猫と書生と所長さんの一日
09.うつろうこども
「遅いなぁ、ライドウの奴……。何処まで買出しに言ってるんだ?」
他には誰も居ない事務所内で、鳴海が机を指先で叩いて呟いた。
金王屋に用事があると言って出掛けようとしたライドウを、鳴海は寸手で引き止めて、ついでに夕食の材料を買ってくるように頼んだのだ。
その際にゴウトが眉を顰めるのが見えたが、「別にこれくらい構いやしないだろう、ついでなんだし」という視線を返しておいた。何にせよ、材料がないと食事は作れないのだ。
「それでは、行って参ります。」
ライドウは素直に承諾し、いつものように外套を羽織って出掛けて行った。
勿論、ゴウトもその後に着いて。
それが昼のこと。――そして今は夕暮れ。
外は鮮やかな茜色染まり、それに掛かるように青い夜の帳が落ち始めた暮れあい刻。
けれど、ライドウは帰って来ない。帰ってくる気配も、ない。
「道に迷った……――なんてな。」
それは今更ありえないだろう、と口にして、苦笑する鳴海。
しかし、それはそうと……本当に、遅い。
「ラーイド~……もう、夕食の時間だぞー……。」
静かな室内に、ぐう、と奇妙な音が鳴る。
「あー、お腹空いた。」
鳴海は億劫そうに立ち上がると、上着を羽織り、帽子を被って玄関に向かう。
「このまま俺を飢え死にさせる気か、ライドウ。」
子供のように膨れて、部屋を後にする。
自分で食事を作ろうなどとは思わない。鳴海が食べたいのは、ライドウの手料理だから。
◇ ◇ ◇
事務所を出て金王屋を覗いたが、ライドウの姿は無かった。代わりに、そこの主人に尋ねてみる。
「小僧なら、とっくに用事を済ませて出て行ったぞい。」
「そっか……何処行ったか、聞いてない……よな。」
「儂が知るわけなかろう。お前のところに戻っておらんのか。」
「戻ってたら、俺は此処に来てないって。」
「それもそうか。では、とうとう愛想を尽かされたかのう……クククククッ。」
「……お邪魔しました。」
手掛かりは掴めず、逆に不吉なことを言われ、鳴海は足早に店を出た。
「はぁ……。じゃあ、次は何処だ?」
一瞬、行き先に百貨店が浮かんだが、直ぐにそれは打ち消された。何故ならば、ライドウは人が多い場所がとりわけ苦手であるから。
「……商店街……でもないか。神代坂の方……か?」
口元に手を当てて呟きながら、歩き出す。路地裏から回ったほうが早いだろうと考え、金王屋の角を曲って人気の少ない裏道へ入る。そして、坂に続く道を進んでいった。
「……ライドウ?」
奥の暗がりに有る階段を上がり、神代坂に出たところで、鳴海が声を上げた。正面の多聞天、赤い鳥居の有る敷地の奥に、ライドウが居たのだ。足元に買ったものらしき包みを置き、段差に腰を下ろして何処か遠くを見ている姿が窺える。
「ライドウ、こんな所に居たのか。帰りが遅いから心配したぞ――」
笑いながら近づく鳴海だったが、ライドウの視線の焦点が遠いままなのが気になった。
見れば、胸にゴウトを抱き、顔を埋めるようにしている。母親に縋りつく子供のようなその眼は何処も見てはおらず、焦点が合っていないというよりは自失している感じに近い。
その腕の中では、抱かれているゴウトが暴れもせずにじっとしていた。ゴウトにもライドウに何が起きたのか分からないらしく、戸惑った表情で鳴海を見返しながら、苦笑する。
「ああ。迎えに来たのか鳴海。」
「何だ? これは一体どうしたんだ? ……ライドウ? おい、ライドウ――!?」
