夢々の月香に
03.月香の帳
それは甘い甘い夢の中。
毒のように恐ろしく強い効力を持った香りが漂う、「夢」の中。
「あっ……は、――ぁあ……」
身体が溶けてしまいそうな悦楽の海に身を委ねれば、獣のように醜い姿態を晒しながら与えられる快楽に溺れていく。
「ははっ……相変わらず悦い声を上げるねぇ、ライドウ。」
情欲に濡れた声で笑う獣じみた影が、首筋に舌を這わせて喰らい付いてくる。
「んっ――か、はっ……あ、ぁ……な、鳴……海、殿っ……」
白い喉を仰け反らせ、嬌声を上げる青年。
彼の者は確か優秀なデビルサマナーであったようなのだが、今は其処に面影は無い。
部屋に焚き篭められた月香に溶かされて、もう何処にも理性は無く。
正気かどうかも分からず、夜を待つ。
ただ、夢を見るために。
その為だけに、狂った眠りに――いや、眠りでは無い何かに、堕ちていく。
◇ ◇ ◇
衛星タイイツの帝都墜落は、仲魔を連れたゴウトがその身を挺した事により阻止された。
だが人々を護った代償に、ライドウは大切な仲魔と大事な目付役を失うことになる。
砕かれた野望。
本来ならば喜ぶべき結果なのだが、犠牲があまりにも大きすぎた。
砕け散った命。名前を呼んでも、もう黒猫の足音は聞こえない。
真名を呼んでくれる唯一の存在が、呆気なく消えてしまった。
それでもライドウには、立ち止まっている暇は無い。
七綺は葛葉ライドウとして、歩みを止めてはならないのだ。
ひとりきりの踏査。
その最中、ライドウは何度、意味も無く空を見上げたことだろう。
何度、霞む空を見上げては黒猫の名前を口にしてみたことだろう。
ゴウト、と。
名前を呼んでも返事は無く、一人きり。
ゴウト。
ゴウト。
――業斗、童子……。
ずっと付き添っていた黒猫が居なくなってからというもの、ライドウの眠りは浅くなってしまった。
眠れぬ夜。
消えぬ光景。
赤い夕焼け。
網膜に焼きついた惨劇が消えず、それだけが残り。
遺された心が、砕かれて。
夜毎うなされ、何度も飛び起き、黒猫の姿を探し。
身を切るような――事実、身を削られていく日々を過ごしていたライドウ。
その隙を突いたのは、濃密な香漂う歪んだ夢だった。
夢の名は――”鳴海”
毎夜訪れる鳴海との”夢”は、止める者を失ってからますます浸食が進んだ。
狂える蜜さながらにライドウの身体に纏いつき、四肢を絡めとり、心すら逃がさず。
「怖くないよ、ライドウ。……ふふっ、だぁーい丈夫だから、ね。」
緩やかな狂気を以ってして、鮮やかにライドウを手に入れた鳴海。
狡猾な手段。あざとく、卑怯な。
けれど……非難するものは、もう居ない。
止めるもの無き鳴海の”夢”は、思うがままにライドウを蝕み、陥れていき。
そのせいで、ライドウはすっかり――……夜の中でのみ、己を見失うようになってしまっていた。
「あ、ぅ……っふ、うぁ、あ――……っは……。」
毎夜、香に溶かされた快楽が囁きと共に爪を立ててくる。
注ぎ込まれる毒は蜜のように甘く、肢体の何処彼処にも絡み付く。
「悦い声だね、うん……もっと聞かせて。もっと俺の為に――声を、上げて。」
足を開き肉を広げ、傷口に塗り込められる鳴海からの毒に、ライドウは酔う。
酔うと言っても、陶酔しているのではない。
声を上げてはいるが、その視線は鳴海に留められているのではなく、何時も何処かを彷徨っている。
半ば呆然として、鳴海に抱かれて。
月明かりによって鳴海の姿が見えてはいるものの、ライドウが見つめているものは室内の闇。
鳴海に身体を突かれながら、ライドウは何気なく視線を戸口に向けた。
