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氷の雛鳥いつ孵化せしや

01.頭痛の元は朱肉印



この頃、街中を歩いていると擦れ違う人々に笑われているのが分かる。
気のせいだと思いたい。それか、自意識過剰なのだと思い込みたいのだが、しかし残念なことにこれは気のせいではないらしい。
何せ、衆目の視線が思いっきり此方を横目で――どころか、ばっちり捕捉しているのだから。
哀しいことに、過去の経験上、それらが全て気配で察知できるだけ非常に辛い。

この間などは、小用で訪れた金王屋の主人にまで笑われた。
しかも出入り口に足を踏み入れた、早々に。
不躾な対応に顔を顰めながら、店主に笑う理由を尋ねてみたのだが、返された答えは。
「くっくっく……御主は知らんほうが良い……くっくっく……。」
何やら意味ありげに、そして怪しげに笑われて話を締めくくられただけ。
胸に残る二日酔いのような嫌な気分を与えられた鳴海は、何も買わずに金王屋を後にした。
鳴海はそこから、自分を取り巻いている不可思議な謎について考えさせられることになる。

それから、少しして。
今度は、別用で深川に居る佐竹に会いに行った時のこと。
金王屋で遭遇したのと、全く同じ――いや、それ以上のことが起こったのだ。
佐竹が居たのはいつもの銭湯で、そこにはこれまたいつものように幾人かの手下の男たちが居たのだが、全員が鳴海を見るなり笑い出したのだから堪らない。
出逢い頭に、思いっきり笑われた。
しかもそれが噴飯の勢いだったため、心理的に止めになった。
鳴海は憮然としながら佐竹にも意味を問うたのだが、相手は腕を組み直して、一言。
「いやいやぁ……これは知らんままのほうがええで、鳴海ぃ……ぶっははははははは!」
などと豪快に笑い飛ばされ、結局は知れずじまい。
自分の与り知らぬところで笑われるというのは、あまり――いや、かなり、気分が悪い。
というか、そろそろウンザリしてきたのが本当のところ。

誰かいい加減、この辺りで答えを教えてくれ!と鳴海は叫びたくなったほどだ。
けれども勿論、本気で実行しようとは思わない。
往来の最中、大声で叫んだとしても狂人扱いされるだけであり、下手をすれば風間刑事に逮捕されるだろう。
「はー無駄に疲れた。もう外出は止めだ!」
鳴海は苛々した気持ちを抱えたまま、家である事務社へと戻ることにした。
これじゃ事務所に居た方がマシだ、と思ったのだ。

例え、人形と二人きりで少々居心地が悪かろうとも。


◇  ◇  ◇


そうして嫌な気分のまま事務社へ帰れば、丁度、廊下のところである人物と出くわした。
「……。」
無表情な人形が此方に気づき視線を向けてきたので、鳴海は戸惑いながらも声を掛ける。
「あー……ええっと。た、ただいま。」
「……。」
美しい人形が、無言のまま首を傾げる。
この深い黒瞳に凝視されると、どうにもたじろいでしまって、いけない。
「あのね、こういう時は”お帰りなさい”って言って出迎えるもんだよ――ライドウちゃん。」
視線を逸らしながら言えば、人形は――ライドウは瞳を揺らめかせ、こくりと一つ頷いて言う。
「そう、か……。……お帰り、なさい。」
抑揚無い声で鸚鵡返しにされた言葉は、もはや挨拶でもなんでもなかった。
無機質な声とその相貌に、少しも感情が含まれていないのも相まって、それは一つの音を繋いだだけに過ぎない代物のような感じがするのだ。
会話をしている気を起こさせないライドウとの対話は、本当に、いちいちがやり難い。
がしがしと頭を掻きながら、鳴海が言う。

「今日はまた早い時間に戻って来たな。調査の方は、順調なのかい?」
「……。」
また反応が無い。
何でもいいから、せめて言葉を返して欲しい。
「ああ」とか「いや」とか、せめて相槌だけでも何か。
それとも、どの答えを返そうと悩んでいる最中なのだろうか。
とにかく表情が無いから見事に判断がつかない。

