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遙か彼方までの夕暮れ

05.別れに至る逢瀬、還れ迷い児


「……七綺。」
眠りの底で、声がする。

「七綺……。」
懐かしい、声。
温かい声音が、俺の真の名を呼ぶ。
柔らかく。
最上の愛しさを込めて。

「七綺――……。俺のことを、忘れたか?」
ああ、忘れるものか。
忘れるわけが無い。
そんなことは、ありえない。
傍らに居た存在、側に居た温もり。
漆黒の闇に溶ける様な艶やかな黒を纏い、深く明るい翠瞳を輝かせ。
音を絶つ、しなやかなその姿態。
そうして瞳を開け闇を透かし見れば、それらが完全な形を成して浮かび上がる。

「……ゴウ、ト。」
懐かしい、身体。
懐かしい、気配。
それが今、夢の中とはいえ、形になって直ぐ側に。
ようやく、夢の中に来てくれた。

――ようやく……逢えた。


◇  ◇  ◇


「……ゴウト。」
確認するように名前を口にすれば、相手が応じるように頷く。
手を伸ばして抱き締めれば、柔らかな熱に感情が吹き零れた。
「ゴウト、ゴウト、ゴウト、ゴウト、ゴウト――……っ、ゴウ、ト……ゴウトッッ!」
溢れた感情は涙となって頬を伝い、滑らかな猫の身体の上に舞い落ちる。
「何だ。余計に脆くなったな?」
ゴウトが苦笑しながら上体を伸ばし、ライドウの――七綺の、目尻の露を舐めとって笑えば。
七綺が抱き締める手に力を込めて、首を振る。
「だって、ゴウト、っ……夢に、来てくれないから、……っ!」
咎めるような七綺の言葉に、ゴウトが腕の中で溜め息を吐いた。

「――愚か者め。名前を呼んでいたのに、殻に閉じ篭って応じなかったのは、誰だ。」
「……。……え?」
七綺の気が、静まる。
呼んで、いた? ……俺を?
呼んでいて、くれた……?
逢えなかったのは、俺の……せい……。

「あ……、そう、だったんだ……ごめん、ゴウト。」
七綺が目を伏せて腕の力を抜けば、息苦しさから少し解放されたゴウトが、笑う。
「まあ、それはいい。しかし――数日置いてようやく逢ってみれば……。その有様は何だ、七綺。
葛葉とも在ろうものが、そのように柔弱でどうする。」
「だって……ゴウトが……、ゴウト……っ、……!」
ゴウトの叱咤に、七綺は泣き声で繰り返し名を呼びながら、涙を流して縋りつく。
母親に甘えるコドモのように、小さく、弱く。
そこに、葛葉ライドウは居ない。

デビルサマナーの――葛葉ライドウの形を留めていない姿を見て、ゴウトが嘆息をつきかける。
それは失望に近いものだったが、しかし七綺には悟られないように、苦笑で何とか誤魔化した。
小さく蹲るように抱きついている七綺を横目に、ゴウトが話しかける。

「殻に篭るな、七綺。それ以上、脆弱に陥るな。強く在れ、何よりも。
泣いても良いが、止まるんじゃない。お前は止まるべき存在ではないはずだ。」
ゴウトの言葉に、七綺が顔を上げずに首を振り、言い返す。
「無理だ……無理だ、無理だよゴウト。ゴウトが居ないから、ゴウトが居てくれないから、もう俺は……っ」
「それは赦さないと言った筈だぞ、七綺。」
「嫌、だ……嫌だ……嫌だぁ……っっ!」
「七綺、それは駄目だと、」
「嫌だ! ゴウトが居ないから、嫌だ――!」

「……聞けっ! 葛葉ライドウ!」
「っ……!?」

吼えるように叫んだゴウトの声に、七綺がそこでようやく顔を上げた。
ゴウトが、七綺をライドウの名で呼ぶのは久しいこと。継承の儀の際に、一度あっただけ。
故に、真名から継ぎ名へと急に呼び方を変えられると、不安になる。

