猫と書生と所長さんの一日
07.刹那、切なく
その日、彼の書生は朝から事務所に居た。
「……ん。」
脱水症状を起こして倒れて以来、微細なことにも気をつけてるようにしている。空気が乾燥しているのか、喉に微かな痛みを覚えた。喉元を押さえながら、机上に置いてあるグラスを手に取り、中身を飲み干して一息つく。
「――はぁ。」
外を見れば、雨。
さりとて、天候不良を気にすることもなく、調査に行こうと戸口に向かえば。
「ライドウ、今日は止めておけ。」と、鳴海に止められて。
そうして、今の状態に至る。
掃除はしたし、汚れ物も片付けた。
すると、あとはもう何もすることが無くなり――。
手持無沙汰――つまりは、暇になった。
ライドウは鳴海がいる部屋の隣に行き、窓越しに外を眺めて時間を潰していた。
空いた手を慰めるように帽子の庇に触れながら、街並みに視線を止めている。雨のせいか、人通りはいつもより少なくまばらで、閑散としていた。
たまに、傘を持たない人間が慌てた様子で駆け去っていく以外は、いつもと同じ光景。
時折、曇る窓の表面を指先で撫でて、視界を鮮明にする。
流れる雫、指先を濡らす水滴、外は雨。
ゴウトは、ライドウの部屋で寝ている。
(……刀の手入れでもするか。)
そう思い、立ち上がったところで戸を叩く音がした。
「――鳴海殿ですか。如何なさいました。」
相手の声を聞く前にそう言えば、ドア越しに相手の苦笑が伝わる。扉が開き、鳴海が姿を見せた。
「気配だけで相手を察するとはねぇ……さっすがライドウちゃん。」
気配もそうだが、それ以前に今、事務所に居るのは二人だけで――いや、ゴウトも居るが、人の足音がすれば、気配で悟らずとも必然的に答えが出るというものだ。なにせ、人は他に、ライドウと鳴海しか居ないわけなのだから。
ライドウは微かに苦笑を滲ませると、窓辺にもたれ掛かっていた姿勢を正して言葉を返す。
「何か、御用命でしょうか?」
「ん、ああ――いや、なに。別に用があって来たんじゃないんだけどな。」
鳴海はライドウの側まで歩いてくると、近くにあった椅子を引いてきて、そこに腰掛けた。そして足を組み、ライドウを見上げて笑いかける。
「退屈だろ? 何か話でもしないか。」
「話、ですか……。事件に関する事柄は、書類形式にして既に渡してありますが――」
「違う違う、そういう話じゃないよ。それに、それは話じゃなくて報告、だろ。俺が言っているのは、おはなし。ライドウ、会話しようって意味だよ。」
「会話ならば、今のこれが該当するのではないのですか。」
鳴海の苦笑が柔らかく崩れ、微苦笑に変わる。
「あーもー。そうじゃ、なくて。……談笑しよう、ってことだよ。」
鳴海が身体を伸ばし、ライドウの腕を掴んで引き寄せた。
瞬間、びくりと身を強張らせるライドウに構わず、鳴海は語りかける。
「ライドウはさ、何で人が嫌いなんだ?」
「嫌い、というわけでは……。」
伏せた視線を逸らし、ライドウが口篭れば、鳴海は更にその身体を引き寄せて。
「でも、あまり好きじゃないよな? 接する時に距離置いてるし。――例えば、今が良い状況だ。」
「……。申し訳ありません。」
「謝るのはいいから。……ライドウ、こっち向いて。」
「……。」
ライドウの目に僅かな狼狽が走るのを見ながら、鳴海がもう一度言うのは同じ言葉。
「――ライドウ。人が話している時は、目を逸らすもんじゃない。」
鳴海の言葉に、ライドウが視線を鳴海に向ける。余程、今の状態が嫌なのだろう。庇の下から表情を窺えば、その眉根が寄せられているのが見えた。
笑う、鳴海。
「至近距離からの直視は、苦手かい?」
「――……あまり、好きではありません。」
「そうか。勿体無いな……。」
言いながら片手を上に伸ばし、ライドウの学帽を滑り落とした。ぎくりとして顔を上げるライドウの、その露になった頬に触れて、鳴海が言う。
「こんなに綺麗な目をしてるのに。隠しているのは、勿体無いよ。」
「な、鳴海殿――っ」
指先で瞼に触れ輪郭をなぞれば、ライドウが眉を顰め身を引こうとした。
