夢々の月香に
02.月香の理
鳴海探偵事務社。その窓辺に凭れかかりながら、ライドウはぼんやりと考えこんでいた。
顔は窓の外に向けられてはいるが、視線は何処も見ていない。
両手を重ねて弄ぶようにしながら、気怠げに溜め息を吐く。
「……。」
今は、現実だと思う。
試しに手の甲に爪を立ててみると、ちりりと鈍い痛みが走るのを感じる。
ああそうだ、これは現実。
俺は、夢の中には居ない。
多分、現実。
「……。」
今は、夢じゃない。
試しに手の甲を引っ掻いてみると、ぎりりと倍増した痛覚が思考を明確にさせてくれる。
ああそうだ、これは夢じゃない。
俺は、現実の中に居る。
多分……きっと。
◇ ◇ ◇
「――っ!? 七綺、何をしているっ!」
「……え、……?」
ゴウトの驚愕した声が名を呼んだところで、ライドウが――七綺が我に返った。
見れば、ゴウトが制するように七綺の手に前足をかけ、眉根を寄せている。
「……何だ、ゴウト?」
半分唖然とした口調で訊ねれば、ゴウトは更に深く眉を寄せ、溜め息を一つ。
「……七綺。お前は今、己が為している行為が分からないのか?」
「え? ――……あ。」
ゴウトの視線に合わせて、下方――自分の手の甲を見れば、そこには鮮やかな引っ掻き傷。
自分で自分を傷付けていたのだ。気づかずに、がりがりと。
その自傷行為に、七綺は愕然とした顔になる。
「あ、……。」
どうして、こんな真似を。
どうして、痛みを感じなかった?
じゃあ、これは……これは、現実じゃないのか……?
「……っ。ゴウ、ト……っ!」
七綺が狼狽したように声を上げ、ゴウトに手を伸ばした。
「な、七綺? どうしたというんだ。何かあったのか?」
縋りつくように抱き込まれたゴウトが、七綺の怯える様を見て戸惑いの表情になる。
身体に巻きつく手が冷たいことにも、危惧を覚えた。どうしたのか、妙に冷たすぎる。
七綺は何かに耐えるように眼を閉じながら、独り言でも呟くような声で言葉を口にした。
「ゴウト、俺は……――俺は、少しおかしいのかもしれない。」
「何……?」
「ゴウト、ゴウト……これは……今のこれは、現実だな?」
「七綺、何を。」
「……ゴウトは、今ここに居る。そして、こうして温かい……なのに、どうして俺は自分の手の痛みを感じなかったんだろう。」
「――七綺。落ち着け、気を静めるんだ。……ほら、ゆっくりと呼吸をして、気を整えろ。」
「ゴ、……ゴウト、ゴウト、俺っ」
「深呼吸だ、七綺。――ほら。」
「あ、……ああ、うん……。呼吸、……はあ。」
七綺の肩が、ゆっくりと上下する。
それとともに吐息が吐かれ、冷たかった七綺の手の体温も戻り始める。
緩やかに静まる気。そして若干は落ち着いたのか、七綺がぽつり、ぽつりと話し出す。
「ありがとう、ゴウト……少し、落ち着いた。見っとも無い様を見せて、すまない……。」
「いや、それは構わんのだが……しかし、一体どうしたというんだ? 今のお前は酷く迷走しているぞ、何もかもに。……よかったら、話してみないか?」
柔らかい声で語りかけるゴウト。
背を伸ばして七綺の頬に鼻先を押し付ければ、七綺が視線を落として答えを返す。
「……最近、夢見が悪いんだ。」
「夢見? 先見の類か?」
「違うよ、俺にそのような能力はない。……なんというか……よく分からない、夢――で……。」
七綺の言葉に、ゴウトが難しい顔をして考え込む仕草をした――が、少し置いて嘆息をつくと、お手上げだと言わんばかりに唸リ声を上げた。
