猫と書生と所長さんの一日
15.虹脚に咲く花
その日は、朝から音鳴る豪雨が降りしきっていた。
耳がおかしくなりそうな強い音に辟易しつつ、鳴海はいつもの定位置に腰を落ち着け、新聞を読む。何故ならば、他にすることが無いからだ。
こんな雨では、廓里にも行けない。まあ、無理をすれば行けないことも無いけれど、そうして苦労して辿りついても無様な濡れ鼠の醜態に、体よくあしらわれて「御帰り下さい」と、にっこり笑顔で言われるだけだ。最悪、部屋(もしくは、入り口)を汚したとして高い料金を請求されかねない。男として、それはかなり惨めで見っとも無い。
結果。
鳴海はこの日一日、室内で大人しくする事にした。
(ま、いいか。俺一人じゃないし。)
新聞を意味も無く机上に広げ置いて、その上で片肘をつく。
そして、頬杖をしながら机の端をトントンと指先で叩きつつ、声を上げた。
「ラーイドーちゃーん。珈琲――……。」
大きめに声を張り上げれば、静まり返った建物のある一角で、何かが動く気配がした。
それは本当に微かな揺らぎで、普通の人間だったら気づかないだろう変化。けれど、鳴海は色々な経験上、それを悟ることができる。
遠いところで、「畏まりました。」と応える声を聞いた気がするが、この豪雨の中ではそれは果たして現か幻か、分かりはしない。まあライドウのことだから、きちんと返事をしたのだろうが。
目を閉じて嗅覚を集中させると、香ばしい香りが漂いだし、続いて微かに床の軋む音がした。
足音は、聞こえない。だが、気配と床の軋みで、相手の接近が感じ取れた。
きしり、きしり。
もう直ぐ、来る。
きしり、きしり。
あと、少し。
きし。
――……。
「ライドウちゃん? お入んなさいな。」
戸口の前で、何かがぴたりと止まる気配がした。恐らく、戸を叩こうとしていたのだろう。その前に気配を悟られて驚いたのか、少しの間、反応が無かった。
しかし、それも数秒のこと。こつこつと戸口を叩く音がして、戸が開く。
「失礼します……。お待たせ致しまして、申し訳ありません。」
両手で盆を持ったまま目礼して、ライドウが室内に入ってきた。途端に香ばしい匂いが漂い、室内に染み渡る。
「――どうぞ。」
「サンキュー、ライドウちゃん。」
差し出されたものを受け取りながら、鳴海はライドウに微笑を向けた。
「……。……うん、美味しい。やっぱりライドウの淹れてくれたのが一番だよ。」
一口飲んで頷いてみせると、傍らでライドウがひっそりと微笑する気配がした。
が、そのままでいて欲しかったので、敢えて見ないようにする。尤も、見ようにも視線を向けた瞬間に悟られて、表情を無くされるのだけれど。彼の書生は凝視を嫌う。ならばせめて、雰囲気だけでも暖かなもので居て欲しい。
(あーあ……いつになったら俺は、ライドウの笑顔をまともに見られるのかねぇ……。)
溜め息を隠して珈琲の味に集中していれば、ふと、ライドウが窓辺に寄るのが視界の隅に見えた。
そのまま硝子に片手を当てて、空を仰ぎ見るライドウ。
気づけば、雨音がしない。
「ライドウ……雨、止んだの?」
首を横に向けて声を投げれば、窓の外を見ながらライドウが頷いた。
「はい、止んだようです。……雲間から、陽光が覗いて――……あ。」
そこで不意にライドウの言葉が止まったので、鳴海がカップを置いて振り向いた。
「どうした、ライドウ?」
「……虹、が――……」
返ってきた声が、幼い。
鳴海が立ち上がって隣に立つも、ライドウの視線は空に向いている。どうやら、虹に意識を奪われているらしい。
さて、ライドウの心を掴む虹とは、これ如何に。鳴海も興味を覚え、視線を同じ方向へ向けてみて――驚いた。
帝都を包むような大きな虹橋が、空一体に掛かっていた。その色、鮮明にして無限。天空を貫くように、けれど緩やかな曲線で現れている。
「これは……また、見事な。」
まるで拓かれる未来が明るいと予言するような虹の弓弦に、鳴海が感嘆の息を漏らして呟く。
「龍が……」
「……――うん?」
ぽつりと呟かれたライドウの言葉に、鳴海が反応してみせれば。
空を見上げたままのライドウが、続きを語る。
「虹は、空に横たわる龍の一種と見なされているそうです。……それを聞いてから、私には、あれが気持ちよさそうに眠りに就いている龍に見えるのです。」
「へえ、そうなんだ?」
ライドウが、こうして自らの考えを語るのを聞くのは初めてのことで、鳴海が嬉しさに微笑する。
「……じゃあさ、ライドウ。こんな話は知ってるか?」
さり気無くライドウの肩に手を回しながら、鳴海が言う。
「虹の脚元には、財宝が埋まっているって話。」
「――え。」
鳴海を振り仰ぐライドウ。
――否、その表情はライドウでは無かった。子供のように目を丸くさせて鳴海を見るその瞳には、憧憬の光が瞬いている。
(……ライドウ、もしかして……”財宝”に興味を惹かれたのか?)
