猫と書生と所長さんの一日
04.視線に惑う
大富豪の令嬢が突然、謎の赤マントの兵士に連れ去られた。
事情が掴めぬままに、けれどそのままにしておくのには、あまりにも異様な事件性。
結果、令嬢の行方を追うべく、捜査が始まった。
鳴海事務所に就いて以来、ライドウにとっては初めての大きな事件だった。
それは不可思議で、奇怪で。
謎ばかりが残る、異様な事件の始まりの始まり。
最初の捜査は、聞き込みから始めることだった。
外套を手に部屋を出て行きかけたライドウを、鳴海が呼び止める。
「待て、ライドウ。出かける前にこれを渡しておこう――ほら、受け取れ。」
そう言って、すっと事務机の上に何かを置く。ライドウが近づいて手に取れば、千円札が一枚。
「……これは?」
ライドウの問いに、鳴海が、にっと笑う。
「捜査経費だ。何かと物入りになるかも知れないからな。」
「……ありがとうございます。」
ライドウはそれを懐に丁寧にしまうと、深々とお辞儀をした。その真面目な物腰を見て、鳴海が苦笑して手を振る。
「はは、そんなに畏まるなよ。そうだな、捜査の際には色々なことが起きるし……ま、怪我に備えて薬でも買っとけ。」
「承知致しました。では、行って参ります。」
「ああ、頑張れよ。」
鳴海の声を背に受けながら、ライドウは事務所を後にした。黒猫を共に、黒い外套をなびかせて。
◇ ◇ ◇
「……。」
相変わらず人の往来が多い町並みに、帽子の庇の下で書生の眉根が寄った。
それを見たゴウトが、笑って声を掛ける。
「雑踏には未だ慣れないか?」
「……ああ。視線には少し慣れた、が――空気には、まだ慣れない。」
「はは、視線に慣れたか。成る程な。」
ゴウトが苦笑し、ライドウの周囲をぐるりと見回して、その”視線”の意味が示しているものを確認する。
――それらは、今日も相変わらずだった。
通りの向こうでは、女学生たちが此方を窺いながら何やらひそひそと話し合っているし、反対側の通りを見れば、店先に居る女中がうっとりと頬を染めて視線を送っている。
視線の向かう先は、勿論ゴウト――では無く、その傍らに立つ書生だ。
黒衣を身に纏い、目深に被った帽子で顔を隠しているのに、それでもその美貌は隠し通せないのか、皆の視線が釘付けになっている。
当初は、自分に視線が注がれることをライドウは怪訝に思っていて、何度もゴウトに疑問の目線を送ってきていたが、さすがに適応したのか、それとももう気にしないようにしたのか。
疑問の視線を向けてくることは無くなり、涼しい顔をして町を歩くようになった。
しかし、慣れたのは視線に対してだけで、囁きなどには慣れないらしい。
影で何か言われているのがどうにも気になるようで、庇の下で時々ライドウが眉を顰めていることがある。
その表情が明確に何を示しているのかは、ゴウトにも分からない。嫌悪、煩い、ああ、人の心情は複雑だ――が、まあ、喜んでいるものでは無いことだけは、明らかだ。
「……夜の捜査のほうが、楽で良い。」
不意に零された呟きに、黒猫はライドウを仰いで苦笑する。
「おいおい。人気の無い町で、お前は誰に話を聞く気だ。それでは捜査にならないだろう。」
「分かっている、が……」
「そうか? ならば早速、人々に聞き込みをかけるとしようか。……ああ、丁度良い。七綺、あそこにいる女学生の二人組に話を聞いてみようじゃないか。」
ゴウトの視線の先、道路の対岸に目を遣れば、そこには女学生が二人。彼女たちは先程から何やらこちらをコソリと窺い見ては、ひそひそと話しこんでいた。
「……どうにも面倒なことになり兼ねない気がする。」と、ライドウが――七綺が、気の進まない口調で呟けば。