けれどそれに合わせるように立ち上がると、鳴海はそのまま窓辺にライドウを押し付ける。きしり、とガラスの軋む音がした。
「そう逃げなさんなって。何も、捕って食おうってわけじゃないんだから。」
「……鳴海殿の食物としては、私は不適合かと思われます。」
「ははっ! ライドウも冗談を言うんだな? なに、食べられないことはない。」
「……?」
鳴海が顔を近づける。
鼻先まで距離が詰まる。
直視。
かかる吐息。
間近で囁く声。
「なっ……る、み……どの……。」
緊張のせいかライドウが掠れた声を出して退こうとするが、背後は窓ガラスで。
掴まれたままの腕、前には鳴海の壁。
「俺にまで怯えるのか、ライドウ? それはちょっと傷つくかも――」
顔が、近づく。
唇が重なりかける刹那、ライドウが顔を横へ背けたが、鳴海はそのまま顔を近づけて。
「……っ!」
首筋に唇が触れた、と感じた瞬間、ちりりと軽い痛みが走った。
何をされたのか――いいや、これ以上、何をされるのかなど考えたくはない。ライドウは嫌悪に身を竦め、唇を噛む。
「……っ――ゴウト……!」
泣きそうな声で、微かに名を呼べば。
「――七綺から離れんか、この色情魔っっ!」
「痛っっってぇぇぇ!?」
布を裂くような音と、鳴海が絶叫したのは、ほぼ同時だった。
鳴海の拘束が、解ける。
「……ゴウトっ!」
腕の檻から逃れ出たライドウの瞳に、安堵の色が浮かんだ。
そんなライドウを見て、微笑するゴウト。それから鳴海を睨みつけるなり毛を逆立て、床に爪を立てた格好で威嚇の姿勢をとった。
「不埒者が。とっとと出て行け! 今度は噛み付くぞ!」
ゴウトの怒声を受けた鳴海が、両手を胸の前で上げて降参の格好をとった。そのままの格好で後退りつつ、残念そうな声で鳴海が言い返す。
「分かった、分かったよ。おい、ライドウ。俺が退出する間、ゴウトを抑えててくれよな?」
そう言うなり、一目散に戸口に駆け寄る鳴海だったが、部屋を出て行く間際、肩越しにライドウを振り返り、一言。
「続きは、ゴウトの居ない間にな?」
「――まだ言うか!」
シャアッ、とゴウトが唸るのと鳴海が戸を閉めたのは、同時だった。
「……全く。――大丈夫か、七綺?」
ゴウトが声を和らげて問い掛ければ、ライドウが苦笑して頷いた。
「大丈夫……というのも、何かおかしい気がするけれど……まあ、何とか。」
「そうか。しかし、あれほど言っておいただろう。鳴海には気をつけろと。」
「すまない……。」
帽子を拾い上げ、被り直すライドウ。それから足元に寄って来たゴウトに跪き、その身体を抱き上げると窓辺へと歩み寄った。
「一応、気をつけてはいたんだけど。」
嘆息ついたライドウに、ゴウトが見上げて言い返す。
「お前は少し優しすぎるんだ。今度、襲い掛かられたら撃てばいい。――そうだ。暴威弾を持っていただろう? あれでいけ。」
「……いや、ゴウト……それは……。」
「では斬撃にしておくか。この間、力の強い悪魔を融合させたばかりだったよな?」
「……ゴウト、鳴海殿には……その、一応、世話になっているんだし――」
「愚か者! それとこれとは全くの別問題だ!」
腕の中で怒りに燃えるゴウトを他所に、ライドウは苦笑するだけに留めると、窓の外へと視線を投げて息を吐いた。
掴まれた腕が、熱い。
首筋がチリチリしている。
これは、何だ?
どうしてか胸がざわめいて……落ち着かない。
「七綺、聞いているのか?」
「――ん。ああ……聞いている。」
「いいか。とにかく、懐に銃を忍ばせておけ。管も、易く取り出せるようにしておけ。それと、後は――……」
尚も喋るゴウトの言葉は、途中で耳に入らなくなる。
ただ、雨の音と奇妙な熱が気になっていた。
「これは……何だろう……?」
ぽつりと疑問を呟いてみたが、その答えは見つからない。
「おーい、ラーイドーちゃーん。珈琲淹れて~~。」
「あ、はい――只今参ります……!」
鳴海の声が耳に届いて、ようやく我に返ったライドウだった。