現に、身体はこんなにも冷たく冷え切ってしまっているのだから。
「どうか……したのか。」
感情の無い声が、鳴海を呼んだ。
ライドウに視線を移すと、少し色を失った唇から白い吐息が漏れるのが見てとれた。
ああ、人間らしい光景だ。
鳴海が苦笑し、言い返す。
「いや、何でもないよ。それはそうと、ほら……立ちな、ライドウ。」
そう言って鳴海がライドウの手を包み込むようにして引いてやれば、引力に従ってライドウが腰を上げた。
「いい子だ。――さあ、帰ろう。事務社にさ。」
素直に立ち上がった人形に微笑みかけて、鳴海は歩き出す。
手を繋いだまま、肩を寄せて一緒に。
「……。」
ライドウは何も言わず、鳴海の隣に並んで歩く。黙々と。
親が子供にするようなこの行為を、ライドウは嫌がっていないだろうか。
心配になった鳴海が、ちらりと隣を窺ってみると、ライドウの視線は繋がれた手に落ちていた。
やはり何か気になるのか?
「あー……やっぱ、手を繋がれるのは嫌だったりする?」
鳴海がそう訊ねると、ライドウは視線をそこに留めたまま微かに首を横に振った。
それは――否定?
繋がれた手を見つめたまま、ライドウがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……この、行為は……。」
「うん?」
「……。」
「行為が――何?」
「何と言えばいいのか、分からない……適切な言の葉が……見つからない。」
「良いよ。分からないままでいいから、思ったことを言ってみな?」
優しい声音で促せば、ライドウがきゅっと鳴海の手を握り返して言う。
「……高い熱源が、伝わってくる。」
「それは俺の手が温かいってことを言いたいのかい?」
「あたた、かい……。ああ……その表現が、正しいのか。」
「そうだね、多分。――気持ち良いだろ? 冷たいよりも、さ。」
鳴海が笑って握り返してやれば、ライドウが不意に顔を上げて。
「――悪い、気分では……ない。」
「……っ!?」
ライドウが笑った!?
驚きのあまり、思わず立ち止まりかける。
けれど、その微笑は瞬きした次にはもう消えていた為に、鳴海の足が止まることはなかった。
(……今のは……目の錯覚か?)
空いている方の手で目を擦り、鳴海はもう一度ライドウを見つめ返してみたが、やはりそこにはいつもの無表情な人形しか居なかった。
「うーん?」
鳴海が首を傾げて唸れば、隣から冷たい声が掛かる。
「何を……唸っている。問題ごとでも、生じたか。」
「あー……いや。何でもない。」
「……そう、か。……ならば、いい。」
ありがたい事にライドウはそれ以上を追求することをしなかったので、鳴海は安堵した。
(こういう時、ライドウのお人形さんっぷりな無関心さは助かるな――って。ゴウトが聞いたら、怒るだろうけど。)
牙を剥いて毛を逆立てたゴウトの姿が見事に浮かび、鮮明な想像に笑う鳴海。
そしてライドウの手を引きながら、言う。
「さてと。んじゃ、さくさく帰ろうか。」
「何度、同じ言の葉を使う。……理解は、している。」
「口答えは可愛くないぞ、ライドウちゃん。」
「……口以外に、何で答えろというのか。」
「……もういいよ。俺が悪かった。」
噛み合わないやり取りに苦笑し、鳴海はライドウを連れて来た道を戻っていく。
そうだ、とりあえず今は早く事務社に戻ろう。
温もりを持ち始めたライドウの手が冷えないうちに。
また氷に戻らないように、早く。
その微かな温もりを連れて、帰ろう。
冷たい夜の道中、手を繋いで。
ライドウに温もりを伝えながら。
ライドウの温もりを感じながら。
その道中、ふと鳴海はライドウに対する説教のことを思い出したのが、今夜のことで少々考えが変わったせいか、暫くは目を瞑ってやってもいいかな、と甘い考えを抱いた。
あまり口煩く言うのもなんだし、夜遊びもしたい年頃だろうし。
あー、でも。煙草や女性との遊び方とか覚えちゃうとマズイよな。
その前に俺が止めないとな。んで、ビシッと言ってやればライドウもこのままで――。
と、何だかどんどん保護者度が進んでいる鳴海だが、彼はライドウのことで頭が一杯で、そんな自分の変化になど気づきやしなかった。
それは、ある寒い夜の日。
氷の美貌の人形と、初めて手を繋いだ出来事。