遙か彼方までの夕暮れ
04.想いの重力、拒絶の逃避
「ひっ、あ、――……あ、あぁあ……」
断続的に上がる悲鳴。時折それに混じる、寝具が軋む音。
両手首を戒める青い組み紐が、その動きにあわせ暗い中で、青い影を揺らめかす。
繋がれたライドウの白い手首には紐が擦れることによって出来た擦過傷があり、そこから僅かに血が滲み始めていた。それを見た鳴海が戒めに顔を寄せ、傷口をなぞる様に舌を這わせる。それでも痛みが走るのか、ライドウが細い悲鳴を上げて身を震わせた。
「……痛いか、ライドウ? ……ごめんな。」
本当に済まなそうな表情をして謝罪の言葉を口にする鳴海だが、けれどその行為を止めるようなことは全くしない。
乱暴に腰を打ち付けては、何度その中に欲望を吐いたのだろう。
何度、この身体を揺さぶり虐め、泣かせれば良いのだろう。
もうライドウは充分に泣いているのに。
「……は、……あぁ……っ……ふ……っく……ぁ……――」
回数が増えていく度にライドウの悲鳴は弱くなり、遂には上げているというよりも、”上げさせられている悲鳴”へと変わっていった。
頬を流れていた涙は既に乾き、跡だけを残している。
怯えた目もない。ライドウの眼は、ただ虚空だけを見つめていた。
力を失ったデビルサマナー。
果ては虚ろの塊と化して、今は鳴海の下に横たわる。
組み敷かれ、望まぬ行為を強いられて――人形のようにその身を抱かれていた。
◇ ◇ ◇
「……っ。」
鳴海が短く声を上げて、欲を吐いた。
ライドウはそれを受けても眉を僅かに寄せたのみで、もう声は出さない。
「……――はぁ、はぁ……。……ライドウ――」
鳴海は呼吸が平常に戻るまで、楔を打ち込んだままにしていた。
そんな中で、ライドウを窺い見る。
ライドウの眼は、窓へと向けられているが、その焦点は何処にも合っていないように思えた。
否――事実、何もかもから目を逸らしていたいのだろう。
ゴウトのことから。
今現在の、この状況から。
全てから、逃げたくて。
けれど、逃げ切れなくて。
「――……。」
ライドウは目を閉ざし、耳を塞ぎ、心を凍らせる。
そして在りし日の幻影を脳裏に浮かべ、眉根をきゅうと寄せた。
あれだけに、縋っていたかった。
あれだけに、寄り添っていたかった。
あれだけがあれば、良かった。
あとはもう……要らないのに。
なのにどうして。
鳴海が……居るのだろう。
ゴウトはもう、居ないのに。
「……ライドウちゃん……。」
そんな虚ろなライドウの心情を、何となく感覚で察したのか、鳴海が辛そうに瞬きをし、そっと言葉を投げ掛ける。
「……好きだよ、ライドウ。」
告白を一つして、ようやくライドウの中から自身を引き抜き、手首を繋いでいた紐を解く。
けれど解放された白い手は、ただ重力に従って力無く落ちただけで動こうともしない。
引き抜かれた箇所から溢れたものに嫌悪を抱いたのか、瞳を微かに開けて、身体を震わせるライドウ。
「……。……。……――……。」
けれど、それでもやはり、心は遠いところへ置いているのだろう。眼は虚空に留まっていて、鳴海を見ようともしない。
鳴海の表情に、寂しげな影が落ちる。
「……ライドウ。ねぇ、俺を見てよ……?」
鳴海が頬に手を添えるも、ライドウは沈黙したまま、逃げるように顔を背けた。それから不意に、鳴海の肩越しに天井へと視線を移し、ぼんやりと仰ぐ。
「――。」
天井の闇を見つめていたライドウが疲れたように息を吐き、また目を閉じた。
暗い天井、昏い室内。
唯一の光源である月明かりはといえば、儚すぎ、灯火にすらなっていない。
闇の色を思いながら、ライドウが考えるのは、たった一つの形。
漆黒の形、輝く緑玉の瞳を持った、黒猫。
その形、輪郭だけを思い描きながら、過去の記憶を巡りだす。
いつもゴウトの声が救いだった。
いつも、ゴウトが飛んできて助けてくれた。
けれど今はもう。
姿も見えず、声も聞けず、闇の中。
闇は、闇。
そこからゴウトが出てくる筈も無く。
一人きり、独りきり。
逃げ切れず、逃げ出せず。
悲鳴を上げ、涙を流し。
無様で情けないまま、深くまで侵食され。
思考が一層、ばらばらに砕け散った。
そんな自分の眼前にあるのは、組み敷き此方を見つめる男の姿。
その存在だけが、窓から差し込む月光に照らされて映る。
薄闇の中、大きな影、大きな黒。
でもそれは、ゴウトじゃない。
ゴウトはもう、居ない……。
「ゴウ、ト……。」
ライドウが不意に、猫の名を呟いた。
「ライドウ……ゴウトはもう居ないんだ。ねえ、俺のことを見てよ。声を聞いて?」
ライドウの言葉を聞いた鳴海が辛そうに眉を寄せ、呻くように言う。
「好きだ、ライドウ――……好きなんだよ、こんなにも。だから、俺を見てよ、ライドウ。
いい加減、認めてくれよ。現実を、全てを。目を、逸らさないで……。なあ、ライドウ――……。」
呟く鳴海の声は、頼りない子供のように力無い。
子供とコドモ。
互いに違うものに縋りながら、哭く。
「ライドウ、好きだ。……愛してる。」
ずしり、と。
心に響く告白に、ライドウが目を開けた。
一つ瞬きをして、考える。
好きって、何だ?