「ゴ……ウト……。」
突き放された感覚を受け、七綺の表情が悲哀に満ちて歪んだ。
それを目に留めたゴウトが、困ったような笑みを口端に刻んで、言う。
「全く……そんな顔をするな。」
落ち着かせるために、七綺の胸元に自らの額をこつりとぶつけ、ゴウトは続けて話し出す。
「……なあ、聞いてくれ七綺。これは、俺の願いだ。俺が望み、そして乞い願う、強い想いだ。」
「……ごぅ、と……」
「いつか俺は言ったな? お前は強くなると。……進め、七綺。この先に拓いた路を行け。
闇の煌き、光の粒子を纏って、何処までも。お前には路が在る。……眩く在ってくれ、七綺。」
「……っ……――俺、は……っ……」
ゴウトの言葉に、愕然とした表情をして七綺が弱く首を振る。まるで、そうではないと言わんばかりに。

違う、ゴウト。違うんだ、ゴウト。
俺は強くない。俺は強くなんかない。
俺はゴウトが思うほど高等な存在ではないんだ。
俺は、ゴウトに想われるほど気高くも……ない……。

だが、そんな考えを見通していたのか、それとも想いを感じとったのか。
ゴウトが七綺を見据え、儚い微笑みを浮かべて言う。
「己を否定するのは容易いが、受け入れるのもまた同じこと。人の想いは強い、何よりも。
願えば、それは糧になる。強大な力になるのだよ、七綺。お前も、それは知っているだろう?」
「……。」
ヒルコのことを思い出し、頷くように項垂れる七綺。否定する言葉が見つからない。

ああ、人の思いを重ねて出来た赤き存在は、確かに強かった。
あれは、人の思いの恐ろしさを教えてくれたものだった。
けれども、そこに至るまでに自分を導いたのも、やはり人の想いだった。

「まあ、生憎と俺は人ではなかったから……この想いの種に、当て嵌まるのかどうかは知れんがな。」
ゴウトがそこで一つ苦笑を挟み、言葉を紡ぐ。
「なぁ。誇らせてくれ、お前を。誇りにさせてくれ、十四代目。」
「ゴウ……っ、あ、あぁあ、……っ、……――」
誇りにすると、言ってくれるのか。
こんなにも弱く、こんなにも脆く。
人を、帝都を、ゴウトすらを見捨て。
全てを置き去りにし、全てから逃げ出そうとしていた、この愚かで卑怯なデビルサマナーを。
葛葉の名を貶めようとしていた、存在を。

――誇りに、すると。
そう、言ってくれるのか。
ゴウトが、微笑う。それは、肯定。
穏やかながらも、しっかりとした答え。

「例えこの身が無くなろうとも、心は常に傍らに。……忘れるな、とは言わん。俺にその資格は無い。しかし、少しでいいから覚えていて欲しい。この、事実だけは。」
「っ、……忘れるか! 忘れることなんか、出来ない……! 忘れない……忘れないから……!」
「……ありがとう、七綺。やはり、お前は優しく強い。俺の目に狂いは無かった。」
ゴウトが嬉しげに喉を鳴らし、七綺の胸に身体を摺り寄せた。
「ゴウト……。」
それを抱き締めようと、七綺が包み込むように腕を回す。

けれど――……腕は、ゴウトを通り抜けて。

七綺が、はっとした表情でゴウトを見れば、ゴウトが困ったように笑って言った。
「――ああ……夢が、終る。……七綺、お別れだ。」
腕の中の温もりが、消えていく。
闇に溶けて、消えて……逝く。
「嫌だ、ゴウト……! 消えないで……まだ、もう少し――!」
叫んで辺りを探るも、手先はもう闇を掻いて、何も掴めない。
闇の中、何も無い中でゴウトの声だけが鈴のように響く。
「黄昏は夜に変わり、暁を導きお前を照らす――……大丈夫さ、七綺。お前は陥穽から抜け出した。それに……お前はもう、一人じゃないだろう?」
視線の先に、ゴウトの姿が現れる。
けれどやはり、それは何処までも幻。手を伸ばしても、届かない。もう触れることは叶わない。
夢は、終る。

「ゴウト……ゴウト、ゴウト! でも、でも俺……っ……俺は――……っ!」
七綺が尚も、夢にしがみ付こうと手を伸ばすのを見て、ゴウトがゆっくりと首を振った。
笑んだままのそれは、否定。
優しい、拒絶。

