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猫と書生と所長さんの一日

17.譲れない喧騒



鳴海事務社、その食卓、朝食刻。
とある問題が、ライドウの頭を痛めてくれていた。

「塩だ!」
「砂糖だ!」

食卓に視線を向けると、今日も例の二人が例の如く言い争っているのをライドウは見る。
うんざりする光景。毎回一句一語違わない文句をそれぞれ口にして、日課にもなっているんじゃないかというくらいに同じ喧嘩を、彼らは毎日のようにしているのだ。
この”問題”というのがまた本当にどうでもいいことなものだから、書生は溜息を吐くしかない。

問題ごと、それは――「玉子焼きの味付けについて」

ゴウトは「塩」が一番だといい、鳴海は「砂糖」が一番だと言う。
辛いか、甘いか。それは個人の味覚、嗜好の問題である。対する異論も答えも、多々あるだろう。

けれど、第三者が――ライドウが最終的に辿り着く答えは――「そんなものは、どうでもいい」だ。
それは丁度、今のライドウが心中で答えているのだが、さすがに表立ってその意見をすることはしない。
正直と無謀は違う。
火に油を注ぐ真似など、したくは無い。……かといって、この問題を放置しようにも、食事を作るのは主にライドウの担当である。目を逸らそうとするも視界に入ってくるし、立ち去ろうとしても後を追って来る。
厄介ごととは、こういうものだ。多分。
解決するまでは――逃げられない。

なので、とにかくライドウは何度か二人の喧嘩を止めようと頑張ってみた。片方を宥めてみたり、片方の好む味にしてみたり、両者の望みを叶えればいいのではないか、と。
けれども、それはどれも成功することはなかった。
塩気の玉子焼きを作れば鳴海が気分を損ね、甘いものにすればゴウトが不機嫌に唸ることになっただけ。
ならば、と両方作れば余計に、こじれてくれただけだった。
ああ。その時のことを、ライドウは今でも昨日のことのように思い出せる。食卓、両者の皿の上にそれぞれが好む味付けの玉子焼きを載せた時のことだった。
今日は別々の味付けで作りましたので、とライドウが言うなり、一人と一匹は物凄い顔でライドウを振り返って叫んだのだ。

『鳴海に媚びるのか、七綺!』
『無理に気を遣ってくれなくていいんだよ、ライドウちゃん。』
……などと、何故だか分からないが双方から挟み撃ちのような形で責め立てられてしまった。
喧々ごうごう。それでも彼らは残さずに食べてくれたが、食事の間中に流れていたあのピリピリした雰囲気といったら……。
食事が終わるなり彼らは早々にそれぞれの部屋に戻ったが、後に残されたライドウは新たな頭痛の種と疲労が増したのを覚えている。

ああ、もう、どうしろと。

ライドウは毎日繰り返される喧騒の間に立たされ、何だかもうどうでもよくなってしまっていた。
蓄積される疲れ。それは遂にライドウの思考を淀ませ、「このまま黙って何処か遠くへ出て行こうか」と考えさせたくらいだ。
もしかするとこれは、葛葉の修行よりも辛いのではないか。そんな事すら思ったのは、あまり人と関わるのが好きではないからだ。自己弁護しつつ、甘い己の精神を叱責しつつ、それでも問題から逃げないで解決しようと尽力するのは良いことだ、と彼の黒猫ならば褒めてくれているだろうけれども、当の猫と所長が書生を悩ませているのだからどうしようもない。

さて、今日はどうしようか――ライドウは、椅子に腰を下ろして考える。
窓の外に広がる帝都。何てことのない日常。その時、青い空を割るように鳥が軽やかに横切るのが見えた。
「あ。」
小さな声を上げるライドウ。ふと、脳裏にある方法が閃いたのだ。
その閃きは正に神託といえるようなものであり、ライドウは無意識に手を打って感動した。ああ、この手があった。
拓けた選択肢。だがこれでも駄目だったなら?
その時は、それこそ本当に家出をすればいい。何もかも放り出して逃げるのではなく、少し頭を冷やしますとでも書き置いていれば大丈夫だろう、多分。
半分冗談、半分真剣に考えながらライドウは腰を上げ、ようやっと今朝の支度に取り掛かるのだった。