「意識が眠りにつけていないのか、それとも疲れが残ったままなのか……むう、専門外だ。
俺にも、どうすればいいのか分からない。……役に立てんで、すまんな。」
「あ、いや……いいんだ。ゴウトが謝る必要は無い。きっと俺が、不甲斐ないだけなのだから。」
僅かに項垂れるゴウトを見て、七綺が首を振り、その背を撫でる。
そしてゴウトから離れると、傷を付けた自身の手の甲に眼を落とし、苦笑した。
今になってようやく、ちくちくと痛み出した傷。
その痛覚に、おかしなことだが安堵する自分が居る。
痛みがあるから、これは現実なのだと……安心、出来るから。
「しかし、本当に何をやってるんだろうな、俺は。」
「七綺。必要ならば、薬師の処へ赴いて、処方箋を貰ってきてやるぞ?」
「ありがとう。でも、それは遠慮しておく。――薬は、あまり好きではないんだ。」
「そうか。……ならせめて、薬湯でも飲んでおけ。顔色が良くない。」
「……うん。」
「いいか、七綺。本当に辛くなったら、無理をせずに俺を呼べよ。分かったな?」
「分かった。ありがとう、ゴウト」
子供じゃないんだけどな――。
七綺は心中でそう呟き、苦笑する。
けれど、ゴウトの気遣いが嬉しかったのは事実。
だからそれ以上は何も言わず、言われたとおり、薬湯でも作って眠りに就こうかと考えた。
◇ ◇ ◇
そして、その夜。
昼間ゴウトと会話したせいか、心持ち気分が軽い。
今夜は良く眠れそうだ、と。
寝台の側の小さな机の上に飲み干した湯飲みを置いて、身を横たえた。
ああ、安らかに眠れる。
うとうと、と。
まどろみ始めるライドウ。
だが。
「……っ……!」
きしり、と床が軋む音を聞きつけ、びくりと意識が反応した。
覚醒させられた中で、ライドウは聞こえる音に耳を澄ませる。
きし、きし、きしり。
それは人の足音。
ゆっくりと、近づいてくる気配。
そっとドアが開き、人影がやって来る。
そしてまた静かに閉じられるドアは、施錠の音のみを響かせて。
――かちゃり。
きし、きしり、きしと。
近づく足音。
それと共に、室内の空気も変わりだす。
甘ったるく妙に鼻につく匂いが、ライドウに――七綺に絡み、動きを封じる。
「……っ……ふ、……。」
ああ、夢が来た……。
溶けていく理性を押し止めるように手の甲に巻いた包帯ごと拳を握り締めれば、ずきりと鈍い痛みが走り、ハッとする。
――これはまだ、現実……?
愕然とした七綺が眼を開けると、側までやって来ていた影と目が合った。
視線に気づき、笑う人影。
「……何だ。また、意識があるんだ?」
寝台に腰掛けた影は七綺の頬に触れながら、くつくつと笑う。
「もしかして、俺が来るのを待っててくれたのかい?」
「……な、……る、……」
重い身体、気怠い思考。
ああ、舌が上手く回らない。其れほどまでに、怖ろしく強い薬香。
七綺の声を聞きつけた影が――鳴海が、顔を近づけて囁くように言う。
「ふふっ……――じゃあ、今夜も良い夢を見ようか?」
唇が触れるか触れないかまでに、距離が縮められる。それから逃れるように、顔を背ける七綺。
「……や……だ……っ」
「うん? 何だいライドウ。」
近い吐息、直視の視線の前で、七綺は必死に言葉を紡いで言い返す。
「もう、……こ、んな……こと、は……止め、……くだ……さ……」
「あはは、そんな顔しないでよ。何回も言ってるだろ? これは、夢だってさ。」
鳴海が鼻先で笑い、七綺の夜間着を剥いでいく。
震えながら七綺は頭を振り、儚い声から拒絶の言葉を吐く。