俺がゴウトに寄せていたものとは、違うのか?
鳴海殿が今、俺に向けているのは……何だ?
あれ以外の感情なのか、それとも――……あれ以上の、ものなのか?
俺がゴウトに寄せた想い、それ以上のを……俺に抱いて、言っている……?
じゃあ、ならば。
もし、鳴海殿がゴウトのような目に遭ったら。
俺はまた、こんな痛みと苦しみを受けるのか?
……いやだ。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
こんな想いをするのはもう厭だ。
こんな感覚をまた味わってしまったら、俺は壊れてしまう。
今度こそ本当に、崩壊する。
厭だ、もう――。
「……、厭……だ……」
まるで何かを否定するように首を振り、掠れた声を出して答えを返すライドウ。
ようやく口にした言の葉は――拒絶。
鳴海が戸惑いながら、ライドウを見て言い返す。
「……ライ、ドウ? 厭、って……?」
「……無理だ……こんな、……」
「俺が、嫌い……だからかい、ライドウちゃん。だから……無理だと?」
強張り、震える鳴海の声、けれどライドウは首を振って。
「……違う……違う。違うんです、鳴海殿。そうじゃ……ないんだ。
もうこれ以上は、無理……なんです。俺は……こんな強い思いは、受けきれない……。
受けたら、また……壊れて、しまう……。」
「ライ、」
「……許して、ください、鳴海殿……俺には……無理……です――……。」
ゴウトが欠けた隙間は大きくて、鳴海のぶつける思いも大きくて。
どちらも全てが性急すぎて、今のライドウには辛すぎた。
心が痛い。息が詰まる。
全てが重すぎて……呼吸すら、出来ない。
もう心が壊れるのは嫌だ。
これ以上は――嫌だ。
「嫌だ――嫌だ……もう、許して……」
ライドウが――いや、七綺が苦しげに喘ぎ、目を閉じて身体を丸くする。
全てから逃げるように両手で顔を覆い、がたがたと震えて否定の言葉だけを呟く身体を、鳴海が唇を噛んで抱き寄せる。
「何が……嫌なんだ、ライドウ……何で……嫌なんだよ。」
「っ……って――……だって……るみ、殿も……消えたら……っ……俺っ……」
「――っ! ……そんな、こと……。」
けれど、掛ける言葉が見つからない。
人である以上その命は有限で、死は等しく訪れる。
だから、死なないという保証はないし……約束も、出来ない。
「……っ。」
鳴海が沈黙し、悔しそうに眉根を寄せた。けれどライドウを抱き締める力は緩めず、あやすように背や頭を撫でて、言う。
「それでも俺は、ライドウが好きだ。……好き、だから。」
「……あ、あぁあ……」
嗚咽を上げるライドウの指の隙間から、涸れた筈の涙が一筋流れる。
もう壊れるのは嫌だ。
心が痛くなるのも嫌だ。
それなのに、どうしてどうして。
鳴海殿の言葉は、こんなにも温かいのだろう。
どうしてこんなに――縋りたく、なるのだろう。
「あ、あぁぁああああああああああああっ……!」
分からない。
解らない。
ゴウト、ゴウト、ゴウト。
教えて、どうか。
この感情の結末を。
七綺の心は、涙ごと零れ流れて。
意識は、逃げるように。
闇の、中。