「これ以上この夢に縋るな、七綺。お前が縋るべき存在は、外に居る。」
「鳴海殿の……ことか? でも……でも鳴海殿は……。」
「まあ、あいつが俺の代わりになれるとは全く思わんがな。俺だって願い下げだ。
けれど、――お前が寄り添うには、充分だろうさ。あれは優しく、暖かい。」
「でも、鳴海殿は人間で……有限じゃないから、……っ……また、置いていかれる!」
「有限だからこそ、今の刻を生きていけるのだ。眩く、緩やかに。無限の存在など……つまらないさ。苦行であるほどに、な。」
ゴウトが目を伏せて自嘲するように笑ったが、直ぐに顔を上げると笑みを戻して言い繋ぐ。

「それに、七綺も人間だろう? 条件は双方とも同じ。恐れることは、何もない。」
「でも――……でも、もう一人になるのは……っ」
「鳴海は、そう簡単に離れんさ。いいや、お前が嫌がろうとも側に居るのを望むだろう。
あれが、しつこいのは既に承知しているだろうが?」
ゴウトがからかうように言えば、七綺が戸惑った色を瞳に宿す。
「そう、だけど……でも。――鳴海殿は、もう俺に幻滅しているかもしれない。この数日、俺は随分と酷い醜態を見せてしまった。きっと、もう、呆れてる。鳴海殿は俺に――……失望しているよ、ゴウト。」
首を振って、項垂れる七綺。
けれど、ゴウトはそれすらも嘲笑うかのように、高らかに笑い飛ばした。
「はっはっは! 幻滅などしているものか。するものかよ。それは、絶対にありえない。いいや、むしろ余計に惹き付けられている筈だ。お前が、ようやく本性を見せたのだから。」
「こんな、無様で愚かな姿に……惹かれて? そんな、莫迦な――……。」
「事実だよ、七綺。鳴海が望んでいたのは、正しくそれさ。本当のお前を、見たがっていたのだ。なんなら、今すぐ覚醒してみれば良い。あいつは、側にいるだろう。今、この時もな。」
ゴウトが苦笑を滲ませつつ、それでも眼差し柔らかに笑い、言葉を繋ぐ。
「安心しろ、これ以上の痛みは伴わんさ。保証してやるよ、俺が。……少し、癪だがな。」
「――っ……ゴウ、ト……っ……。」
祈るように目の前で手を組み合わせ、七綺が呻く。

別れを惜しんでいるのか、ゴウトの優しさを切なく思っているのか。
それらはきっと、一緒くたなのだろう。瞳から流れ落ちる大粒の涙が、全てを語っているから。
ゴウトが愛しいものでも見るかのように目を細め、緩やかな微笑を刻んだまま、言い告げる。

「人の想いに添え、七綺。大丈夫だから。」

その言の葉を切っ掛けにしたかのように。
ゴウトの形が、輪郭が、声が、気配が。
それぞれの存在を失い、溶けていく。

「ゴウト!? ゴウト、ゴウトゴウトゴウト……っ!」
消えていくゴウトに、七綺が酷く狼狽して闇の中を駆け出した。
ゴウトの幻影を追い、掴もうとするが――叶わず、空を切る。
「嫌だ、ゴウト…っ……ゴウト!」
「戻れ、七綺。そろそろ現実に還れ。――……鳴海の待つ、現世に。」
「あ、ああああ……っ……ゴウト、ゴウト……」
七綺が速度を落とし、そのままそこに崩れるように膝を付いた。
そして震えながら闇を見つめる七綺に、何処までも優しい声が降る。
「お前に出逢えて、よかった。お前が――俺の名を、継いでくれて……」
闇に、声が溶けて消えていく。

「愛しているよ、七綺。俺の、葛葉ライドウ。愛しいデビルサマナー……――。」
「う、あぁああああぁ……っっ! ゴウト――……!」

優しく切なく、愛しい声での告白を最後に、全てが全くの無に帰る中で七綺の慟哭だけが鳴り響く。

そうして、また、闇の中。
けれど今度の闇は、回帰の為に閉ざされた。
迷子になった子供を、現実へと送り返すために。