TOPMENU

猫と書生と所長さんの一日

05.柔らかな鮮麗



「……ふぅ。」
ある休日の午後。
その日、ライドウは捜査を休んで事務所に居た。
溜め息を付いて額の汗を拭うその手には、埃叩きが一つ。各所の埃を丁寧に払い落としていく。
鳴海は用事があるのか、朝から外出して居ない。机上を見れば、そこには簡単な置手紙が一枚。
『ちょっと出掛けてくる。多分、夕方には帰ると思うから。』
ライドウはその曖昧な文面の手紙を見て、ぽんと両手を叩く。前々から汚れの気になっていた場所があったので、これは良い機会だと、事務所内の大掃除をすることにした。

まず、今日は捜査に出ないから、学生服でいることはない。
なので、鳴海が着ているような薄灰色のシャツと、ズボン姿に着替えた。
埃で汚れないように、一応前掛けもする。いつもは身に着けている帽子も、鳴海が居ないので外套と一緒に玄関脇に掛けて置いた。
人の視線が気にならず、身なりも軽装にしているからか、心持ち気分が高揚する。
出来ることなら、この姿で今日を一日過ごしたいと思った。

もっとも、それは鳴海が帰宅するまで、という時間内に限られているのだけど。

◇  ◇  ◇

高い所から低い所から順に、積もっている埃を払い落としていく。
棚の途中の隙間も見落とさないようにしながら、細かい箇所まで目を配って汚れを拭いていく。
「これで良し、と……次は――……拭き掃除か。」
埃叩きを元にあった場所に戻し、次に水を汲んだバケツと雑巾を用意する。
とりあえず、本棚の上から拭いていこうと考えたのだが、そのままでは一番上の天板に届かない。それでは、と脚立代わりにする為の椅子を持ってきたのは、鳴海がいつも座っているあの豪奢な椅子。
ライドウは、「すみません、鳴海殿。少々お借り致します。」と心の中で呟き、靴を脱いで上に立つ。少し、ぐらついたが――あまり不安定ではないようなので、体勢を立て直し気にしないよう努め、天板から拭きはじめた。

「お前は、どんどんサマナーから外れていくな。」
背後から掛かった苦笑交じりの声を聞いて、ライドウが手の動きを止める。肩越しに振り返れば、視線の先――入り口前に、ゴウトが居た。
「帰ったのか、ゴウト。散歩は……もう良いのか?」
そんなことを言えば、ゴウトは鳴海の机の上に飛び乗って、唸るように言い返す。
「あのな……散歩じゃなく、調査に出ていたんだ。」
それから、ライドウの格好と今の動作に目を留めて、不思議そうに首を傾げた。
「それはそうと、七綺。……何故、掃除をしている?」
「汚れが気になったから、かな? それに、鳴海殿も出掛けてしまっていて、掃除がし易い環境だから。」
「まぁ、鳴海が不在だと確かに作業がはかどるが……七綺? お前、本来の目的を忘れているのではあるまいな?」
「それは、無い。しかし、……何だ? どうしてそんなことを訊く? 俺は、ゴウトの気に触るようなことをしているのか?」
「む……いや、そうではないんだが……。」
ゴウトがそこで口篭り、再度ライドウを見つめる。
今のライドウは、ライドウでは無い。
着ている物が軽装で、帽子を被って顔を隠していないせいもあるのか、雰囲気がまるで違う。あの常日頃に身に纏わせている、凛とした冷たい気配は何処にも窺えない。

今、ゴウトの目の前に居るのは、唯の青年だ。
否、唯の……というのには少し違和感があるか。

身体を動かしたせいか、白い頬がほんのりと染まっている。
他者が居ないせいもあり、いつも冷え冷えとした彼の表情は豊かで明るく。
その微笑は柔らかで、美しく――子供のように、無邪気で。
魅了する、という言葉がそのまま当てはまる。
尤も、当人は何も知らないでいるのだろうが。

今、この時。
鳴海が居なくて良かった、とゴウトは本気で思った。

こんなライドウは、見せられない……いいや、見られたくない。

「ゴウト。」
「ん、何だ――うぉっ!?」
名を呼ばれて我に返れば、直ぐ近くにライドウが寄って来ていた。
彼はゴウトの前足を取るなり、さっと上に軽く持ち上げた。ライドウの突然の行動に驚くゴウトを尻目に、相手が苦笑を滲ませて、言う。

