万里の陽光、千尋の月闇
02.半欠けの謎を、一つ
今、現在。
鳴海事務社には、所長である鳴海を含めると三つの人手がある。
が、しかし……内情を知れば、その肝心の人員人手は、贅沢だというには少々――いや、盛大な難点難癖があったりするのだから一概に”良い”とは言えないかもしれない。
幾ら時代が急いで流れ始めたとはいえ、この供給はどうにも世知辛いんじゃないか?
鳴海は思わず何かに向かって嘆きたくなった。
というか実際に、ちょっとした嘆きを零したりもした。大人気なく。
(せめて、可愛くて大人しい女の子が来てくれればよかったのに。)
と、そんな他者から見ればどうでもいいことを何度思ったことだろう。
重い溜め息を吐く鳴海の顔は、難題を前にした時のように歪んでいた。
思わず肩を叩いて慰めの言葉でも掛けてやりたくなる風情だが――しかし、それは甘い。
何故なら――……。
(それで、可愛い上に長い黒髪! ……だったりしたら最高だったんだけどなー。ああ~~もう!)
憂鬱な表情とは裏腹に、そんな個人的な趣味を呟いてみたりするのだから、本当に困っているわけではないようだ。心配無用――というか”不要”。
しかし、今でこそこうして軽口を叩いている鳴海であるが、最初にその通達を受けた時は随分と不満げな顔をして長いこと愚痴を垂れていたものだ。これ以上に、長く。
頬杖をつきながら煙草を吸い、忌々しげに煙を天井に吹き付けて顔を顰めていた。
その姿勢から考えを纏める。不平や不満を、別のものにするために。
仕方ないだろ、鳴海。お前の職業は何だ?――ただの探偵屋じゃない筈だ。
観念するんだ、鳴海。これがお前の選んだ選択肢だ。――だから観念しろ。
そう、幾ら不平を呟いてみたとて何も変わりはしないのだ。
結局この流れを享受せざるをえないことを、鳴海はよく知っていた。
「ま、俺は後悔なんかしちゃいないけどねぇ……」
悔いてはいない。この運命を。
だから――。
「諦めるさ。」
何かに対して自嘲めいた笑みを向け、鳴海は咥えていた煙草を、ぐいと灰皿に押し付けた。
強がりか、挑発か。
しかしそうして吐いてみせた言葉は、後にやって来た彼らを前にして驚きと共に別のものへと変化されられることになる。
やって来た人と猫の付け合せは、”つまらない”ものなどでは全くに無かったのだから。
少し風変わりな人間と、毛色の変わった黒猫。
それぞれが、一人と一匹ずつだった。
不思議な組み合わせだが、けれど。
願いは少しだけ叶ったのかもしれない。
何故ならば、彼らは双方共に鳴海が望んだ”黒”髪(毛)であったのだから。
◇ ◇ ◇
「――って! これが、叶ったって言えるか!」
どこかで囁かれた天の声めいたものを聞きつけたのか、鳴海が天井に向かって叫んだ。
それから改めて我に返ると、がしがしと頭を掻いて呟く。
「あー、もう。これも”モダン”ってやつの一環かねぇ?」
ふうと息を吐き、こつこつと指先で机上を叩きながら、鳴海はぼんやりと人手の――いいや、彼ら、の情報を思い浮かべた。
猫の名はゴウト。