「ゆ、めじゃ……――夢じゃ、……ない、……もう、こん、な……どうか……止め、……。」
「ラーイドーウちゃん。」
鳴海が一旦上体を起こし、七綺を見下ろすように見つめた。
その表情は、窓から差す逆光のせいで、よく窺えない。
けれど――気配が、哂っていた。
「ひ、……っ! あ……っ」
急に伸びてきた手が、七綺の腹部に触れた。それはからかうように這い回りつつ、ゆっくりと下へと下りていく。虫が這うような嫌な感覚に、七綺がぎくりと身を硬くして首を振る。
「や、め……っ……な、る……鳴海、殿っ……!」
「ねえ、ライドウ。これが夢じゃないのだとしたら、さ。――お前さんは、どうするんだい?」
「え? ――……んっ!」
温かい掌が七綺自身を包み、上下に動く。
そんな中で、鳴海の質問は続けられる。
「ね、ライドウ? もしも、これが夢じゃないのだとしたら……現実なのだとしたら、どうだっていうんだい?」
「はっ、ぁ……っあ、あ、……っな、や、……――っ」
「俺は別に困らないけどね。ああ、全くに困らない。今更だしな……ははっ。」
「……ぅ、あ……っはぁ、あ、……」
「むしろ困るのは――ライドウだよ。」
ここで不意に手の動きが止まり、息を付けた七綺がようやく問い返す。
「な、ん……でっ……」
「ゴウトに知られたいかい? この、夢を。」
「な、……っ!」
びくりと七綺が身震いをした。
「あ、ぁ……あ、な、鳴、海……ど、の……」
ひくっと喉を鳴らし怯えた瞳を向ければ、鳴海が子供でもあやすような微笑を浮かべて言う。
「毎夜毎夜、こんなことをされているんだ。それを言うかい、ゴウトに。」
「ふ、……っあ、……」
顔を歪ませた七綺は絶句し、ひたすら身を震わせて鳴海を見つめる。
「な、……嫌……――どう、か……どうか、それ……だけ、は……っ!」
「あはは……可愛いねぇ、ライドウちゃん。じゃあ、さ――もう一回、聞くよ?」
言いながら鳴海が七綺の顎を掴んで上を向かせ、哂う。
「お前は、これが夢じゃ嫌かい?」
「あ、ああぁ……――」
「ラーイドウ?」
「……っ、で……す。」
「聞こえないよ。」
「夢、です……。これ、は……この、今は……夢、です――……夢の、方が、……いいっ……」
「素直で悦いよ、ライドウ。ははっ……じゃあ、今夜も一緒に愉しもうね――……」
「ふ、ぁっ……――あ、っはぁ……」
濡れる瞳は、快楽のためかそれとも諦観のものからか。
ともかく、デビルサマナーは堕ちる。
甘い香りのする、曖昧な幻夢の中で。
その狂夢に身を委ねた七綺は既に思考を止め、嬌声だけを上げる。
ああ、そうだ。
これは夢。全くの夢。
だからもう――こうして淫らな快楽に身を委ねてしまえ。
何もかも、全てを。
一切合切を預け、それに添い従えば良い。
夢だから、いいのだろう。
夢だから……知られずに済むのだ。
ただ従っておけばいい。
この夢に。この男に。
「は、っ……はは、……はは、はははは――」
白い喉を仰け反らし、七綺が哂う。
悦楽に瞳を潤ませ、快楽に身を震わせて哂う。
その声に滲むのは、微かな狂気。
そうして見せるのは、鳴海と全く同じ笑み。
そうしてみせるのは、この夢から逃れたいから。
とにかく正気ではいられない。
ならば、同じように愉しみ狂えば良い。
何処までも、何処までも。
きっと終わりの無い夢の為に、捧げる眠り。
ああ、もう。
夢か現か、など……どうでもいい。
この快楽だけに従えば、いいのだろう?
そうさ――堕ちてしまえ、何処までも。
俺と共に、貴方も堕ちていくのだから。