何とか言えよ、何でもいいから。
しかしそんな事を言ってみても、きっとライドウは首を傾げて、こう言うだけ。
『どうすれば、良い。』――と返すだけ。
それは、こっちが聞きたいことだし、言いたい台詞だ。
どうしたら良いんだよ。
どうしたら、俺はお前と会話らしい会話が出来るんだ。
「……。」
「……。」
そのまま両方ともが黙ってしまったので、気まずいような沈黙が流れる。
が、不意に戸口を叩く音がして、その沈黙の支配が解けた。

「鳴海さーん。お届けものでーす。」
「お、……あーハイハイハイ。」
助かった、と思った。
「ライドウ、判子とってきて。朱肉と一緒に。応対は俺がするから。」
「……分かった。」
言うなり、足音も無く奥に姿を消すライドウ。
颯爽としたその綺麗な動作に、感嘆しつつ、畏怖の念を抱きつつ。
鳴海は彼を目の端で見送りながら、配達員の応対に向かうため、長い廊下を歩いて戸口の方へ足早に歩いていった。


◇  ◇  ◇


「待たせたね。はい、どうも。あ、判は少し待ってね。今、持ってくるから。」
「あ、……は、はい。」
そこで何故か配達人が苦笑交じりの笑みを浮かべた。
何だ? 俺は今、何かおかしいことでも言ったのか?
鳴海が僅かに眉根を顰めて訝しむ。

「俺が何か――」
「判を、持ってきた。」
笑った理由を尋ねようとしかけた鳴海の背後から、床の軋み一つせずに声が掛かった。
あまりの無気配さに、流石に鳴海はビクリとしたが、けれど何とか平静を保つことに成功する。
「ああ、ありがとう。ライ――」
平然とした表情を繕いながら、ライドウから判を受け取ろうと背後を振り返ったところで。
鳴海はそのまま、硬直する。
ライドウが手に持っていたのは、印鑑などではなく――ゴウトだった。
鳴海は、「判子」を持って来いと言った。
そう言った筈だった
けれど戻って来たライドウの、その手にあるのは――在るのは、艶々した毛並みの黒猫。
疲れてるのかな、あははー……などと思いながら目を擦って再度見返すも、それは何処をどう見ても黒猫である。
艶めいた毛並みが美しい。

――などと逃避している場合ではなくて。
判子を頼んだはずなのに、何故にゴウトが?

「ら、ライドウ? いや、え、ちょっと……」
あまりにも訳が分からない光景に、鳴海がたじろぎ、戸惑う。
だがライドウはそんな鳴海には何も答えず、ずいと配達人に近づくと、冷たさが混じる声で話しかけた。
「……何処に、押せばいい。」
「あ……。」
相手が目を大きく見開いて、立ち尽くす。
ライドウの突拍子も無い行動に、唖然としているのだろう。
――と、鳴海は当然ながらそう考えたのだが。
「……判を押す箇所を、示せ。」
ライドウが再度、問い掛けというよりは全くの命令口調で言えば、相手がはっと我に返って、行動を起こした。
「あ、はい、すいません! こ、ここに。」
「分かった。」
ライドウが、指定された箇所にゴウトの前足を押し付けた。

むきゅ、と。
そんな柔らかな音が聞こえてくるような光景だった。
後には、朱色の見事な肉球印が一つ。

「……これで異存ないか。」
と、ライドウが言えば、驚いたことに相手は大きく頷いて。
「はい! ありがとうございました!」
どうやら、彼が立ち尽くしていたのはライドウの美貌に当てられていたからためらしい。
配達員はひどく嬉しげに赤面したままで、元気よく外に出て行った。
猫の足跡を付けた受け取り書を、普通に手にして。

