猫と書生と所長さんの一日
14.異界化異聞録
「む……?」
とある昼下がり。午睡より目覚めたゴウトは、傍らにいる筈の七綺の姿が見えなくなっていることに気づいた。
「何処へ行った? ……七綺? ……七綺――?」
名を呼びながら部屋の周囲を見回してみたが、姿はない。気配すらも。
ふと見れば、戸口が僅かに開いていた。部屋の外に出たのだろうか。
(……鳴海にでも呼ばれたのか?)
事務所で相変わらず何もせずに、ただ新聞を読んでいるか煙草を吸っているかしかしていない鳴海の姿を思い返し、ゴウトが眉根を寄せる。
(あいつは暇なくせに、どうでもいいことで七綺を呼びつけるからな、)
心中で毒づくゴウト。
だが、実際には鳴海が何をしているか、知らない。本当に日中を無駄に食いつぶして、だらりと過ごしているわけでは無いのだろうが、如何せん、鳴海が動くのは事件が収束に向かう寸前なのだ。
だから、ゴウトは鳴海を暇人だと決め付けている。まあ、鳴海の陰の行動を知ったとて、鳴海に対する見解及び認識を改める気は、全く無いだろうが。
――と、鳴海のことはいい。
今は、七綺の行方だ。
ゴウトは軽やかに床に降り立つと、、僅かに開いた戸の隙間から、外へと身を滑り込ませた。
◇ ◇ ◇
事務所に向かう途中、台所の前を通りがかったところで、ゴウトの足が止まる。水場の前を、一瞬、何か黒いものが過ぎていくのが見えた気がしたのだ。
見間違いでなければ、あれは外套の裾だった。
いいや。――見間違える、筈が無い。
「七綺――……?」
中に入って名を呼べば案の定で、棚の前に立っていた七綺が振り向いた。
「ん? ……ああ、ゴウト、起きたのか。良く眠れたか?」
「む……、まあな。」
ふわりと微笑する七綺に見蕩れながら、ゴウトが近づいて話しかける。
「済まん。少し目を休めるつもりだったのだが、気づけば寝入っていた。」
「ゴウトが謝ることじゃない。疲れが取れたのなら、俺は嬉しい。どうだ、気分は?」
「ああ、問題ない。それはそうと――……こんなところで、何をしている?」
ゴウトが問えば、七綺が微苦笑して。
「食糧の在庫確認をしていた。」
「……在庫確認?」
その突拍子も無い台詞に、ゴウトが首を傾げてみせれば、疑問を補うように七綺が笑って言う。
「ほら、料理をする時に調味料や材料が不足していては、困るだろう?」
「別に構わないじゃないか。少しくらいが欠けていても。お前は、不足に対する補助能力が優秀だし、それに、作るものは何でも美味いのだし。」
「しかし、不足があると作られる量も種類も、限られてくるだろう?」
「どうせ腹を空かせて喚くのは、鳴海くらいだろう。……良いじゃないか。」
「……いや……。駄目だよ、それは。」
「そうか?」
「うん……駄目だ、と思う。俺は預かりの身の上なのだし。」
「甘いな、お前は――まあいい。それもお前の美徳だしな。……で? 在庫状況はどんな感じなんだ?」
ふう、とゴウトが息を吐いて苦笑しながら先を促せば、七綺が笑って答える。
「確認したところ、だいたいは間に合っている。強いて言うなら……そうだな、砂糖と醤油がもう少し欲しい。頃合を見計らって、買いに行く予定でいる。」
「そうか……ところで、主食である米は足りているのか?」
「ん、……。……まぁ、それなり、に。」
と、そこで七綺が目を伏せて言い淀んだので、ゴウトが訝しんだ顔をして訊き返す。
「……足りていないのか? ならば、それも買わなければいけないだろう?」
「いや、……その――……。」
「珍しいな、お前が口篭るなど……どうした? はっきり言え。」
「お金が、……足りなくなる、から――……。」
「……何?」
お金が、足りなくなる……?
出費が激しいことも無いのに、異な事を言う。そんなことを考えながら、ゴウトは七綺に問いかけた。
「鳴海から給金を貰っているのではなかったか?」
「……滞納の申し込みを、されている。」
「――貰ってないのか!? いつからだ!?」
「……。」
七綺が気まずそうに押し黙るが、ゴウトはそれを許さない。
「答えろ、七綺。――いつから、給金を滞納されている?」
語気を少しばかり強くして問い詰めれば、七綺が視線を逸らして、ぼそりと呟くように言った。
「……大道寺家令嬢の、失踪事件……以降、から。」
「んなっ……! ほとんど初めからではないか!」
「ああ、でも……あの事件の捜査の前に、幾らかはまとめて頂いているから――……」
「それ以降の分が支払われていないのだったら、意味がないだろうが!」
一括払いにも程があるだろう!と噛み付かんばかりに声を荒げるゴウトだが、七綺は少しばかりの苦笑を浮かべるだけ。
「……あまり仕事が来ないのだから、仕方ない。それに、事件が少ないのは良い事だ。」
七綺が弱い笑みを浮かべ、ゴウトを慰めようと言い繋ぐ。
「出費は、それほど嵩んでいる訳ではないし。……やっていけないことはない。今のところは、俺が何とかして切り詰めていけば……」
「切り詰める、だと?」
帝都最強、絢爛豪華、寡黙秀麗な、この誇れるデビルサマナーが……なんて儚き事を口にするのか。
まるで、一般の家宅を任せられた家政婦のように。火の車な帳簿を管理し、あまつさえ不服も愚痴も零さず、健気に支える……と?
