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猫と書生と所長さんの一日

08.緩やかに止まる時間



「只今戻りました。」
「お帰り、ライドウ。何だ、今日は早いんだな?」
帰ってきたライドウを見て、鳴海が少し驚いたように声を掛けた。何故なら、ライドウはいつも夕暮れまで帰ってこないからだ。
出掛けたのは三時間前で、今の時刻は昼を少し過ぎた頃。
何か、あったのだろうか?
鳴海が不安で顔を曇らせたところに、ライドウの声が掛かる。

「此度の事件の糸口を掴みましたので、鳴海殿に御報告する為、一度此方へ戻った次第です。」
「何だ、何かあったわけじゃないのか。」
――良かった。外套を衝立に掛けながら話すライドウに、鳴海が安堵の息を吐いて笑う。
「そっか、じゃあこの事件ももう直ぐ解決するな――ひとまず、お疲れさん。珈琲でも飲むか?」
「ありがとうございます。ですが、その御気持ちだけで結構です。」
答えながら振り向いて、ライドウが庇を下げる。
突き放したような返事だが、見せた動作は、まるで一礼をしたような仕草に見えた。鳴海の言葉に、感謝の意を示したらしい。

「私が起こすべき行動ですから。鳴海殿は、どうぞそのままで、お掛けになってお待ち下さい。」
そう言って、ライドウは部屋を出て行こうとする。
「真面目だねぇ、ライドウは。いいから、俺に日頃の感謝をさせてくれ。」
苦笑しながら立ち上がった鳴海が、ライドウに近づいて引き止めようとした時だった。

がつ、と何かに引っ掛かったのは分かった。
だから、一旦ライドウの腕を放して、立ち止まれば良かったのだが。

しかし、手を離してしまえばライドウが去っていく……。
故に、結局構わずにそのまま、前に足を踏み出した。

……それが、いけなかった。

ビリッ、と鈍い裂傷音が、した。
それは鳴海だけでなく相手にも聞こえたのだろう、ライドウが僅かに目を丸くして振り返る。
「鳴海殿、今――……」
「うん、……」
ライドウの物言いたげな視線を受け、鳴海が苦笑ながら音のした方……自分の腰の少し下、丁度ポケットのある辺りを見れば、そこには見事な裂傷が出来ていた。
「あーあ……こりゃまた綺麗にやっちゃったなぁ……。」
「……。」
「ん? ラ、ライドウ!?」
鳴海が戸惑った声を上げた。ライドウが側に寄り、その裂けた部分に手を伸ばしたからだ。
白い指先が、触れるか触れないかの近さで、何かをなぞるように動かされていたが、やがてライドウは鳴海に向き直って、言った。
「――それを脱いで、渡していただけませんか? 繕いますので。」
「は、……繕う、って……。ライドウ、裁縫も出来るのか?」
「はい。この程度ならば、ものの数分で修復できます。……御迷惑でなければ、お繕い致しますが。」
「迷惑なわけないだろ。じゃあ、頼んじゃおうかな。ありがと、ライドーちゃん。……ごめんね。」
労うつもりが、逆に手間を増やしてしまった。申し訳なさそうにして頭を掻く鳴海に、ライドウが首を振って言う。
「不測の事態です、御気になさらずに。……ここでは少し不便ですので、隣に――。」

◇  ◇  ◇

裁縫箱を片手に、二人は隣の和室に移動した。この部屋は畳が敷いてあって土足は厳禁なので、二人は入り口で靴を脱いで揃え、中に入る。部屋の中央に、きりりと姿勢を伸ばして正座し、ライドウが膝の上で鳴海のズボンを広げた。

「……どう、ライドウ?」
肩越しから覗いて尋ねる鳴海に、ライドウは破れた箇所を手先でなぞりながら、答える。
「はい、私の手でどうにか出来そうです。なるべく、見っとも無きさまにならないよう心がけて修繕させていただきます。」
「……いや、ライドウくん……何もそこまで思いつめる必要は無いんだぞ?」
ライドウの覚悟を聞いて、鳴海が苦笑した。

慣れた手際で、破れが繕われていく。流れるように、静かに、けれど素早く丁寧に。
流麗なライドウの動作に、鳴海が感嘆の溜め息を吐いた。
「……はぁ~~。見事なもんだねぇ。凄いよ、ライドウちゃん。」
「ありがとうございます。」
縫い物に視線を留めたまま、ライドウが答える。その間にも、針は進んでいく。
「デビルサマナーってのは皆、こんな風に何でも出来るのか? それとも、こういうのは必修科目に入ってるとか?」
そう言って、あはは、と笑う鳴海。
ライドウも笑ってくれるものだと思っていた。
――だが。

「……いいえ。私は一人でしたから、必然的に身についたのです。」
「……あ、え……っと。」
「私には、何もありませんでした。一人でしなければ、生きていけなかったのです。ですから、必修科目かどうかは分かりません。」
淡々と、何でもないことのように語られる内容は、昏さに満ちていた。
けれど、縫い物をするライドウの動作も表情も、変わりは無くて。あまりに冷たく沈んだライドウの呟きに、言葉を失う鳴海。