「一応、足を拭かせてもらう。折角、掃除してるんだ。汚されては適わない。」
机上のゴウトの高さに合わせてライドウは身を屈めると、その前足を包むように拭き始めた。
柔らかな布越しに、ライドウの手の感触が伝わる。
「……俺は、汚れたままで室内に入ってきたことはない筈だぞ。……それに、七綺。
何度も言うようだが――……俺は、猫じゃない。」
目を伏せたライドウの長い睫の影から視線を逸らしながら、ゴウトはわざと機嫌を損ねたような声を出して言い返す。
すると、ライドウが――七綺が、掬い上げるような視線を向けて笑いかけた。

「でも、好きだろう――?」
「な、」

好き、という言葉にドキりとする。
が。

「――ねこじゃらし。」
「……!? ……あ、あのなぁっ……!!」
言い当てられたのかと思った。
けれど、言い当てられたのは果たして何なのか、それはゴウト自身にも分らなかったけれど。

「……七綺、もう汚れは取れているだろう。……いい加減、離せ。」
「ん、足を触られているのは不快か。」
七綺が、ゆっくりとした仕草でゴウトの足を掴んでいた手を離した。
ゴウトは自分の気を静める為に、さして意味も無く毛繕いをして、それからボソリと言い返す。
「七綺の方こそ、他人との接触が嫌いなくせに何を言う。……現に、鳴海との距離を全く変えないじゃないか。」
その言葉を聞いて、七綺が苦笑した。
そして鳴海の机の上に軽く腰を掛けると、窓の外に視線を向けて口を開く。

「人は……、どうにも――……脆くていけない。」
「……七綺?」
あまりの声音の沈みように、ゴウトが七綺に目を向けた。
だが、七綺の横顔は差し込む日の逆光によって良く見えない。
くすり、と微かに笑う声だけを聞く。

「永遠なんて何処にも無いんだよ、ゴウト……人は脆くて……脆すぎて、いけない。――俺を早くに置いて、逝くのだから。」
その横顔が痛みを覚えたように歪められるのを見て、ゴウトが彼の膝の上に飛びのった。
そして背を伸ばし、七綺の方へと顔を寄せ、慰めるように頬を舐めて言う。

「人は脆いと言うがな、七綺。それも人だけが持つ美徳なのだよ。」
七綺が悲しげに微笑して、ゴウトの頭を撫でながら答える。
「……そう……か。成程、そういうものかもな。――ありがとう、ゴウト。」
「なに、礼を言われることはしてない。それよりも……だな、七綺?」
「……ん?」
「もう直ぐ鳴海が帰ってくる頃合だが、掃除やら何やらは良いのか?」
「……あ。」
言われて窓の外を見れば、日が傾きだしていた。

◇  ◇  ◇

「……さてさて、ど~しましょうかねぇ……。」
事務所戸口の物陰で、鳴海が苦笑しながら呟いた。
そして気取られないように注意しながら、室内にいる彼らを――ライドウを、見る。
素の状態のライドウを初めて見た瞬間だった。

笑う、話す、そして哀しい顔で、魅せる。
緩やかな微笑、優しい仕草。
それら全ては初めて見るものばかりで、驚きと感動、それと少しばかりの寂しさを感じた。
鳴海の前では、あんなライドウは見せてくれない、見られない。……まだ、一度も見たことが無い。黒猫の前でのみ出現する、ライドウ――否、未だに名前の知らぬ青年。

「……何で俺の前で見せてくれないのかねぇ。」

その、微笑を。
その、仕草を。
その、心……を。

ひっそりと落胆の溜め息を吐きながら、けれどいつかは……と、思う。
暴いてみせる。真の名と共に。
自分の手で。

そう前向きに思い直して、何とか痛みを堪えることに成功する。
そんなことを考えながら、鳴海は、さてどのようなタイミングで彼らの前に姿を現そうかと。
一人、思いあぐねてなかなか出て行けず、暗い物陰にて立ち尽くす。

室内を見れば、鳴海が居る場所とは正反対に。
明るい表情をするライドウと、黒猫が。
一人と、一匹。

物陰には輪から外れた大人が、一人。