本当はもう少し小難しい名前であるらしいのだが、とりあえず通名のままで呼んでいる。
この猫は人語を解し、更には特異に操る不思議な存在である為か、知能が高い。
真の正体は猫ではないのだろうが、さして知る必要もないので気にしない事にした。
そして、もう片方の人形――いや、正しくは”人間”と呼んでやるべきか。でないとゴウトに噛み付かれそうだ。爪三連のオマケもあるかもしれない。
人形……もとい、彼の名は葛葉ライドウ。
こちらは恐ろしく深い美貌を持った青年であるが、しかしその美があまりにも整いすぎている為に、抱く感情は歓喜よりも恐怖の方が強い。
その上、勿体無い事に彼はほとんど無表情であり、感情表現も全く表に出さないのだ。
寡黙、というか無口なものだから、鳴海の観察眼を持ってしても未だに人柄どころか全体の人格像すら掴めず、非常に対応がしにくい人物でもある。
鳴海は、そんな人形のようなライドウと信頼を深めるべく何度か接触を試みているのだが、相手の表情は凍りついたままで変化が無い。
それは彼が纏う気配と同じような氷であり、一向に溶ける気配がないほど冷たかった。
「猫は未だ敵意を取らず……ってところかな。」
椅子の背に自分の身体を預けると、鳴海は大きな欠伸を一つ、二つほどして天井を仰いだ。
煙草の煙のせいか、少し煙る室内。
とりあえず今は特に大きなヤマは抱えていない。
今はまだ、何も。
――良い機会だ。
鳴海は部屋の入り口に視線を留めると、そこに佇む影に向かって声を掛けた。
「ねえ、ライドウ――」
◇ ◇ ◇
「葛葉くん? 葛葉、ライドウくん。」
鳴海事務社、その室内。
鳴海は戸口のところに在る影を(居る、ではなく在る、と表現しているのは、影があまりにも無機質であるせいだろう)――その動かない青年の名前を、呼んでみた。
「……。」
だが青年は――ライドウは僅かに顔を上げると、微かに瞬きをしただけ。
言葉は一つも返さず、愛想なども勿論ない。
瞬きを返事の代わりにしているのか? 口が利けないわけではないのに。
鳴海が少しムッとしてライドウをきつく睨んでみるも、相手は両腕を胸の前で組み、壁に背を付けた状態を保っているだけ。
反応は無し。どこまでも無反応。
その上、ふいと視線すらも外したライドウの態度には、流石に苛立ちを覚えた。
けれど。
静かにそこへ立つ姿は、思わず見蕩れてしまうほど毅然としていて美しかった。
まるで彼自身が振るう刀のように凛として。
冷たく煌く漆黒の刀身。
その刃が向けられている先は、何処だろう。
駆ける剣閃は――誰に?
(まさか、まだ俺を敵対視してるんじゃだろうな……。)
鳴海は思わず息を飲んで、ライドウを見遣った。考えすぎだ、と思った。
けれど、その可能性を完全には否定できないのもまた然り。
今、ライドウの側に守り役が居ない。
彼の突飛な行動を諌める目付け役、鳴海の命を救う言の葉を持つ猫は、あいにくと何らかの用事が出来たようで出かけしまった。単独で。
帰る時刻は、明確に言わなかった。
ただ、「遅くなる」と言っただけ。
しかし……どうしてライドウを連れて行かなかったのだろう?