「――鳴海殿、修繕が完了致しました。」
呆然とする鳴海に、ライドウが声を掛けた。
その声に、もう昏いものはない。
「あ、……。ありがとう、ライドウちゃん。」
「いえ。後は、糸を切るだけで――……ん。」
裁縫箱を探っていたライドウが、不意に短い声を上げた。
鳴海が、首を傾げて訊ねる。
「どうした、ライドウ?」
「ああ、いえ……鋏を何処かへ置いたままにしているようで……。仕方ないな。」
ふぅ、と短い溜め息を吐いて、ライドウが繕った場所を持ち上げ、そこに唇を寄せた。

きり、と。
糸に立てられる犬歯が覗いたかと思うと――ぷつり、とそれが綺麗に断たれた。
ライドウが口端を指先で押さえるが、ふと鳴海の視線に気づき、微苦笑した。
「無作法を、お見せしてしまいました。手間を煩い、噛み切らせていただいた次第です。申し訳ありません。」
悪戯げな色を瞳に浮かべ、苦笑するライドウのその表情は、あの黒猫の前でしか姿を見せない青年の姿のものでいた。
鳴海が見たかった、見たいと思っていた、素顔のライドウ。
あまりにも無防備な表情の出現に、鳴海が赤面して口元を押さえる。

(これが……ライドウの、……。あの、ゴウトの前でのみ現れる……これが……。)
その不意打ちは、鳴海の心臓の深くを捉えた。正面からの綺麗な微笑に、見事にやられた。
そのまま微動だにしなくなった鳴海を見て、ライドウが眉根を寄せて声を掛ける。
「鳴海殿? 如何致しましたか?」
「あ……いや、な……――」
何を言えばいい?
見蕩れていたと、言えばいいのだろうか?
……誰に?
……ライドウに?

――いや、違う。
ライドウじゃ、ない。

今のはライドウではなく――未だ名を教えてくれない青年、だ。
名前を知らないから、答えようが無い。

「あの、鳴海殿? 御気分が優れないようでしたら、何か薬湯でも作って参りますが――」
そう言うなり、ライドウが針と糸を箱に仕舞い、繕い終わったズボンを手に、立ち上がろうとする。
「……待った、ライドウ!」
その腕を強く引いて、鳴海が止めた。突然の引力を受けたライドウが、がくりと片膝を付いて鳴海を見る。
「何を……。」
「……――。」
「え、あ、な、鳴海殿――!?」
ライドウが戸惑った声を上げたのも、当然かも知れない。何故ならば、鳴海は黙ったまま、正座させたライドウのその膝の上に頭を置いて寝転がったのだから。

「気分が悪くなったから、寝る。」
「それでしたら、布団を御敷き致しますが……。」
「いいの、これで。……じゃ、俺は寝るから夕方頃に起こしてね?」
「あ、……。……はい。」
狼狽するライドウを尻目に、にんまりと笑いかけて鳴海が目を閉じた。
視界を閉ざせば、後に残るのは聴覚と触覚。
少し骨張っているが、しかし温かいライドウの膝の上。その居心地よさに、鳴海の意識が薄れ始めていた最中だった。
「……ふ。」
不意に、頭上から微かに笑う声が降って来た。目を開けたかったが、それでも我慢していると今度は髪に何かが触れる感触。それがライドウの指先だというのに気づき、どきりとする。

(……ライドウ?)
続いて、髪を梳かれた。その仕草が、何処までも柔らかで優しく。
高鳴る、心音。けれどここで目を開けてしまえば、きっとそこでこれが終るのだろうと考えると目覚めることなど出来ない。
そんな勿体無いこと、出来やしない。
ライドウは鳴海が完全に寝たものだと思っているのだろう、髪を梳きながら呟きごとを漏らす。
「急に寝始めるなんて、おかしな人だ。……一度、触ってみたかったんだよな。鳴海殿の、この髪。」
くすくすと笑いながら、緩やかな仕草で梳かし梳く。
「……やっぱり、人の髪と猫の毛は違うんだな……でも、鳴海殿の髪、何か猫みたいだし。」
そう言って、また、笑う声。

(そんな声で笑うなよ、ライドウちゃん……。寝たふりが出来なくなるだろ。)
楽しげに髪を梳きながら、子供のように笑うライドウに、鳴海が堪らず顔を隠すように横へ寝返りをうつ。
すると、ライドウが一瞬びっくりしたように手を止めた――が、それでも目を覚まさない鳴海を見て安心したのか、また髪に触れ梳かす行為を始めるのを感じ、鳴海が微かに笑みを浮かべる。

(頼むから、誰も来てくれるなよ。電話も、鳴らないでくれ。……頼むから、もう少しだけこのままで居させてくれ。)
鳴海は目を閉じながら、天に祈るような気持ちで、そんな願いを心中で呟いた。
髪を梳く指先と、頭上で静かに笑うライドウと、この今を。

どうか、もう少しだけ。