猫と書生と所長さんの一日
10.静かな接触
その日は、とてもいい天気だった。
外に出て人気のない場所でゴウトと共に日光浴でもしたら、さぞ気持ちが良いことだろうと思う。
そうだ。どうせなら、仲魔も喚び出して一緒に楽しんでも構わないだろう。彼らも管の中に居るばかりだと退屈だろうし、鬱屈しているのかもしれないし。
そんなことを考えながら、ライドウが出掛けようとして、玄関脇の外套を手に取った時だった。
「あー……ライドウ、ちょっと良いか?」
「はい。何でしょうか、鳴海殿。」
嫌な予感がした。何故なら、前にもこういうことがあったからだ。
ライドウが振り返ると、申し訳なさそうな顔をして苦笑した鳴海が、頭を掻いて口を開く――。
◇ ◇ ◇
「……。」
鳴海の居なくなった、事務所内。その窓辺に腰掛けながら、ライドウが吐息だけの溜め息を吐いた。
窓の外に広がる蒼天の景色を眺めながら、窓枠にもたれ掛かり、帽子の庇を下げる。
「……はぁ。」
そうしてようやく声を出したかと思えば、それも同じ溜め息だけ。外は、清々しいほどの快晴。
鳴海は、出掛けようとしたライドウに言った。
『悪い、ライドウ。――今日は一日、事務所の留守番を頼む。』
ここを度々訪れる人間といえば、家賃を取り立てにくる大家くらいなので、別に無人でも構わないだろうに(現に、無人の時がある)、何故かこの日、鳴海は急にそんなことを言い出すなり帽子を被ると、己が出掛けることを告げたのだ。
それも、よりにもよってライドウの出掛け前に。先程の悪い予感は、見事に的中したというわけだ。
ライドウはといえば、僅かに眉根を顰めたがそれは帽子の影に隠して悟らせず。逆らうようなこともなく、纏いかけた外套を脱ぎ、ただ頷いて素直に従うことしか出来ない。
『……了解、しました。……行ってらっしゃいませ、鳴海殿。』
返した言葉の前が不自然に空いてしまったが、変に思われなかっただろうか。返した声に、不満げなものが混じってはいなかっただろうか。
ライドウは幾分か気落ちしつつも、そうして鳴海が出て行くのを静かに見送ったのだった。
◇ ◇ ◇
そして、今現在。
ライドウはこうして無人の中に一人残されているわけだが、はっきり言って暇で仕方がない。
掃除も片付けも済ませているし、装備の手入れなども、つい最近したばかりだ。
ゴウトはと言えば、留守番を頼まれたライドウの代わりに、捜査をしに外へ出ていった。ライドウの為に、少しでも情報を集めて来る、と言って。
全く頼もしい限りだが、しかし――……ゴウトには悪いが、そのまま一緒に居残ってもらいたかった、というのがライドウの本音だった。
一人で居るのは苦痛ではないし、慣れてはいるのだが、けれど。
奇妙な寂寥感に襲われ、ライドウが両肩を抱いて呟く。
「こんな天気の日に、室内に一人残されるのは――な……。」
寂しいのか、人恋しいのか、分からなくなる。
(……人、恋しい?)
「……莫迦な。」
過ぎった考えに憮然とし、ライドウは思わず否定の言葉を吐き捨てた。
”人”が恋しいなんて――そんなこと、思うわけがない。
これは間違いだ。今のは……きっと、何かの間違いだ。
自らを咎めるように、こつん、と窓に頭を軽くぶつけて、ライドウは再度、外の景色へと目を向けた。
綺麗な青が、広がっている。雲は輝くほど真っ白で、降り注ぐ太陽は眩しくて。その中を往来を行き交う小さな人影を見ていると、今、この時間が酷く勿体無い気がした。
僅かに苛立ちが募るが、けれど腹を立てたところでどうなるものではない。気を静めたライドウが、大きく息を吐いて一人ごちる。
「それにしても――……鳴海殿は一体、何の用で出掛けているんだ……。」
鳴らない電話、訪れる人も無く。
窓越しに差し込む陽光が、温かくて気持ち良い。
「……。ゴウトも……遅い……な。」
早く帰って来て欲しい。
どうしてだか落ち着かない。
ゴウト、もう俺の為に捜査しなくていいから、帰って来い。
ゴウト、……。
まどろむ意識。重くなる、瞼。
疲れているのだろうか。
こんな所で寝てはいけない、と。
そう思ってはいるのだが、襲い来る睡魔の方が強くて。
ああ、でも、少しだけ――少しだけ、なら……。
どうせ、人は来ない。
だからきっと、電話も鳴らない――……。
ライドウはそのまま、深い眠りへと落ちていく。
◇ ◇ ◇
「ライドウ、帰ったぞ――……って。ん……?」
日が傾き始めた頃にようやく帰宅した鳴海だったが、部屋の奥――窓際に寄り掛かっているライドウに気づくと、ふと足を止めた。
「ライドウ……?」
そんなところで何をしているんだ?と話しかけようとして、そっと側に歩み寄ってから、ようやく合点がいく。
両腕を組んで気持ちよさそうに寝ているライドウが、そこに居た。
完全に眠りに落ちているのか、鳴海が側に行っても全く目を覚ます気配が無い。
(……これは、チャンスってやつか?)
鳴海は口元に笑みを刻むと、ライドウの頬にそっと触れてみた。
そのまま静かな動作で顎を持ち上げてみるが、それでもライドウは目を覚まさない。上を向かせた拍子に唇が僅かに開き、隙間から垣間見える赤い舌に、視線が釘付けになり離せなくなった。
そのまま、惹かれるように顔を近づける。
(……起きてくれるなよ、ライドウ。)
そんなことを心中で呟きながら、ゆっくりと唇を合わせた。
「……んっ……。」
僅かにくぐもった声が上がり、鳴海はライドウを見るが相手はまだ昏々と眠ったまま。
(こりゃよっぽど疲れが溜まってたのかねぇ……?)
そんな考えが浮かび、何だか申し訳なくなって唇を離す鳴海。ライドウの濡れた唇にそっと触れ、跡を消すように指先でなぞれば、その感触を受けて、相手がまた短い声を出して呻いた。
無意識の反応なのだろうが、鼻に掛かったような声は甘くて。
「……。ライドウ。もしや、気づいてて誘ってるんじゃないだろうな――?」
ふと、そんな台詞を問い掛けてみる鳴海だったが、反応がないライドウを見て、それがただの取り越し苦労だと知る。鳴海は苦笑すると、ライドウの側に立ち、髪や頬に触れながら、その滅多に見れない寝顔を眺めることにした。
彼の書生が目を覚まし、その近さにぎょっとするまで。