「……。」
呆然とする鳴海。
この事態は何だ。
いつから肉球が判の代わりになったんだ。
鳴海が呆けているところに、ゴウトから声が掛かる。
「……お前の気持ちは分からんでも無いぞ、鳴海。」
「……どういうことか、説明してよ。」
ライドウの胸に抱きかかえられ、足を丁寧に拭われているゴウトに、鳴海が疲れたような顔をして目を向ける。憔悴と言ったほどではないが、疲労の色が強い。
そんな鳴海を見て、ゴウトは苦笑しながら言い返す。
「近頃、お前が不在の時に限って、こういった来客が多くてな。俺としては応じるわけにはいかないから、そのまま無視していたんだが……少し目を離した隙に、七綺が応対してしまってな。」
「うん。それで?」
「その時も、今と同じような状況だった。宅配物があったんだろうと思う。
そしてその際に、今のように受け取り印を求められたんだろう、アイツは。」
「ああ、うん。その流れは分かる。分かるけど……なんで仮定形?」
「ああ、それは……その、な。」
ゴウトが遠い目をして、言う。
「その時、俺は昼寝をしていてな。アイツは、俺が目を覚ますまで俺を起こしはしないだろう? ――つまり、七綺に指示を与えるものは居なかったのだ。」
「お前さんたちの仲の良さは知ってるよ。……俺が聞きたいのは、何で判子がお前さんの足跡になったか、ってことだ。」
「七綺の教養に偏りがあるのは分かってるな?」
そう言って、ゴウトが前足の肉球を見せ付けるように上げた。

「コレが結末だ。」
「いやいや、理解出来ないから!」
唐突な答えに同意できず、鳴海が首を振った。
ゴウトは、ふうと溜め息を吐いて説明を繋げる。
「七綺は、形が成せるものを判印だと思ったらしい。だから、これで事足りるのだと認識してしまったんだろう。」
水に浸かった後に歩けば地面に足跡が残る原理を応用して、ライドウはゴウトの足跡を朱肉に押し付けて代用した。
それで良いのだと、思ったから。

「だからといって、相手も許すか!? 普通は通用しないだろ? 足跡だぞ? 断るだろ!?」
鳴海の剣幕に、今度はゴウトが首を振って言い返す。
「あのな、鳴海……普通の人間が、こいつを前にして、まともに対応し返せると思うか?」
「う……。」
そこで鳴海の言葉が詰まった。
そうだ。ライドウは、書生という平凡な肩書きでは居るが平凡じゃないのだ。
人形かと見紛うほどの美貌を持ち、全くの無表情、無機質の声を持っている。
身に纏う気配も無に近く、その闇色の瞳に凝視されれば、あっという間に意識が陥落させられてしまう。
普通の人間が、こんな得体の知れないものとまともに対峙するなど、出来る筈が無い。
一緒に暮らしてる鳴海だって、今でも戸惑うくらいなのだから。
「そうだけどさ、でも……うーー……。」
釈然としない鳴海が額に手を当てて、唸る。
そんな鳴海を労わるように、ゴウトは同情めいた声音で話しかける。
「まあ、俺も正しい知識へと導いている最中だ。手間が掛かるだろうが、暫く辛抱しろ鳴海。」
「はぁー……そうだな。お前さんも大変だろうしね。分かったよ。」
立ち直ったのか、苦笑して顔を上げる鳴海。――だったが、そこでふとある事に気づいて眉根を寄せた。

「……ちょっと待てよ? ここ最近の対応は、ライドウがしてるって言ったよな?」
「うん? ああ。」
「あのさ……ってことは、つまり、来訪者がある度に、書面に、その……肉球印、を?」
「……そうだ。」
「……嘘だろ、おい。」
ここで鳴海は、街中で受けた不可思議な笑いの答えを見つけて愕然とした。
そりゃあ笑われるだろうさ。
猫の足跡を、判子として使用している奇妙な会社の所長なのだから。

「――最悪だ!」
鳴海が頭を抱えて大きく天を仰げば、それを黙々と見つめていた人形が、一言。
「後ろ足の方が、良かったか。」
「ライドウちゃん……頼むから、勘弁してください。」
「……そう、か。承知した。」
こくりと頷くライドウに、大きく溜め息を吐きつつ、鳴海は当分の間、外出しないでおこうと考えたが、けれど人の噂は七十五日。
二ヶ月弱も篭りっきりになるなんて、出来やしない。
結局は外出したくなるだろう。
そしてまた笑われるのだ、きっと。

「ああ、クソッ――……!」
それから暫くの間、鳴海の喫煙量と珈琲を飲む回数が増えたのだが、皮肉なことに当の原因を作ったライドウは気にもせず忠告もせず。
綺麗な顔を崩すことなく、煙草を買いに行ったり珈琲を作ったりするのだった。
鳴海に言われるままに、ただ素直に。