ゴウトは笑って「気のせいさ。ほら、行くぞ七綺。」――そう言って、七綺の外套の裾を噛み引いて引っ張り、行動を促した。
七綺の溜め息が漏れるのを聞きながら、本当にこの書生は対人が苦手なのだな、とゴウトは思った。
◇ ◇ ◇
「お帰り、ライドウ。早かったな……って、何だ? やけに疲れた顔をしているな?」
夕暮れ時に帰宅したライドウを笑顔で向かえた鳴海だったが、憔悴した表情の彼を見て眼を丸くした。尋ねられたライドウは、帽子の庇を引き下げて表情を隠すと、溜め息を吐いて答えを返す。
「いえ……色々、ありまして。」
何でもない風を装ったつもりだろうが、声音には確かな疲れが混じっていた。
鳴海は、「大変だったんだな。お疲れ、ライドウ。」と、労わりの言葉を投げようとしたのだが、けれど。
そうしてライドウが人としての感情を見せているのが珍しくて、嬉しくて。
だからつい――苦笑が微笑に近いものになってしまうのを、抑えきれなくなった。
鳴海の表情の緩みに気づいたのか、ライドウが眉を寄せる。
「……何やら嬉しそうですね、鳴海殿。困憊した私の無様さが、お気に召したのですか?」
ライドウの言葉に棘のようなものを感じ、鳴海は慌てて首を振った。
「ち、違うんだライドウ! お前のことで笑ったんじゃないって!」
「……。」
鳴海が否定するも、ライドウはそれ以上何も言わず、ただ押し黙って帽子の庇を引き下げた。
それから、ふうと重い息を吐いて部屋の脇に歩いていき、外套を脱いで傍の衝立に掛けて――また、重い溜め息を吐く。
どうやら、余程のことがあったらしい。
「えーと……何があったんだ、ライドウ?」
鳴海が問い掛けると、ライドウは目線だけを向けて口を開く。
「……人が、私を見て囁くのです。」
「何?」
「視線で、追ってくるのです。何処までも、ずっと……。気にならないようにしていたのですが、何処までも視線で追いかけてきて……何事か、影で囁かれてもいて……。」
「あー……ああ。まあ、その気持ちは分かる気がするけど。」
「それは、何に対して仰っているのでしょうか?」
「ん? そりゃあ、視線で追う方に対して。」
「……鳴海殿も、同じ、ですか。」
僅かに眉根を顰めるライドウに、鳴海が苦笑して肩を竦める。
「あっは。そんな顔をしなさんな。折角の美人が台無しだぞー……って、それくらいで台無しになる美貌じゃないか。あはははは。」
「……仰っている意味が、分かりません。」
「良いから、良いから。……それよりもライドウ、珈琲淹れてくれ。」
「……。……畏まりました。」
途中で話を中断されたライドウの表情に一瞬、訝しんだものが過ぎる。しかしライドウは追求するのを諦めたのか、直ぐにその表情に浮かんだものを引かせると、疲れた足取りで奥へと姿を消した。
その後をゴウトが追い、一人だけになったところで鳴海が天井を仰いで呟く。
「しっかし、デビルサマナーってのは皆、ああいう性格なのかねぇ……。」
人に関心が薄く、自らの美貌に無頓着で。
寡黙で、纏う空気は静寂。
けれど人以外の前で見せる表情は明るく、無邪気で。
あまりにも差が大きいその表裏に、鳴海は煙草を口端に押し込みながら火を点ける。
「ふぅ――。でも、そういうところも良いかな。……接し甲斐が、あるし。」
煙草の煙を吐き出しながら、鳴海は愉しそうな笑みを浮かべる。事実、楽しいのだろう。
戸を叩く音が、聞こえる。
「鳴海殿、珈琲をお持ちしました。」
「ありがと、ライドウ。――じゃ、一緒に飲もうか?」
にんまりと微笑して答えるのは、不埒な大人。