「……七綺。お前の姿勢は見上げたものだが、服従に徹することも無いのだぞ。良いから、今すぐ鳴海に何とかしてもらえ。」
怒りを何とか抑えつつゴウトが言うも、七綺は困ったように笑って首を振る。
「それは、出来ない。俺は、鳴海殿に何かしてもらうような身分では無いのだし――」
鳴海に対する姿勢を変えず、何処までも穏やかに話す七綺に、ゴウトの我慢の限界がきた。抑制していたものが込み上げ、遂には大きな声を上げて叫ぶ。
「一体何処までお人好しなのだ、お前は! 人が良いにも程があるぞ! とにかく、強奪してでもいいから、何としてでも貰え! いや、奪い取れ!!」
「う、奪え、って……だから、実入りが無いから払えないと――……」
「愚か者、良く考えてみろ! 金の無い奴が、煙草を呑んだり新聞を読んだり酒を飲んだり廓里に行ったりするか!? あいつは金を持ってるんだ、ちゃんとな! それに、依頼人からの報酬とは別に、ヤタガラスからも支給されているんだぞ!?」
「あ――……いや、しかし……。」
ゴウトの言葉を受けて、ようやく七綺が気づいてみせるが、やはり直訴する気は無いらしい。戸惑った笑みを浮かべながらも、ゴウトを宥めようと背中を撫でてくる。
「全く、お前というやつは――……。」
ふぅ、と溜め息を吐いて、ゴウトが肩を落とした。かくりと力無く項垂れたかと思うと、声音を落として呟く。
「俺が、もう少し立派であれば。――お前を養える存在であれば、良かったのにな。俺は今、お前に対して何も出来ない自身が情けない。」
「ゴウト……!?」
ゴウトが弱々しく呟くのを聞いて、七綺は驚いた顔をした。すぐさま大きく首を振り、否定する。
「情けない、なんて言うな! ゴウトが、そんな風に自らを悔やむ必要なんて何処にも無いんだ! ゴウトは立派だ。立派に、役目を果たしている。……不甲斐ないのは、俺のほうだよ。」
今度は七綺が目を伏せて項垂れれば、ゴウトが顔を上げて苦笑する。
「何を言う。お前も良くやっているじゃないか。……俺は、お前に苦労を掛けたくないよ、七綺。」
「……俺だって、同じだよ。」
「七綺――……」
「ゴウト……。」
二人が、手に手をとって――いや、手と足を取り合って、互いに見詰め合う。異質で奇妙な空気が室内を満たすが、二人は、ほとんどそれら全てを無視して、語り合う。
「お前は良いやつだな、七綺。俺は嬉しいよ。」
「ゴウトこそ――……俺も嬉しいよ。ゴウトが就いてくれて。」
部屋が、変な方向へ異界化していく。
◇ ◇ ◇
「ちょっと買い物に出て帰ってくれば、何だこの展開。」
帰宅してみればライドウもゴウトも姿が見えず、何処に行ったのかと考えていると、台所の方で人の気配がするのと、話し声が聞こえてきた。引かれるように、そっとそこへ近づいて戸口から中の様子を窺ったところ、その室内の異様さを目の当たりにして唖然とするた。
猫と人が、手と前足を互いに取り合って、見詰め合っている――……。
絶句して、立ち尽くす鳴海。その両手には袋。中身は砂糖と醤油、そして――米袋。
「しかし、これはまた見事に異界化したもんだな……。」
立ち入れない、というか、立ち入りたくない……というか。
いいや、きっと入りたくても入れない気がする。
そうか、これが龍の顎とかいうやつか?
いや、シキミの影かもしれない。
給金を上げたら、消えるとか。
あはははは。
……はぁ。
遠い目をしながら、そんなどうでも良いことを考えつつ室内を見遣る鳴海。部屋の奥では、ライドウとゴウトが互いに見詰め合って何事かを言い合っていた。
その光景を目にした鳴海は再度、深い溜め息をつく。
「まあ……確かに、お給料をちゃんとあげてない俺が悪いんだけどさぁ……。」
天井を仰ぎながら、呟きを続ける。
「でも何で、俺を養う、とかいう温かい言葉が出ないのかねぇ……。」
というか、完全に俺の存在を忘れてる?
あ――ぁ。髪の毛を掻き揚げながら、荷物を持って立ち尽くす事務所所長。
「七綺。」
「ゴウト。」
そんな彼に室内の二人が気づくのは、まだまだ先のことらしい。