黒猫、慕いしは書生
01.美柔
誰もが怯む冷たい美貌は猫には常に柔らかく
「ゴウト殿。……無事か。」
「お、おお。なんとか、な。」
地面に横たわる大きな蟲の腹から刀を抜きながら、ライドウが声を掛けた。
ゴウトは大丈夫だという意味を込めてとりあえず頷き返したものの、その後に続く言葉を取り繕えないでいた。
その蟲――アポリオンが襲い掛かってきたのは、彼らが天斗樹林を歩いていた時だった。
突然の急襲ではあったが、しかしその程度でライドウの氷の表情が揺らぐことはない。
刀の柄に手を掛けながら、先ずはゴウトの前に立ちはだかり攻撃を遮る。
そうして間合いをとった後は、平常通り。
仲魔を召喚し、いとも容易く討伐終了。
……そう。
帝都に脅威を運んできたその凶蟲を戸惑うことも無く、あっという間に難なく打ち倒したのだ、この書生は。
流石は葛葉ライドウを継ぎしものだ、と。
後継がお前で俺も誉れ高いぞ、と。
日頃、自画自賛めいたことを口にしていたゴウトであったが、何故かこの時はいつものような口を叩くことが出来ないで居た。
恐怖に似た感情が、言葉を堰き止めている。
恐れてはいない。
恐れてなど、いない。
けれどけれど、こうして声が出ないのはやはり圧倒されているからなのだろうか。
「……如何した、ゴウト殿。やはり、何処か怪我を。」
ライドウが振り向き、刀を一振りして蟲の体液を払いつつ柄に収めると、ゴウトに向かって歩いてきながら言葉を繋ぐ。
「この蟲が跳躍した際……貴方に砂利が飛んだな。」
この蟲が、の言葉と共に、ライドウは足蹴にしていたアポリオンに視線を留めた。
そして侮蔑ともとれる程に冷たい目で屍骸となった虫を見遣り、凍った声で吐き捨てる。
「……蟲如きが、貴方に傷を付けた。だが万死の咎は、今を以って執行した。」
闇を宿した黒瞳が、庇の影の中で煌いたように見えたがそれはゴウトの錯覚だったろうか?
「な、七綺……。」
ごくり、と思わず唾を恐怖と共に飲み込みつつ声を掛ければ、地面に降り立ったライドウが振り向いて。
「……何か。」
首を傾げゴウトを見返すその顔は、いつもどおりの無表情。
いつもどおりの……ライドウで、ある――筈だ。
「……いや、何でもない。……不意打ちだったにも関わらず、よくぞ打ち勝った。流石だな、七綺。」
不審を抱かれる前に労いの言葉を掛けてやれば、ライドウは胸の前に片手を当てて。
「……勿体無い言葉だ。」
そう言って、柔らかに微笑した。
そのライドウを眼にした途端、ゴウトの疑念は打ち払われる。
言葉一つで、この表情。
一つの台詞で、この微笑。
氷の書生は所詮、変わらぬ雛鳥なのだ。
(七綺に恐怖を抱くなど、俺はどうかしているな。)
心中で呟き、苦笑するゴウト。
「ゴウト殿。」
「ん、ああ。済まん。アポリオンは倒したのだし、先へ進むとしようか七――」
そう言って顔を上げたところで、ゴウトは硬直した。
◇ ◇ ◇
「……七綺。」
「何だ、ゴウト殿。やはり、どこか怪我でも――」
「怪我をしているのはお前のほうではないかっ!」
俺も俺で、何で今になって気づくんだ、と自身に毒づきながらゴウトはライドウに駆け寄った。
帽子の影、頬より上から伝い落ちる血。
白い肌に赤い一筋。
いつ怪我をしたのだろう?
ああ、いつからお前は痛みを受けていた?
「大丈夫か? 傷を見せてみろ!」
動揺した様子で顔を近づけるゴウト。だが、ライドウはそれを失礼にならぬ程度に片手でそっと制して静かに言う。
「詮無い事だ。……貴方が気にする必要は全く無い。」
「~~っ! 七綺、お前もお前だ! 何故そのままにしている? 血止めはどうした! 牛黄丹は持っているだろう!?」
あまりの冷静さに、思わず怒鳴りつけた。すっかり頭に血が上ったらしく、矢継ぎ早に質問と叱責とがごっちゃになった台詞をぶつける。
対しライドウは無表情を崩さず、ゴウトが言い終わるのを待ってから、不思議そうに首を傾げて質問に対する答えを返した。
「……血は、時間が経てば凝固する。故に、放置している次第だ。血止めは所持しているし、牛黄丹もある。」
投げた質問に、一々きちんと答えているところが余計に怒りを増幅させる。
「莫迦者っ! 手当てぐらいせんか!」
「俺よりも、貴方の方が――」
「俺は怪我どころか掠り傷一つないんだぞ!」
「……それなら、良い。」
ふわり、と微笑するライドウ。
「ぐっ……ぬ、ぬう。」
綺麗な色に思わず見蕩れそうになった。
が、ゴウトは大きく頭を振ると、魅了より脱出し、深呼吸して気を落ち着かせる。
激昂しても、どうにもならない。こんなものでは氷は溶けないのだ。
そうしてどうにか冷静さを取り戻すと、ゴウトは再び相手に視線を向け、話しかけた。
「……。……七綺。」
「何だ。」
「傷の手当てを、しろ。」
「もう、血は凝固した。必要ない。」
「……いいから、大人しく黙って俺の言うとおりにするんだ。」
「しかし――」
「……言う通りにしろ。十四代目、葛葉ライドウ。」
彼は己の命よりもゴウトを最優先に考えている為、こういう場合は大抵、首を縦に振らない。
だからゴウトは真名よりも継名を口にした上で、葛葉の目付役としての声音で言った。
それでライドウが、ようやく譲歩の姿勢を見せる。
長すぎるほどの一間を置いた後ではあったが、やがてこくりと頷いて言った。
「…………承知、した。では堅固牢の中で、手当てを行う。」
「……それでいい。」
己の命を顧みない点も、変わらず。
だから心配なのだ。
怖れながらもそれを上回る別の感情のせいで、尚更。
ああ、だからこそ。
俺はお前の側に居るんだ、七綺。
――分かっているのか、相棒?
ゴウトは無表情な書生の横顔に様々な感情の篭った視線を投げかけると、心中で溜め息を吐いて、その胸にそっと頭を凭れさせるのだった。