しっかり閉めていなかったのか、見れば戸が僅かに開いている。
「……? ――……っ!?」
その隙間に意識を向けたライドウが、不意に短く息を飲んだ。
廊下の奥に広がる闇の中。
其処に、悲しい顔をした猫を見た――気が、した。
「……っ! ゴ、ウ――……っ!」
ライドウは思わず正気に――七綺に返り、縋らんばかりに手を伸ばす。
しかし幻めいた猫は、何処か悲しげに目を細めると、そのまま廊下の闇に溶け込むように消えていった。
「ご、ぅ……、――と……。」
猫は、さよならも何も言ってはくれなかった。
その無様な姿は何だ、と。
叱ることすらもせずに、放って……往かれた。
「――なぁーに。どしたのさ、ライドウ。」
代わりにその手を掴んだのは、鳴海。
幻覚を見たライドウには気づかず、むしろ自分が求められたのだと思ったらしく、手を繋ぐようにして重ねると、顔を寄せて囁きかける。
「まだ足りないのか? あっはは……どうして欲しいか言ってみろよ、うん?」
「ヒッ……! いっ、うぁ……――あああっ……!」
強く、奥まで――深いところまで突き上げられて、骨が、肉が、軋む。
身勝手に揺さ振られる中、僅かに残る自我をかき集めて再び廊下の奥を見るも、其処に猫の姿はやはり欠片も無くて。
ぐらり、と視界が歪む。
けれどそれも直ぐに引き戻されて現実へ。
「何ー処見てんの。いつもぼーっとしちゃってるのには慣れたけど、あんまりコッチを疎かだと、温厚な俺も怒るぜ?」
優しい声音で話しかける鳴海だが、その目に宿った光は欲に塗れ溺れる獣そのもの。
「まあ、暴れない分だけマシなんだろうけど……くくっ……あっは! なぁんてね。」
特に返事を待つわけでも無く一人で喋ると、ライドウの後頭部に手を回し、髪を掴んで虚ろな瞳を覗き込んだ。
仰け反って露になった喉に唇を寄せ、青褪めた白い肌を舐め上げながら鳴海は言う。
「ねえライドウ、もっと良い夢を見させてあげる。これからもずっと、こうやってさ。」
月の毒に浸された贄の身体に、一身に喰らいつく獣。
「だからもっと声を上げろ。俺によがって、狂ってみせろ。なあ、ライドウ――!」
敷いた策略に、獲物が見事に掛かったと喜んでいるのか、一人で喋り続ける鳴海は楽しそうにライドウの身体を貫き、激しく揺する。
既に己もどっぷりと毒に侵されていることにも、気づかずに。
終わらない夢。
これからも続く――”鳴海”の、夢?
いいや、いいや。
終わらせない。
これはもう鳴海の”夢”では無いのだから。
「……な、るみ……どの……。」
そんな鳴海を、ライドウは――七綺は、少し醒めた目をして見つめていたが、そのうちに酷くゆっくりとした動作で相手の背に腕を回すと、目を細めて笑みを浮かべた。
それは最早、嘲弄。
窓から窺い見える夜よりも昏い瞳で鳴海を見つめ、七綺は声も無く、哂う。
この毒が全てを侵すまで。
その香が全てを満たすまで。
貴方が堕ちるまで、終わらせない。
七綺は口端を吊り上げると、鳴海の背に回した腕に力を込めた。
そうした上で、失った猫の面影を消すように、背にきりりと爪跡を残して笑う。
貴方もどうぞ、壊れてください鳴海殿。
俺のように。
俺より酷く。
毒に触れた俺ごと喰らって。
さあ、どうぞ見事に。
――壊れてしまえ。
七綺の狂乱めいた声無き嘲笑は、鳴海には聞こえない。
月の帳に隠されて、何処までも続く夢の中。
毒に塗れた二人が堕ちていく先は、何時しか終わりの無い深淵へと向かうだろう。
けれど――奈落へと堕ちていくのは独りではないから、寂しいと感じることも無い。
さあ……一緒に壊れて生きましょう鳴海殿……――。