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其は雨音を識るもの

01.告げるものは、ただ静かに



今日は絶好の外出日和だ、と鳴海は空を見上げながら思った。
ガラス越しに見える空は、溜め息が出るほど青く眩しい。
このところ少しばかり鬱陶しい天気が続いていて、少々うんざりしていたのだ。
ようやく姿を見せた太陽を窓越しに見上げた鳴海は、気持ち良さそうに目を細めた。

「うーん。やあっと晴れてくれたか。こういう日は飲みに行くと、酒が旨いんだよなぁ。」
鳴海は舌を舐めると、帽子を片手にいそいそと外へ出ていこうとした。
ちなみに時刻はまだ昼であり、鳴海はつい今しがた起床したばかり。なのに着替えるなり外へ出て行こうとするのだ、此処の事務社所長は。

仕事はどうした三十代。
と、いつもならここで何者か――大概はゴウト――が苦言するのだが、生憎と黒猫は出かけており、鳴海の行動を咎めるものは残念ながら居ない。
「さぁーてと。行ってきま――す。」
意気揚々と戸口へ向かう鳴海。
それを引き止めたのは、日和には似つかわしいほど静かな声。

「傘を持っていけ。」
「……はい?」

肩越しに振り返った鳴海の視線の先には、いつから居たのか人影があった。


◇  ◇  ◇


「……傘を持って出掛けろ、鳴海。」
窓際に佇んだ影は、鳴海をじっと見つめたまま再度同じことを言った。
「ライドウちゃん? 外の天気を見た上で言ってる? 晴れだよ、晴れ。晴天。なのに……傘を持っていけって? 冗談でしょ?」
鳴海は呆れたような顔をして笑うと、わざと疑問符を多用して小莫迦にしてみせた。
けれどライドウは表情を変えず――まあこの書生は滅多に表情を変えることは無いのだが、それでも――同じ言葉を、口にする。
「入用になる。……だから、傘を持って行け。」
「理由は?」
「匂いだ。」
「……匂い?」
「雨の匂いが、する。」
「へぇ……ほんとかい?」
鳴海はますます怪訝そうな顔になり、ライドウの背後の窓をちらりと一瞥した。
ガラス越しに見える空は先程と変わりなく明るく、清々しい青さが広がっている。
窓と同様、一点の曇りもない。
視線をライドウに戻した鳴海は、肩を竦めて言い返す。

「俺には、気持ちいい晴天の匂いしかしないけどね。気のせいじゃないの?」
鳴海の言葉に、ライドウは尚も首を振って言い重ねる。
「否。雨は降る。月に呼ばれて。……雨音も、聞こえる。」
「あーのねぇ……。」
気のせいか、ライドウの言葉はどんどん眉唾めいたことに傾いている気がする。
鳴海は少しばかり身震いし、不可解な相手の言葉に苛立ちを覚えた。
「雨の音って何だよ? 俺には聞こえないよ。」
「音は、音だ。聞こえぬものを聞け、とは言って無い。……傘を持って行け、鳴海。」
「とーにーかーく! こんな天気の中、傘なんか持ってたら笑いもんだ。傘は要らないの。
要らないったら、要らない。」
子供が見せる我侭に似た態度をとりながら、鳴海はライドウの意見を撥ね付ける。

「今日は遅くなるから先に寝てなさい! ――ああ、時間が勿体無い!」
「鳴――。」
「じゃあな、ライドウ!」
何か言いかけたライドウを振り切ると、鳴海は荒々しくドアを開け放ち、そしてそのまま閉めもせずに、足音荒く事務所から出て行ってしまった。

「静かに出ていけんのか、あいつは。」
その鳴海と入れ替わるように、ゴウトが室内へと入ってきた。
「ゴウト殿。――おかえり、なさい。」
「ああ、只今。何だ? あの莫迦者と、何をやり合っていた?」
今の鳴海とのやり取りを聞いていたのか、ゴウトはライドウを見上げて問い掛けた。
「音がどうとか言っていたが、あれは本当なのか?」
「それは先刻の、どの言の葉に対して言っている。」
「天候のことだ。……本当に雨が降るのか?」
「貴方も……信じない、か。」
「いや、そうじゃない。確信が持てないだけだ。俺も鼻はいい方だが――。」
室内をぐるりと見回しながら鼻をひくつかせ、ゴウトが言う。
「――雨の匂い、だったか? そういうものは感じられないぞ。」
「それは、識らないからだ。」
ライドウは窓に寄り、ガラス越しに眼下に広がる町並みに視線を落としながら言い継げる。

「香を知り、音を知れば、分かる。……雨が呼ばれてやってくる。今宵に。」
鳴海に全く信じてもらえずとも、ライドウは意見を言い通した。
否定されても、莫迦にされても、それでも揺らぐこと無く降雨を肯定するその姿勢には、感嘆すらさせられる。

「お前がそういうのならば、雨は降るのだろう。」
そう言って、ゴウトは笑った。
外は確かに晴れているが、この目の前のライドウを見れば意見は変わることだろう。
氷の花。手折れることなく太陽を真っ直ぐに見据えている姿が重なり、溜め息が漏れる。
信じないわけにはいかないだろう、とそんな気になる。

――いいや、疑う余地が何処にある?

(全く。鳴海はまだまだ愚かだな。)
ゴウトはそんな事を心中で呟くと、ライドウの足元に身体を擦りつけながら話す。
「俺はお前を信じて、夜は出かけないでおこう。雨に濡れるのは真っ平だからな。」
「そう、か。……そうしてくれると、ありがたい。」
往来を歩く鳴海を目で追いながら、ライドウは静かに息を吐く。

「その身を以って識れば……考えは変わるだろう。」
ゴウトに聞こえぬ程度に吐かれた呟きは、遠ざかる鳴海の背に向かってのみ投げつけられた。