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猫と書生と所長さんの一日

16.夢現、蝶の夢



「あー……つっっかれたーあぁ!」
此処連日、珍しく細かな仕事が大量に舞い込んできて、鳴海は対処に追われていた。
それらは、何故かどれもが政府の上層部――いわゆる、”御偉様方”からのもので、断りきれなかったのだ。
かといって、助手である青年……ライドウに任せるには、年齢のせいもあり少しばかり不十分で、結局、鳴海が頑張らざるを得なくなった。
あまりにも突然で、しかも細々とした量で来たものだから、鳴海は思わずこれは第三者の陰謀ではないかと訝しんだ程だ。実際に、訝しむどころか裏があるのではないかと疑い、こっそり自分で内偵をしてみたりもした。
けれども、そんな鳴海の思惑を想定でもしていたのか。それらの仕事に不備な点などはなく、ただ余計な疲れを背負う羽目になっただけだった。

それが、つい一週間前のこと。

そして。
鳴海はつい今しがた、漸く全てを片付け終えたところだった。
大き目のチェアにどっかと座り込み、重く息を吐きながら身を預ければ、強い眠りが鳴海を襲う。
そういえば、ここのところまともに睡眠をとっていなかった。眠い。ひたすらに眠い。けれど、寝る前に風呂に入って汚れを落としたかったし、空腹も何とかしたかった。

ああ、何だかまだ色々やることがあるんだな、と。
眉間に皺を刻み込みながら、鳴海の意識は眠りの渦に引き込まれ――そのまま夢の中へ、落ちた。

◇  ◇  ◇

「……鳴――……の」
「ん、……うん……」
誰かの声がする。
「……み……――な……み……」
聞き覚えのある声が、した。低めの艶やかな声は聞き触りが良く、ずっと聞いていたくなる魅力があった。
鳴海は目を開けて声の主を確認したいところなのだが、しかし恐ろしく深い眠りの海が鳴海を完全に包み込み、覚醒するのを許さない。

「……み、殿……」
声が、自分の名前を呼んでいるのを遠くの方で聞く。距離感が掴めないのは、夢心地で居るせいか。
しかしまあ、名の後に付けられた敬称で、声の主の姿を見ずとも誰だか判るところ。なかなか堅苦しさを取り払ってくれない真面目な彼の書生の声だ。眠い、眠い。それでも久し振りに聞く声に、直ぐに顔を確認したくなった。

(ああ、帰ってきたんだ……ライドウ、ちゃん……)
この一週間、鳴海はライドウと会話をする機会が無かった。いいや、会話どころか対面することすら不可能でいたのだ。それくらいに、忙しかった。
だから、聞く声が懐かしくて。切なくて。

肌に、触れたい。
顔が、見たい。
なのに――悲しいかな、身体が言うことを聞いてくれなくて。

「ん、……」
目を開けようとするも、重い眠りによって瞼が持ち上がらない。
苦闘する鳴海の心中など、声の主は――ライドウは、気づくわけもなく。静かな声を、ただ降りかける。
「御風邪を召してしまいます、鳴海殿。寝所の用意は済ませておりますので、どうか、移動を。」
「っ……んんっ……」
鳴海が目を閉じたまま、眉間に皺を寄せて唸る。

分かってる。分かってるんだよ。俺だって、起きたいよ。
起きたいのはやまやまで、ライドウの顔を見たいんだ。
でも――……体が言うことを聞いてくれないんだよね。

「だぁー……いじょう、ぶ……俺は……ん、なにヤワじゃ、ない……よー」
仕方ないので、鳴海は漠然とした意識のまま、声だけで相手の言葉に応じる。
「ですが、鳴海殿……」
「わあ……かって……る、よー……わかって……まぁ、す」
重たげな声で返答してみせれば、相手が僅かに苦笑する気配がした。
「……どうやら、だいぶ御疲れのようですね。失礼致しました。ではせめて、毛布だけでも掛けさせて頂きますね」
柔らかな声と共に、温かい何かが鳴海の身体に掛けられる。
ふんわりとした感触を持ったそれは、太陽の匂いを放っていた。鳴海の眉間から皺が引き、自然と身体の力が抜けていく。
ああ、暖かい。
優しいなぁ、ライドウは。

「んー……り、がとねぇ、……ライ、……ちゃ……」
毛布を引き寄せ、そこに顔を埋めながら礼を言えば、ライドウがくすりと笑って。

「連日の職務、本当に御疲れ様でした。それでは――……お休みなさい、鳴海さん。」
「……んーー……。……。……――?」
そのまま眠りに落ちかけた鳴海だったが、今のライドウの言葉に何か引っ掛かるものを覚えた。

今、ライドウは何と言った?
鳴海殿、ではなく――……鳴海さん、と……そう、言ったか?
声の質もいつもとは違い、初めて聞くものだった。
それは甘く、非常に艶やかで。
痺れるような……優しい声。

