逆月に酔うもの
01.戯れ
鳴海は時々、遅い時間に帰ってくる日がある。完全に夜が更け、無音の闇が訪れる時刻になってようやく帰ってくる日が。
まあ、夜遅くまで何処で何をしてようが、別に構わない。それは鳴海の自由だ。彼の自由を束縛する権限は無いし、縛す気も無い。
しかし――。唯一つだけ、どうにかならないものかと思うものがある。
それは……。
◇ ◇ ◇
夜。
静かな事務所内に、突如として電話の呼び出しが響いた。
それを耳にしたライドウは、溜め息を吐く。そして、悲鳴のような音を立てる電話機に向かうと、受話器を手に取った。
「……はい。こちら、鳴海探偵事務所です。」
返事をすれば、何処か申し訳なさげな女性の声が返ってきた。
「ああ、ライドウ君かい?……すまないねぇ、こんな夜更けに。もしかして、寝てるところを起こしたりしたんじゃないかい?」
その声は、料亭竜宮の女将のものだった。
「いいえ。起きていましたから、お気になさらずに。」
「そうかい?ごめんねぇ。それで、あの、悪いんだけどさ……。ちょっと、迎えに来てもらえないかい?」
「……鳴海殿、ですね。」
「ああ、そうだよ。……全く、この人ったら何があったのやら。悪い酒をだいぶ飲んじまったみたいでね。
それで完全に悪酔いして、一人じゃ帰れない状態なんだよ。車を呼んでもいいんだけど、鳴海さんを一人で乗せるのはねぇ……。」
「分かりました。これから直ぐに、そちらへ参ります。」
「ありがとう、ライドウ君。あんたは良い子だね――」
「出掛けるのか、七綺。――……また、鳴海か?」
電話が切れるのと同時に、ゴウトが話しかけてきた。頷く、七綺。それを見て、黒猫まるで人のように首を振り、やれやれとばかりに溜め息を吐く。
「あいつめ……七綺より大人のクセに、何という醜態を。お前も、いちいち真面目に迎えにいくことなどないんだぞ?」
「……そうは、いかない。それだと、竜宮の女将殿に負担がかかったままになってしまう。」
「まあ、そうだが。ならば、道中の何処かに置いてくれば良い。躾にもなるぞ?」
ゴウトが笑いながらそう言えば、七綺も困ったように苦笑する。
「鳴海殿は、此処の主だ。俺たちが世話になっている以上、それは許されることではない。」
「世話になっているのではなく、世話をしている、の間違いではないのか。」
「……鳴海殿も、色々してくださっているんだろう。……陰で。」
言いながら、玄関先に掛けていた外套を身に纏う七綺。学帽を被りなおしながら肩越しに振り向いて、ゴウトに言う。
「ゴウトは先に寝ててくれ。迎えには、俺一人で良いだろうから。」
「そうか? ……まあ確かに、この身では手伝えることも無いな。分かった、じゃあ俺は先に寝ているぞ。気をつけろよ?」
「ああ、わかっている。じゃあ、迎えに行ってくる。」
外套を翻し、戸に向かう七綺。
その背に、ゴウトが声を掛ける。
「何かあったら、その時は鳴海を遠慮せずに捨て置いて、お前だけは無事に帰ってこいよ。」
そんなゴウトの言葉に、七綺が肩越しに振り返り――眉を寄せて、困ったように笑った。
◇ ◇ ◇
「ら~いど~うちゃ~ん。」
銀座町、料亭竜宮に到着したライドウを迎えたのは、何処までも間延びした男の声。
建物の入り口前で、着崩れた格好の赤い顔をした大人が、だらしなく座り込んでライドウに向かって手を振っていた。その傍らには酷く困った顔をした女将が立っていたが、ライドウに気づいた途端に安堵の表情を見せ、だらしない大人――鳴海と同じように、手を振った。
どうやら余程困っていたらしい。
女将の心中を推して量りながら、ライドウが庇を下げて溜め息を吐く。
そしてそのまま近づくと、彼らの前に立ち口を開いた。
「遅くなりました。申し訳ありません。」
「そんなことはないさ。早かったよ、ライドウ君。ごめんね、こんな夜更けに。」
「いいえ、謝るべきなのは此方の方です。本当に、申し訳ありません――」
ライドウがそう言って深々と頭を下げると、女将が慌てて彼の肩に触れ、押し止める。
「ああ、ああ。ライドウ君、頭を上げな。良いんだよ、良いから。あんたが、そこまで頭を下げる必要は無いんだからさ――」
「ら~いど~ちゃ~~ん。悪いけど~肩貸して~~。足がね~何かね~俺の言うことを~~聞~~~てくれないのよ~~。あははははは……」
語尾をだらしなく伸ばした口調で話す鳴海を見て、ライドウが庇に手を掛け、ふうっと溜め息をついた。
「……とにかく、鳴海殿を連れて帰ります。御迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ありませんでした。後日、必ず御詫びに伺わせて頂きますので……。」
女将に向かって話しながら、鳴海の肩を担ぎ上げ一礼するライドウ。
それを見て、女将が微笑して言った。
「――あんたは本当に良い子だね、ライドウ君。」
そう微笑む女将の目には、何処か憐憫に似た色が宿って見えた。
◇ ◇ ◇
「ライドウ、こいつ捨てちゃって良い?」
引っ張り上げている鳴海を見下ろしながら、ライジュウがうんざりしたような溜め息を吐いた。
「……いや、済まないがそれは……。もう限界というのなら、退いてくれて構わないが?」
鳴海の肩を担ぎ上げたままでライドウが答えれば、ライジュウは肩を竦めて。
