猫と書生と所長さんの一日
06.砕氷に溶かす熱
その日は暑かった。文字通り、差すような日差しだった。
ここのところ家事が溜まっていたので、捜査は一先ず於いといて、ライドウは朝から事務所内を片付けていた。
家事が溜まった、とは言っても、別に手を抜いていたわけではない。不思議なことに、何故か一日でも家事をしないと、すぐに汚れ物が溜まっていくのだ、この事務社は。
ちなみに、その原因の大半は家主の鳴海にあるのだが、ライドウはそこに疑問を抱かないのだろう。
ただ気づいているゴウトのみが、忠告する。
「七綺、たまには鳴海にやらせろ。それらはほとんどが、あいつのせいなんだぞ。」
しかしライドウは苦笑しながらも、手を止めずに言い返す。
「世話になっているんだ、このくらいはしないと。」
「……汚れの程度が過ぎているんだ。気づけ、七綺。」
ライドウの素直さに、ゴウトが深い嘆息を吐き、額に前足を当てて呻いた。
そうしていつものように、何度か繰り返されるやりとりを交わしあいながら作業をし、洗い終わった食器を乾いた布で拭いていた時だった。
「……ん。」
くらり、と足元が揺れた気がして、拭いていた手を止めたライドウに、側に居たゴウトが首を傾げて話しかける。
「どうした、七綺?」
「――いいや、……何でもない。」
揺れた?
周囲をそっと見渡すも、自分以外、揺れの影響を受けたものは無く、また揺れた気配も無い。全てが静物のままで、あるだけ。
「……ゴウト。今――」
「何だ?」
「……済まない、気のせいだ。」
「うん? ……まあ、お前がそういうのなら詮索はしないが。」
ゴウトがきょとんと見上げ、それから尻尾でライドウの足を軽く叩く。
「とりあえず、少し手を休めたらどうだ?」
「らーいどーちゃん。たっだいまー。」
陽気な声とともに、入り口の戸が開く音がした。
「……チッ。喧しいのが帰ってきた。」
悪態を付くゴウトに、ライドウが苦笑する。そして、鳴海を出迎えようと、手を拭きながら水場を出た時だった。
――くらり、と。
視界の、湾曲。
――ふっと。
意識の、間隙。
「あ……――?」
何だ?と思う間も無かった。
視界に映る全ての色に昏い青が重なったかと思うと、そのまま意識が呑まれて――。
◇ ◇ ◇
何かが額に触れた。
それは、ひやりと冷たくて気持ちが良くて。
その冷たさに引き寄せられるように、意識が浮上する。
まず見えたのは、見慣れた天井だった。
「気づいたか、ライドウ。どうだ、具合は?」
直ぐ側で聞こえる、鳴海の声。声に引かれて顔をそちらへ向ければ、傍らに椅子を置いて座っている姿に気づかされる。
「鳴海、殿……――ああ、お帰りなさい……ませ……」
慌てて上体を起こすと、また視界が揺れて。
「あ、……?」
眩む目元を押さえながら、そのまま前のめりになって呻く。その背を撫でながら、鳴海が苦笑した。
「あー、ほらほら。無理するなよ、ライドウ。お前さんは、脱水症状で倒れたんだ。」
「脱水……症状……――……ああ。」
鳴海の言葉を聞いて、ライドウがまた呻く。そういえば、朝から動き通しで、食物はおろか、水さえも口にしていなかったことに気づいたのだ。
一人だったので、その辺を失念していた。あまりの情けなさにライドウが押し黙るが、直ぐにゆっくりと顔を上げて、溜め息を一つ。
「……申し訳ありませんでした。」
自らの不甲斐なさを恥じてか、ぎゅっと唇を噛んで俯くライドウに、鳴海が肩を竦めて笑う。
「そこまで落ち込むことじゃない。この暑さなら、仕方ないことさ。……ま、それよりも。」
そう言ってライドウの頭を軽く撫でてから、すっと何かを差し出してみせた。
「ライドウ、これ食べないか?」
「え……?」
差し出されたものを見て、ライドウの目が丸くなる。
透明な結晶体、それが放つ空気はただ冷たく。
「これは――氷?」
「そ。普通に水分を摂るのも味気ないな、と思ってな。食べやすいように砕いてみました。」
大小様々な形に細かく砕かれた氷が、やや小ぶりの硝子の器に盛られていた。
「ま、ただの氷じゃ味覚が不足するんで、糖蜜かけてるけど。えーと、言うならコレ、かき氷?」
「……というか、普通のかき氷のほうが良いんじゃないのか?」
寝台の上、ライドウの傍らに寄りながらゴウトがボソリと呟いた。
しかし、鳴海の眼中にあるのはライドウだけ。ゴウトの皮肉など聞こえなかった、という振りをしてやり過ごしたようだ。涼しい顔で鼻歌を歌いながら、スプーンで細氷を掬いあげると、それをライドウの口元に差し出して笑いかける。
「はい、ライドウちゃん。あ~んして。」
「……あの、鳴海殿……自分で出来ます、から。」
ライドウが手を上げてスプーンを受け取ろうと意思を示すも、それを制して鳴海は言う。
「だーめ。ほら、あ~んして。溶けちゃうだろ?」
「……ですが……」
ライドウが困惑して、側のゴウトに救いの視線を送りかける。
けれども、鳴海の行動に対し、これ以上の文句を言うのは今更な感がしたのだろう。ゴウトはサジを投げたようで、眉間に皺を寄せつつも、静かに首を振った。まるで、「今回は諦めろ」とでもいうように。
ライドウは溜め息を吐くと、観念したように口を開いた。それを見た鳴海が、嬉しそうに笑みを深くして頷く。
「良い子だ。――はい。」
「ん……。」
冷たい欠片が、口内の熱に触れて溶ける。溶けながら冷気を撒き散らし、あとは水に還りライドウの喉を潤す。
こくり、とそれを飲み込んで、はふ、と息を吐く。
「どう?」
「あ、はい……美味しい、です。」
喉を通過する水が胃の府に落ち、倦怠感が緩む。
「良かった。じゃ、もっといこうか? ――はい、あ~んして。」
「え、あの――もう、後は自分で……その……」
「いつもライドウには世話になってるんだ。こういう時くらい、俺に世話させてくれてもいいだろ?」
「……は、はぁ……。」
世話をする、と言う割に、その顔は嬉しそうで、この状況を楽しんでいる気がした。
「……七綺、騙されるな。玩弄されているぞ。」
「ラーイドウ。ほら、口開けて。」
「え、あの――ふ、ぁ――……」
ゴウトの呟きに疑問を抱く前に、鳴海によって砕氷が口に詰め込まれたライドウは、言葉と対応を見失う。
相手の突飛な行動に反応できず、まごついている書生に鳴海は片目を瞑って笑みを一つ。
「遠慮せずに、いつでも甘えてくれていいからな?」
「は、……えっと――」
「調子に乗るなよ、鳴海。」
「あっは。嫉妬?」
「そいつに妙な真似はするなと言ってるんだ、この不良中年。」
鳴海とゴウトと間で、ばちばちと散る火花のようなものが見えた気が、ライドウはした。が……気のせいだろう。そう考えてライドウは一人、暮れ始めた窓の外を一瞥し――そろそろ夕食の支度をまずいんじゃないか?――と、そんなことをぼんやりと思いながら黒猫と上司の喧騒を眺めていた。