「ん、ぁ……っ、ら……」
「では、俺はこれで。――失礼致します。」
遠ざかる気配、遠ざかる足音。

ああ、待ってくれライドウ。
ライドウ、今のを。

今の呼び方を、今の声音で……もう、一度……だけ――……。

引き止めるべく目を開けようとするも、もう身体は完全に動かない。
どうやら、なかなか眠りに落ちない鳴海に対し、身体は強硬手段をとったようだ。睡眠を最優先にしたらしく、精神を凌駕する束縛に巻かれる。どちらも自分自身のものなのだけれど、まさか敵対するとは思わなかった。
きい、と戸が開く音がする。

ああ、待てライドウ。出て行かないでくれ。
まだ少し。もう少し、側に。
傍に居てくれ、頼むから。
行くな……ライド……ウ……。
意識だけで、ライドウに縋る鳴海。眉間には、きっとまた深い皺が刻まれていることだろう。

「ぁ、……」
足音が、ゆっくりと遠ざかる。
離れていく気配が、ひどく寂しく感じる。

やばい。……眠って……しま、う……。
ライドウ、ライドウ――……ライドウ……!
ライドウの名を心の中で何度も呼んでみたのだが、相手の気配は不意に消え失せてしまった。

(ああ、行っちゃった……か)
落ち込みながら、諦めて眠りに就こうとした時だった。

「――……うなされているんですか、鳴海さん。」
鳴海の微かな呻き声を聞きつけたのか、近くから心配げな声がかかった。どうやら、ライドウは何かを感じ取ったらしく、まだ部屋から退出していなかったらしい。気配が消えたと思ったのは勘違いで、恐らくライドウが足早に移動したために追いつけなかったのだ。
「ん、……」
「熱は……無いようですね。良かった」
額に優しく触れるライドウの手は、ひんやりしていて気持ちがいい。
もっと近くで触れたい。
もっと、近くに来て欲しい。

「う……んぅ――」
重い身体に力を入れ、額に触れているライドウの手を――どうにか、掴んだ。
「――っ!?」
ライドウが、ぎくりとしたのが伝わってきた……が。
ふ、と軽く笑う声と共に、緩やかに手を握り返された。眉間に皺を刻んでいる鳴海を見つめながら、ライドウが言う。

「俺は居ますよ、此処に。貴方が寝付くまで、傍に。ですから、そう何かに怯えずとも結構です。安心してお眠り下さい――鳴海さん。」
また、柔らかな声。それと、より一層近しく感じる敬称の変化。鳴海の心が、じんわりと温かいもので満たされる。

ライドウは今、どんな顔をしているのだろう。
どのような表情で、此方を見つめているのだろう。

ああ、気になることが多すぎる。
――なのに。

やはり襲い来る眠気には、何処までも勝てないらしい。
身体が重くなり、意識がゆっくりと遠ざかっていく――……。

◇  ◇  ◇

「お目覚めですか、鳴海殿。」
「え? あ、……ああ、うん。」
次に目を覚ました鳴海を迎えたのは、いつもの少々堅苦しいままのライドウだった。
半ば呆然としているところへ、ライドウが話しかけてくる。
「何か御入用なものでもありますか?」
「んー……ああ、そうだな。じゃ、珈琲を一つ。」
「畏まりました。」
目礼して、部屋を出て行こうとするライドウの背を眺めながら、鳴海は眠りに落ちる間際のことを思い返す。

柔らかな声、親しさの篭った呼び名。
あれは、何だったのだろう。

「夢……だったのかなぁ。」
ふと、そんな事を溜め息混じりに呟いて見せれば、戸口のところでライドウが足を止めて振り返った。
首を傾げ、訊ねる。
「何か?」
「あ、……いや何でもないよ。――ただの、独り言。」
苦笑しながら頭を掻くと、ライドウは少しばかり、きょとんとした顔をした。
呆れたのかな、と鳴海は思ったが、だがライドウが次にとった態度に目を丸くする事になる。
ライドウは不意に相好を崩すと、唇に人差し指を当てて。

「今はまだ、夢のままにしておいて下さい。」
「え――?」
くす、と意味深な言葉を口にして、ライドウは直ぐに踵を返した。

「……珈琲を淹れてきますね。」
「ちょ……ちょっと待ったライドウ! 今のは何!? もう一回――……!!」
席から立って呼び止めようとしたが、運の悪い事に机の角に腿を思い切りぶつけてしまって、そこで言葉が止まる。
「~~~っっっ……!」
鳴海が痛みで声にならない声を上げている間に、ライドウは戸を閉めて部屋から出て行ってしまった。

「ら、……らい、どー……ちゃ……今の、って……何……」
床に情けなくへたり込んで、涙目になりながら呻く鳴海。結局、その問い掛けに答えが返ることは無かったけれど、でも……。

もしかしたら距離が近づいているんじゃないか、と――そう思いながら、この件の回答は、もう少しだけ待つ事にした。
腿をぶつけた痛みに、ひたすら耐えつつ情けなく蹲りながら。