「はぁ~~あ。大したサマナーだぜ、お前はよ。ま、俺も悪魔だ。も少しだけ手伝ってやるよ。」
「……ありがとう。」
「良いってことよ。しっかし、上司がこうも無能じゃあな。ライドウ、もちっと将来考えてみ?」
「……。」
ライジュウの嘆息に、ライドウは苦笑のみを浮かべただけで敢えて何も言い返しはしなかった。
ようやく事務所に辿り着いたのは、それから一時間以上経ってから。
ライジュウには御礼も兼ねて、いつもより多めにMAGを渡して帰還させた。
その後は、ライドウ一人で寝室まで歩いていく。細い肩に、酔い潰れた大きな大人を担いで。
「鳴海殿、お部屋に着きました。」
「――……。」
「鳴海殿? ……意識が……無い、のか……?」
返事が無い鳴海を一瞥し、ライドウが静かに息を吐く。
先程まで耳元で何やら独り言のように呟いては何かと絡んできたのに、今は妙に静かになった。気味の悪いくらいに、大人しく。
「……――。」
出来れば、早く大人しくなってもらいたかった。
そんな鳴海に、ライドウは音の無い溜め息を付いた。今日は溜め息の多い日だ。
部屋の戸を開け、寝台のある場所まで鳴海の身体を引きずるようにしてライドウが歩いていく。
ぎしり、ぎしりと、床の軋む音が、いつも以上に大きく聞こえる気がする。
ライドウはここで、自分の息が上がっているのを感じた。気のせいか、足が少し重い。
鍛錬不足だな――と、心中で呟いて、鳴海を寝台の上に下ろそうと肩を下げた時だった。
鳴海の体が微かに揺れた――と、思った次の瞬間には、天井を仰いでいた。
一瞬にして変化した視界に思考が止まりかけたが、直ぐに押し倒されたのだな、と判断がついた。ライドウを見下ろすような形で、鳴海が圧し掛かっている。
「……。気がつかれましたか、鳴海殿。ご気分は如何ですか?」
ライドウが表情も変えずに静かにそう問えば、鳴海が口端を上げて笑った。
「……ははっ。これくらいじゃ動じないのな、ライドーちゃんは。」
鳴海の声に、何処か残念そうな声音が含まれているのを聞き取ったライドウが、少しだけ眉を寄せた。
それから、心中で溜め息を付く。
(ああ――……また”コレ”か。)
鳴海は酷く泥酔すると、よくライドウにこんな方法で絡んでくるのだ。
介抱するライドウとしては、最初の頃は適当にあしらっていたのだが、ここの所それにも少しばかり疲れを覚えていた。
酔って帰って来るのは構わない。ただ、唯一の困る事態がコレだった。
けれどライドウは、それでも疑問を吐露するようなことはしない。平然とした顔で、返答をする。
「驚いたほうが、鳴海殿の希望に沿うたのでしょうか。」
「いや、まぁ……驚く顔も見てみたかったけど、意識ぐらいはして欲しかった、ってところかな。」
「……。」
鳴海の言葉と行動の意図がよく掴めず、ライドウがそのまま沈黙すると、それを見た鳴海が苦笑した。
鳴海が、ライドウの学生帽に手を伸ばしながら言う。
「とりあえず、こういう時は帽子を脱ごうな、ライドウ?」
そう言って、鳴海が剥ぎ取るように帽子を払えば、その素顔が露になる。
衝撃を受けたのか、ライドウが大きく眉根を寄せるのが、はっきりと見えた。
ライドウの目の端で、帽子がゆっくりと床に落ちていく。
「帽子を取ったら、お前さんも普通の子に見える――……と思ったが、予想が外れたな。」
なかなか、どうしてどうして。
庇の下に隠された素顔、その美貌は相変わらず冷たいまま。
幼さが残る風貌をしているのに、ひんやりと冷たい視線と雰囲気に掻き消され、唯の人には到底見えない。
”普通”など、何処にも見えない。
その前にこれが”人”として見えるかどうか。
(まだ、ライドウのままだから――か?)
「……。鳴海殿のなさりたい事が、解りません。」
冷たい声。冷ややかな視線。
ああ、これは未だライドウだ……と鳴海は思う。
「鳴海……で良いよ、ライドウ。」
「それは承服しかねます、鳴海ど――」
ライドウの言葉は、そこで途切れた。
否、鳴海の口付けによって絶たれた、と言ったほうが正しいのかもしれない。
「……、っ……ん……――」
口内に侵入してくる生暖かい感覚に、ライドウは背筋に悪寒が走るのを感じ、ぎゅっと眼を閉じた。
人の体温が酷く不快で――……眩暈が、する。
「凄い嫌そうな顔、してるな。」
唇を離して間近で問えば、ライドウが眼を開けて唇を手の甲で拭った。
そして珍しく険しい顔をして、そうして口にする言の葉は棘のある問い掛け。
「……酔いの上での戯れ事なれば、即刻お止め下さい。……私は、遊女ではありません。」
ライドウの冷めた目に、青い炎のようなものが浮かぶ。
感情で例え表すならば、それは恐らく蔑む様な敵意。
けれどそれを受けても鳴海は平然としていて、薄っすらと微笑して、問い返す。
「ふぅん……戯れならば止めろ、ね――じゃあ、戯れじゃ無かったら?」
「……!」
ライドウが押し黙り、不意に視線を逸らした。
その瞳に浮かぶのは、困惑。
――幾許かの戸惑いと、不安。
人らしい感情が浮かぶのを見て、鳴海が相手に気づかれないような微笑を刻む。
(”ライドウ”が剥がれてきたな――……。)
そうして微笑しながら、追い詰めていく。
緩やかに侵食する毒のように、追い詰めて――。
彼の書生から、”ライドウ”を、ゆっくりと剥ぎ落としていく。薄く、けれど確実に。