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其は雨音を識るもの

02.降雨の中の後悔



「うっわー……なんてこった。」
ほろ酔い加減の鳴海が店を出て、いい気分で帰路に向かう途中のことだった。
何の前触れも無く襲い掛かってきた、急な豪雨。
御蔭様でいい心地だった酔いが、一気に醒めた――もとい、青褪めたのは言うまでも無い。

近代化しつつある町並み。
便利性が高まりつつある近世。
だがその弊害と言うべきか、身を寄せて避難する場所がなかなか見つからないのも事実。
多くはビルヂングへと変わり、軒下は失われ、雨を遮るのに適した場所が見つからない。

「――最悪だ!」
ぼやきながら、雨の中を駆け走る鳴海。一張羅が、帽子が、どんどん濡れて重くなっていく。
昼間あんなに晴れていた空は何処へ行ったのだろう? 幻ではなかった筈だ。夜とは言えど、この急激な変化には舌を巻かざるをえない。
「ああ畜生! 詐欺だ! こんなの狡いだろ……!」
一転した空を睨みつけながら、鳴海はひたすらに屋根を求めて走り続ける。
「俺を騙したな! もう、俺が何をしたって言うんだよ!」
仕事をサボタージュした己を全く顧みること無く、天候に向かって罵倒する三十代。
その姿は少しばかり情け無いものであったが、運がいいのか悪いのか、通りに人気は無い。
故に誰の助けも得られないまま、鳴海は一人きりで雨の中を走るしかなかった。

もしかしたらそれは、何かの天罰なのかもしれない――気が、しないでもない。


◇  ◇  ◇


雨の中、どうにか軒下のある一軒家――それは半ば朽ちかけており無人の廃屋だったが、そこに残る僅かな屋根の下へ――と逃げ込むことに成功した頃には、すっかり濡れ鼠の有様。
悪態をつきつつも、鳴海は其処へ身を寄せた。
「くそっ。だいぶ濡れちまったな。」
無駄だと知りながらも、服についた水滴を払う。だが生地は水を吸ってすっかり重くなっており、そのうえ肌に張り付いて気持ちが悪い。
「乾くまで待つか……って、もうこんだけ濡れてりゃ意味無いよな。」
地面に叩きつける雨の音が、鳴海の呟きを掻き消す。一向に止む気配が無い空模様は、それどころか先程に比べ、強くなっている気すらした。
雨のせいか、夜の闇はいつも以上に深い。
その闇を見つめていた鳴海は、不意に出掛ける前のことを思い出した。

傘を持って行け、と――執拗に言っていたライドウの姿が脳裏に浮かぶ。

「……俺が、莫迦だったのかねえ。」
ライドウの言葉は的中したのだ。
予言めいた言の葉は、見事に当たった。
今になって痛感するも遅い出来事。あれは、たった数時間前のことだった。
「言うこと……聞いてあげれば良かったなぁ。」
ライドウは、何度も傘の必要性を語っていた。――語った、とは言っても、それはただ「持っていけ。」という言葉を口にしただけではあったが、それでも確かに忠告だった。
けれど、鳴海は言うことを聞かなかった。
耳を貸さず、それどころか苛立ちを覚え、ライドウのことを煩わしいとさえ思ってしまったのだ。
晴天を前にしながらも、青空をその目で見ながらも、ライドウは雨が降ると言い切った。

雨の匂いがすると言って。
雨の音が聞こえると言って。
あまりにも、迷い無く言うものだから。
言い切るものだから、何だか少し――……どうにも、気味が悪くなってしまって。

だからつい、子供じみた態度をとってしまった。
そうして愚かな行動でしか反応できなかったのは、多分、ライドウが怖ろしく思えたから。
ライドウのあの何処か人離れした様子には、慣れたものだと思っていたのだが……。

『――雨が降る。月に呼ばれて。』
「夜のうちに雨が降る、って言いたかったんだよなぁ、あれは。」
ライドウの言葉は分かりにくいものだということを、鳴海は知っていた筈なのに。
叩きつける雨の音を聞きながら、鳴海はぼんやりと梁に凭れかかった。
腐りかけているのか、ミシリ、と嫌な音がした。
倒壊されてはまずいので、少し気をつけながら背を預けて空を見る。

『――雨音も、聞こえる。』
「ああ、聞こえるよライドウ。嫌になるくらいに聞こえてる。」
そう考えるとあれも、暗喩か隠喩だったのか。
ライドウはデビルサマナーだから、少しくらい人と違っていても気にしてはいけないのだ。
土砂降りの雨が、鳴海の気分を滅入らせる。
暗い空。夜との境目が全く解らないほど、それは昏く、重く。
夜は暗い。雨が降れば、それは殊更。

『鳴海。』
静かな声で名を呼んだ美貌の書生。
今夜の空の色と、ライドウのあの黒瞳とでは、どちらが闇は濃いだろう。
いいや、ライドウならば、この闇すらも取り込んでしまうかもしれない。

闇に溶ける、虚無。
いっそ一体となって、この雨を止めて欲しいものだと切に願う。

「あーあ。こうなりゃもうヤケクソだ。」
止む気配の無い雨に焦れて、鳴海は嫌々ながら腹を括った。
水浸しになるのを覚悟して帰ろう、と――そんなことを考え、前に足を踏み出した時だった。

――雨が、不意に……弱くなった気がした。

「ん? 止みそうな気配だな。よし、今のうちに――……。」
言いかけた台詞は、駆け出そうとした足と共に途中で止まる。
鳴海は何故か前方の闇を見つめたまま、動かない。
――いや、動けない。

「……?」
何だ?
闇の中に、何か居る。
誰か……居る?
眉間に皺を寄せて凝視すれば、前に広がる闇の一部が、ゆらりと揺れたように見えた。
幻覚か?と鳴海は目を擦る。
その耳に届いたのは、しんとした冷たい声。

「……傘を、持ってきた。」

声に合わせて、すうっと闇の中から人影が現れた。
霞が雨を纏って形を成したような、完璧な静の動きだった。
突き出された片手の先には、傘が一本。
ぎくりとする鳴海。
だが、続いて現れたのは闇でなく、れっきとした書生――ライドウだった。