夢々の月香に
01.月香の夢
「――……。」
「七綺? どうかしたのか?」
ふぅ、と。
ライドウの何度目かの溜め息を聞いて、ゴウトが遂に声を掛けたのは捜査途中の道端だった。
人の往来の中から外れた場所にある路地裏でゴウトが立ち止まれば、ライドウも足を止めて何事かとゴウトを見返した。
不思議そうな顔。溜め息を吐いていたことを自覚していないのか。
そんなライドウを見て、ゴウトは再度、問い掛ける。
「今日は、やけに溜め息が多いぞ。どうした? 疲れているのか?」
「ん……? いや、疲れてはいない……と、思うが。」
庇を引き上げて、ライドウが――七綺が、ゴウトを見下ろしながら言葉を返す。
「溜め息……多いのか?」
「少なくとも、もう十数回は聞いている。」
「十……わざわざ数えたのか? 俺の溜め息を。」
「まあ、な。それはそうと、溜め息の原因は何だ?」
「……、原因、は……。さぁ……何だろう、な。」
「己のことだろう。解らないのか?」
「……。」
ゴウトの言葉を受け、七綺が帽子の庇を引き下げて口篭る。
そんな七綺を見上げながら、ゴウトが首を傾げ、ぽつりと言った。
「……鳴海が原因、か?」
「……。」
ますます寡黙になる七綺に、ゴウトが眉間に皺を寄せる。
「捜査に支障が出るのなら、何とかしなければならんぞ。」
「ああ、分ってる……不様な真似はしないよう、気を付けている――」
「――それが上手くいっているのなら、俺は何も言わんのだがな、七綺。」
「……。」
「七綺、少しの不注意が死に至るのだ。お前が居るのは、そういう世界だ。それだけは、しかと肝に銘じておけよ?」
「……ああ、……。」
ゴウトの忠告に、七綺は曖昧に頷きながら考える仕草をした。
そして、不意に呟く。
「……寝不足、なのかも……知れない。」
「うん?」
「眠りが、浅くて……良く、判らないんだけれど。」
「ならばやはり、疲れているんじゃないのか? お前の気づかぬ内に、身体が信号を発しているのかもしれんな。」
「そう……なのかな?」
「今日の捜査は此処で切り上げ、帰って早々に寝たほうが良いな。細かい残務処理は、俺がしておいてやるから、そうしろ七綺。」
「すまない。……ありがとう、ゴウト。」
ゴウトの言葉を聞いているのかいないのか、七綺は視線を何処かへ投げたまま気の無い返事をした。
そんな七綺を見て、ゴウトは苦笑しつつも、それ以上は何も言わず、聞かず。
暫くしてから、二人は何も無かったかのように振る舞い、その日は何時に無く早めに捜査を切り上げると、鳴海探偵社へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
そして、夜が訪れる。
七綺は寝台に仰向けになり、天井を仰いでいた。
ゴウトの言う通り、疲れているのならば直ぐに眠りに落ちる筈なのだが――やはりどうしてか、いつものように寝付けない。
気持ちが痞(つか)えたまま、七綺はその心の固まりについて思考を巡らせる。
最近、夢を見た。
それは、いつ見たのだろう?
何時頃から、見るようになった?