◇  ◇  ◇

「……。」
「……。」
その日の朝食刻。食卓に上がった玉子焼きを見て、猫と男は同時に首を傾げた。
その見事な同調性を和解に向けて欲しかった、とライドウは心中で嘆息を吐く。だが不満などは露にせず、努めて微笑みながら彼らに言った。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。」
「七綺? 今日の玉子焼きは一体……?」
ゴウトが、食卓の上に置かれた、玉子焼きの乗っているものとは別の皿の存在を怪訝そうに見遣って訊ねれば、ライドウは頷いて答える。
「ああ、ゴウトの皿に入ってるのは、塩だ。」
「じゃあライドウちゃん。この、俺の方には……まさか――?」
鳴海が同じように目の前にある皿を見て問えば、ライドウはにっこりと笑って。
「はい。お察しの通り、鳴海殿の方には砂糖を入れております。」
「……いや。俺たちの前に置かれた皿に、調味料が入ってるのは分かった。分かったが、これは――」
「ちなみに、そちらの玉子焼きには、何の味付けてもしておりません。」
ゴウトが言い終わる前に、ライドウが途中で言葉を繋いだ。
「ですから、それぞれ銘々、”それ”を使ってどうぞお好きに召し上がってください。」
ライドウはそう言うと、箸を取って手を合わせ、「頂きます」と呟いて己の食事に手を付け始めた。
「あの、ライドウちゃん。……何でまたこんな奇妙な食卓に?」
後は勝手にしろ、とでもいう風に黙々と白米を食べだしたライドウに、呆然とした鳴海が尚も訊ねてみれば、相手は箸を止めて鳴海を見た。
まずは口の中のものを咀嚼して飲み込むと、次に湯飲みを手に取り中の茶を一口。ほう、と息を吐くライドウ。そうやって一息ついてから鳴海を見返し、口を開いた。

「そんなに首を傾げるほどに、奇妙なことでしょうか?」
「うん、妙……っていうかね。何か、今までのとは違うなぁ、って思ったからさ。」
「ですが、この方法が一番理に適っている、と思いましたもので。片方だけを作れば諍いに、別々に作っては争いに。両方をすれば、災いになりました。それならば下地は同じにして、当の問題部分を別に付属した方がいいと考えたのです。……何か、違っておりますか?」
「いや、間違ってないことはないんだけどさぁ……ねぇ?」
「ああ。その……素っ気無くはないか、七綺……?」
一気呵成、とはこういうことを指すのだろうか。こちらの言葉を発す間をとらせることなく説明文のような意見を述べたライドウを見て、鳴海とゴウトが互いに戸惑いの視線を交わす。
そんな二人の心境など気にする風も無く、ライドウは笑んだままで静かに言った。

「各々方の望みは、叶え終わりました。」
言うなり、また箸を動かしてライドウは自身の食事を再開させた。もうこれ以上の質問は受け付けない、といった雰囲気を纏わせて。
ライドウが箸を玉子焼きに向けたその時、ゴウトが何か疑問を抱いたのか、首を傾げた。そして、質問を投げる。

「そういえば七綺、お前の前には調味料の皿が無いな? 何も付けないで食べる方だったか?」
「醤油とかも……ないね。ライドウちゃんは何もつけない派だっけ?」
鳴海がゴウトに同調して、似た質問を投げかければ、ライドウは更に笑みを深くして、一言。

「私のは、出汁巻きなので。」
「なっ!?」
「えっ!?」
確かに出汁巻き玉子なら塩も砂糖も要らない。いや、それよりもそっちの方が美味しかったりするわけで……。

ズ、ズルイ……。
鳴海とゴウトが、眉を八の字にする。けれども書生は涼しく微笑み、素知らぬ顔をして黙々と食事を済ませていく。
ライドウに聞こえないような小声で、所長と猫が話し合う。
「……もしかしてライドウちゃん、怒ってたりするのかな?」
「ありえるな。最近の俺たちは、莫迦みたいな諍いを続けていたからな……。」
「……妥協しようか、ゴウト?」
「……そうだな、鳴海。」
と、顔を見合わせたまま引き攣った苦笑いを浮かべ、和解する。そして、遅まきながらもやっと食事に手をつけ始めた。
玉子焼きに、自分で塩や砂糖を付けて食べるのは非常に物悲しかったが、黙々と食べる。爆発寸前であろうライドウに気づかなかった、責任として。
取り返しの付かないことになった原因が玉子焼き、だなんて――笑い話になりかねない。

たかが玉子焼き、されど玉子焼き。
……下らない喧嘩も、程々に。