猫と書生と所長さんの一日
02.月夜に、黒猫が
「何だ、七綺。まだ起きているのか。」
真夜中、鳴海探偵事務所にある部屋の一室。
ライドウの為に用意された部屋の扉、僅かに開いた扉の隙間から、ゴウトがのそりと顔を覗かせ声を掛けた。
ライドウはというと、寝台の上で上体を起こした姿で、窓の外を眺めている。
「ゴウト……か。」
名を呼ばれたライドウは視線だけを向けて答えを返すと、また窓の外へと向き直った。
「何か珍しいものでも見えるのか?」
興味を引かれたゴウトはライドウに近づくと、ひらりと飛び上がり寝台の上に飛び乗った。
そして彼の膝の上に座ると、同じようにして空を仰ぐ。
見えたのは、何処か青白くみえる三日月。それと満天の星。
「月を見ていたのか?」
ゴウトがライドウを見て、そう問えば。
「……。」
ライドウが、黙ったまま頷いた。
いつも頭に被っている学生帽を脱いでいるので、今はその相貌が月光によって露になっている。
照らし出された横顔は、月の光を受けてか更に白く見えた。
透き通る、白。
月光の蟲、という言葉が、これほど似合うのは他に居ないかもしれない。
きっと、侵食されれば簡単に狂わされる――ああ、それこそ虜になるだろう。
そんな考えが、ゴウトの頭を過ぎった時だった。
「……ゴウト?」
「ん、何だ?」
突然名を呼ばれ、ゴウトがやや戸惑いながら返事をした。ライドウはというと、空を仰ぎ見たままの格好でゴウトに語りかける。
「ゴウトは、何を見ている?」
「え? いや……お前と同じもの……だが。」
本当はライドウを見ていた。けれど、口をついて出たのは嘘。
すると、ライドウが……否、七綺が視線だけをゴウトに向けて、目を細める。
「本当に、俺と同じものを?」
口端を形良く吊り上げて微笑むその穏やかな声には、どことなくからかうような柔らかさがあった。
いつもの無表情なライドウは、陰を潜めて。
ゴウトの前に居るのは、月光よりも柔らかな微笑を浮かべたヒトの姿をした者。
ついた嘘は、きっと見通されているのだろう。
この”デビルサマナー”は、鋭く敏い。猫のように。その顔に浮かべるものも、機嫌の良い猫が見せる微笑に似ている。
ああ、もしかしたらコイツは猫かもしれない。
俺以上に、こんなに猫らしくみえるのだから。
全く、どこまでもどこまでも得体が知れない。
「俺も月を見ていたのさ。」
少しの時を置いてからではあったが、そう言い返してやれば、そのような答えは予想していなかったのか、七綺が僅かに眼を丸くした。
「ゴウトも月を? ……でも、その角度からでは見えない筈では――」
少しばかりの戸惑い混じる声に、ゴウトは内心で笑う。
そりゃあ、そうだろう。お前と同じ月ではないのだから。
俺が見ていたのは、ライドウ――七綺という名の、人の形をした月なのだからな。
だから、嘘ではないのだ。胸を張って、言い返す。言い通す。月を見ていた、と。
「そんなことはない。此処からでも、良く見えるぞ?」
――ほら。こんな間近に。
一人(いや一匹か)で、己が吐き通す嘘にくつくつ笑っていると、つられたのか七綺もゴウトの頭を撫でながら笑う。
「何だか知らないが、楽しそうだな。」
七綺はそれ以上は何も言わずに微苦笑すると、また夜空を見上げて口を開いた。
「ゴウトが嬉しいのは、良い事だ。俺も、嬉しい。」
そんな、心を掴むような言の葉を口にして。
狡いというか、見事というか――。
「七綺、お前は良いデビルサマナーになるぞ。俺が保証する。」
「そうか? ……まだまだ未熟だよ、俺は。」
「そんなことは無い。」
何せ、こんなに早く俺の心を陥落させたのだから。
そうさ、お前なら人心どころか全てを掌握出来る。
俺の役目は……意外に早く終わりそうだな。
巣立ちが早いのは、目付け役として嬉しい。
けれど――。
「……七綺、……焦るなよ。」
「ゴウト?」
「焦りは……禁物だ……。」
ゴウトはそう言うなり七綺の膝の上で身を丸めると、静かに目を閉じた。
そう早くに巣立つな。俺の側から。
離れてくれるな、もう少し側に居ろ。――まだ、別れるのには惜しい。俺が。
「……。」
七綺は何か言いかけたが、そのまま押し黙ったゴウトを見て困ったように微笑むと、何も言わずに、その頭を、背を、緩やかな仕草で撫で続けた。
温かく心地良い感触を受けながら、ゴウトは眠りに落ちていく。
「どうせ、ゴウトの方が先に俺から離れていくくせに。」
俺が望んでも、一人にして……置いて、いくんだろう。
そんな七綺の言葉は、眠りに落ちたゴウトの耳には届かない。
ただ、夜空に浮かぶ月だけが聞いていた。