元々あまり夢は見ないほうだったから、その夢がどうにも気になって仕方ない。
最近見た、夢。
――それは……。
そこで、ふっ……と。
室内に漂う空気に変化が起きた。
それに気づいたのと同時に、意識が朦朧とし始める。
(きた――……)
夢が来た。
また、あの夢が来た――と、七綺は思った。
薄く甘い匂いが何処からか漂い始め、それは七綺を緩やかに拘束していく。
意識が次第に理性の輪郭を崩していく。
身体の力が抜けるような脱力感が、襲う。
(夢を見ると、こういう状態になるのだろうか。)
朧げだが、まだ理性がある中で七綺はそんなことを考える。
かちゃり、と。
ドアノブを回す音が、聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
あの夢を初めて見た日も、丁度そんな感覚に陥った時だった。
音の無い室内。明かりといえば、窓から覗く仄かな月光のみ。
扉が開く音を、遠くの方で聞いた気がした。
それに続いて、人の気配、それと――微かな、足音。
どちらも完全に気配を絶ったものだというのを感じることが出来たが、けれどライドウの意識は依然として靄の中を漂ったままだった。
きしり、と腰の辺りで寝台が軋んだ音を立てた。そしてその部分が、何か――まるで人が腰掛けたかのような重力を受け、下に沈みこむ感覚を覚える。
ぼんやりとした視界に、人影が差した。
側の窓に視線を遣れば、硝子越しに映る人の姿。
どうしてかそれが、鳴海に見えて仕方が無い。
(夢にまで見る程に、俺はあの人を気にかけていたんだろうか……。)
手を伸ばせば届く距離にいる、鳴海らしき人影。服はいつもの窮屈そうなスーツではなく、ゆったりとしたものを身につけている。
そんな彼の姿を見るのは初めてではないが、こんなに間近で見るのは初めてのことで。
近距離に居る他人の気配に、七綺は身動ぎして距離を開けようとするのだが、意思に反して身体は全く動いてくれない。
「……ライドウ。」
耳元で囁かれる声に、ぞくりとする。
鳴海の手が、七綺の顎を持ち上げた。霞んだ視界の中で、鳴海が微笑している。
どうして、笑っているのか――七綺の疑問が解けぬままに、唇が重ねられた。
「……っ、ん――……はっ、ぁ」
声が出た。――否、声だけしか出せないのか。
短い呻きを聞いた鳴海が、僅かに身体を離して七綺を見る。
「ライドウ――」
甘い声で名を呼んで、鳴海が指先でライドウの唇をなぞりながら、語りだす。
「なぁ、ライドウ? これは、夢なんだよ。」
「……っ、……め……?」
掠れた声で、言葉になり損ねたもので尋ね返せば、鳴海が微笑を深めた。
「そう、夢。だって、ほら……現実感が、無いだろう? ライドウ、自分の意思で動けるか? 動けないだろう? そりゃあ、そうさ。……だって、これは俺の夢だから。」
「……るみ、……どの、の……――……」
鳴海殿の、夢?
だから、俺は動けない?
曖昧な現実感、この心の揺蕩うのは、夢だから――?
考えが纏まらず、視線をさ迷わせている七綺の顎を持ち上げて、鳴海は再度、囁いた。
「そう、夢だよライドウ――俺の、夢。だから、この中では、お前は俺のものなんだ。」
「ん、っ……あっ――な、るっ……み殿っ」
胸元を掌が撫で回し始めたかと思う間も無く、続いて下肢に走る感覚に声が上げる。
「……っ、にを、……ふ、ぁ――……っ」
「ほら――夢だから、ライドウも声を上げてくれる。ははっ。良いね、その声。
良い声で啼いてくれるね、ライドウちゃん――……。」
「ん――っ……」
口付けで、上がる声が飲み込まれた。
角度を変えて、降りてくる唇。
そして強引に舌が侵入してきたかと思うとそのまま絡み取られ。
「っく、……ん、ぁっ……っふ、は……」
飲みきれぬ唾液が、隙間から顎を伝って零れ落ちる。その感触が、気持ち悪い。
どうして意識は不透明なのに、感覚はこんなにも明確でいるのだろう。
鈍い神経、過敏な感度。
その差に愕然としながらも、七綺はそれ以上考えることが出来なくて、ただ力の入らない身体を鳴海の思うがままにさせられている。
「っ……――……」
くらくらする意識の海の中で、ライドウは思考を止め――意識をそこで、手放した。
「ん……ライドウ? ……何だ、そっちに落ちちゃったか――」
くすり、と子供が笑うような声と。
「配合が強すぎたかな――」
そんな台詞を、最後に聞いた気がした。
◇ ◇ ◇
扉の開く音がした。
足音に合わせ、あの謎めいた、絡みつくように甘い香が室内に広がり始める。
重くなる身体。鈍くなる思考。
軋む寝台、掛かる声はやはり、あの日の夢と同じ音――。
「ライドウ、今度は大丈夫だからな? ――今度のは、お前が落ちないようにしたから。」
腰に手が掛かり、上体を持ち上げられると同時に重ねられる唇。
この夢は、何度見れば終わるのだろう?
七綺は夢現の中で、それだけを考え、それの終わりだけを望んでいた。
そして今夜も。
鳴海の夢が、始まる。