完全な夢物語、御伽噺の話――なのに……。
普段の冷たい相貌は剥離し、今や凶悪な愛らしさをさらけ出しているライドウを前に、鳴海は固まる。そのまま押し倒してしまいたい衝動に駆られて、仕方が無いのだ。
(落ち着け、俺……!!)
このまま事に及んでしまったが最後、きっと二度と心を開いてはくれないだろう。
いや、でも、しかし――無防備な顔を見せるライドウも、悪いのではないか?とも、思い直す。
「……なるみどの? いかがされましたか。」
漢字変換であろう台詞が、脳内で平仮名に置き換わるのは、首を傾げて話すライドウの声が幼いままだからかも知れない。それが、鳴海の欲情を一層強く煽り立てる。
「ら、……ライドウ……ちゃん――……。」
掠れた声でライドウの頬に触れるも、相手は不思議そうに瞬きをしているだけ。
「なる――……」
何か言おうとライドウが唇を開ければ、隙間から艶かしい舌が誘うように覗いて……ああ。
理性が抗いきれない。
惹かれるようにそのまま、鳴海が顔を近づける――……。
「それ以上、七綺に触れてくれるなよ鳴海。」
鳴海の右のふくらはぎに、何かちくりとするものが当てられた。険の含んだ声に、その尖った何かの正体も判明し、鳴海がうんざりしたような声を出す。
「……出たな、過保護者。」
「喧しい。いいから、七綺から離れろ変質者。」
鳴海が一先ず、足元の猫を睨みながら身体を離す。そうすれば、ライドウがゴウトに気づいたようで、瞬時に表情がいつもの”ライドウ”に変わった。……いや、戻ってしまった、というべきか。
「ゴウト……ああ、起きたのか。」
「うむ、すまんな。お前を置いて、一人で眠りに耽ってしまっていた。退屈だったろう?」
「……そんなことはない。構わない、ゴウト。」
ライドウがしゃがみ込んで、ゴウトに触れる。そうして広がる二人の世界に立ち入れず、鳴海が苦々しく見つめている時だった。その耳に、驚く言葉が飛び込んできたのは。
「鳴海殿が、面白い話をしてくれた。だから、退屈はしなかった。」
「な、……!」
「……ライドウ!」
ライドウの態度にゴウトが絶句し、鳴海の顔に満面の笑みが浮かぶ。
「待て、七綺! 騙されているんだ! 何か知らんが、騙されているんだぞ!!」
「ライドウ、そうか……! あはは、うん、良かった!」
鳴海が、ぎゅうとライドウを抱き締めて喜ぶ。
そうすれば、その腕の中で、何事かと鳴海を見遣ったライドウが戸惑った声を上げた。
「な、なる……い、如何なされたと……ゴ、ゴウトが潰れてしまいます、お離し、くださ……っ」
「七綺、今すぐコイツを撃て! 睡眠弾……いや、呪殺弾……いいや、暴威弾だ、暴威弾!」
「ライドウ、ねえ、これからも、もっとたくさん会話しよう? 退屈させないから。ね?」
「ええい、こら! 離れんか、鳴海! 七綺が困っているだろうが!」
「ライドウ~~! あはは、その調子で、もっと俺と話そうな。」
「七綺!」
「ラ~イド~ウちゃ~ん!」
「ゴウ……鳴海、……ちょ、っと……二人とも……何を?!」
片や喚くゴウト、片や大はしゃぎする鳴海。
その間で、ただ一人。動きの取れないライドウだけが目まぐるしく過ぎる会話の流れについていけず、おろおろと狼狽するばかり。
空に掛かる虹を見た或る日の忙しない出来事は、やはり忙しないままで終わる。