鳴海が身を屈め、ライドウの肩に手を置いて何度か強い声で名を呼んだ。すると、不意にライドウの気配が変わりだす。
「……。……? ――鳴海、殿……?」
ライドウがゆっくりと顔を上げ、ぼんやりと呟いた。虚ろな双眸に光が宿っていくのを見て、鳴海が、ふぅと安堵の溜め息を吐いて笑いかける。
「何だ、ようやく戻ったな――何かあったのか? かなり、ぼんやりしていたみたいだが。」
「そう、ですか……? すみません……。」
あまり声に抑揚が無いのは、まだ完全に覚醒していないからだろう。ライドウは自分の腕の中に視線を落とすと、ゴウトにも話しかけた。
「ああ、ゴウト……すまない。苦しくはなかったか?」
「ようやっと正気に返って、俺の存在に気づいてくれたか。……鳴海の次に、というのが癪に障るがな。」
ゴウトがぺろりと鼻の頭を舐めて笑うと、ライドウが苦笑して帽子の庇を引き下げた。
「ん、悪い――」
「それよりもさ、ライドウ? お前さん、どうしてこんな所に居るんだ?」
「え、……ああ――」
鳴海に問われ、ライドウが正面に視線を戻して言う。
「いえ、最初は少し用事で立ち寄っただけなのですが……途中で、子供たちが遊んでいる場面に出くわしまして。」
「成程。そういやたまに、子供たちが遊び場にしているっけ。……それで?」
「はい。それから、子供たちが私の周りに集まってきて、一緒に遊ぼうと言うので……断りきれず、その……。」
「そうか。それで、遅くなったってわけか。ははっ! ライドウは、子供が好きなんだな。」
笑ってライドウの頭を軽く叩く鳴海だったが、ライドウの次の言葉を聞いて固まることになる。
「……いいえ。私は、子供は好きではありません。」
「……ラ、ライ……ドウ?」
少し俯いて、ライドウが言った。昏い声に、鳴海が驚いてライドウを見る。
「……子供は、嫌い、です。――こどもなど――」
「七綺!」
「ライドウ!」
呟くライドウの目がまた虚ろに還っていくのに気づき、鳴海が声を大きくして名を呼ぶのと、ゴウトが口を開いたのは同時のことだった。
両方からの大声を受けて、ライドウが、ぎくん、と肩を震わせた。移ろいかけた焦点が、元に戻る。
「あ、……はい、何でしょう……?」
やや首を傾げ鳴海とゴウトを見返すライドウに、一人と一匹が軽く息を吐いた。
ライドウは今、自分の身に起きかけたことが分からないらしい。鳴海とゴウトが顔を見合わせ、それぞれ溜め息を吐いた。
「……帰ろう、ライドウちゃん。俺、もうお腹空いちゃって目が回りそうなんだけど?」
鳴海が茶化すようにそう言えば、ライドウがここで「あっ」といった表情をして立ち上がった。
「申し訳ありません! 今すぐ帰って、支度を致します!」
「ああ、そんなに慌てなくて良いよ。一緒に帰ろう、ライドウ。」
「……はい。お心遣い、痛み入ります」
そうして歩き出す鳴海の後を追うように、ライドウも足を踏み出す。しかし彼は不意に立ち止まると、暮れなずむ空、青みが強くなる夕焼けを見上げて、僅かに目を細めた。
「……俺はもう――……こどもじゃ、ない……」
遠い目をして呟く言葉は掠れ、吐息のようで形を成さずに溶けて消える。
「ラーイドー? どうしたー?」
「……何でもありません、鳴海殿。今、参ります。」
再び歩き出すライドウを、ゴウトが黙って見つめていたが、やがて静かに首を振ると、何も言わずに後に着いていく。
「こら、七綺。俺を置いていくな。」
その声を聞いたライドウが肩越しに振り向いて――柔らかに微笑した。
夕暮れ刻。
コドモが見た虚ろの世界は誰も知らずに日暮れて終る。