ふと、それが不思議に思ったものだから、鳴海はついでとばかりに訊ねた。
「ねえってば。話があるんだけど。下の名で呼んでも構わないんだよな? ――ライドウ?」
「……如何様でも。」
ライドウは眼を閉じ、肯定でも否定でもない曖昧な言葉を、短く一つだけ吐いた。
「あー……つまり、良いってことだよ……な?」
「否定は、していない。」
「うー……お前さんは本当に曖昧な言い方をするな。じゃあ、ライドウって呼ぶからな? 後で文句言っても知らないぞ?」
返事が一々分かりにくい為、判断に迷って鳴海が唸るが、とりあえずこの答えを肯定の意味だと受け取ることにしたようだ。
それでも鳴海は自分の身が心配になったのか、それとも予防線なのか、ライドウに何度かしつこく念を押すような事を言う。
「後で、やっぱり気に入らない!とか言って、その刀で斬りかかって来たりするなよ? お前さんは否定しなかったんだからな?」
似たような疑問符を何度も重ねる鳴海に閉口したのか、目を閉じたままのライドウが吐息とともに言葉を吐く。
「俺は……一度吐いた言の葉に、異議を申し立てることは、しない。」
「あ……そうなんだ。そんじゃライドウ、一つ訊いて良い?」
「……。」
「……質問、するよ?」
「……それは、もう聞いた。……早く先を、継ぐがいい。」
「返事くらいしようね……。――あのさ。今日はどうして、あの猫に着いて行かなかったんだ?」
そう言うと、ライドウが瞳を開けて鳴海を見た。
怜悧な一閃。
再び合わされた視線は先程と同じ氷の輝きだが、その色味が少し深いように感じるのは気のせいだろうか。
「目付役殿は、猫ではない。」
「え?」
「――ゴウト殿、だ。」
「いや、名前は知ってるよ? でもさ、ゴウトの外見は猫――」
「獣類と、彼の方を……同一視するな。」
鳴海にピタリと視線を合わせながら、ライドウの手が、腰元――その先にあるのは刀――に伸ばされるのが見えた。
その際、キ、と微かに鍔鳴りの音がしたのは気のせいではあるまい。
鳴海は座ったまま、ガタリと後ろへ大きく仰け反って言い返す。
「うわっ! 待った、分かった、分かったって! ゴウトは猫じゃない、うん、そうだな。あはは……ほら、もう分かったから――刀を仕舞いなさい!」
「……理解、したのなら……いい。」
吐息のような静かな口調でそう言い、音も立てずに剣を収めるライドウ。
鳴海は額から流れる冷や汗を拭い、溜め息を吐く。
反応に差がありすぎる。
鳴海とゴウト、人と猫。
なのに、天と地ほどのこの差は何だというのか。
「君、さぁ……もしかして、まだ俺が嫌い?」
「帰り来ること、が。どうした。」
「え? ……あ――その”帰来”じゃなくて。俺にどういった心象を抱いてるのか、ってこと。」
「……俺は、お前のことを識らない。」
「はは……道理だね。んー……じゃあさ。何か、俺に聞きたいことある? 俺のことで知りたいこととかさ。何でも良いよ。」
「俺が、問い質す、ことを……お前に。何故。」
「不信を拭いたいから。俺は、ライドウともっと仲良くなりたいんだよ。分かる?」
「……。わか、」
「――分からない、か。それはもう聞き飽きたんだけどねぇ。」
ライドウの言葉を途中で攫って、鳴海は苦笑した。
存在に興味を持たれていない、というのは何だか切ない。しかも、猫以下だというのが特にやるせない。
だが、鳴海が先読みして繋げた言葉に、ライドウが首を振って否定した。
「分からない、では……ない。」
「え?」
「どう、言えば……いいのか、しれない……が――俺は……」
そこでライドウが鳴海を真っ直ぐに見据え、言葉を繋ぐ。
「俺、は……解りたい。」
「らい、」
「人を、識れば……――……俺は、かえる、ことが……」
「かえる? 帰るって、まだ来たばかりじゃ」
「七綺、帰ったぞ!」
折角続いた鳴海の会話は、悲しい事にそこまでだった。
廊下で響いた声を聞きつけたライドウの視線と意識が、すぐさまそちらへ向けられる。
「今……其方へ参る。ゴウト殿。」
猫様至上主義のライドウは静かな声でゴウトに応じると、足早に部屋から出て行ってしまった。
答えに謎を残したままで。
「ラーイドーちゃーん。話の途中なんだけどー……って、言っても無駄か。」
呼び戻そうと掛けた台詞は、諦めの感情で自己完結するしかない。
鳴海は大人しくライドウを見送ると、ごそごそと懐から煙草を取り出し、それを口に咥えて火を点けた。煙る空気。
ふぅ、と煙草の煙を吐きながら、窓の外へ目を向ける。
「あの子は何処かへ帰りたいのか? それとも……孵りたいのか?」
人に、孵りたい?
「気になることばっかするなよな、書生くん。」
ああ、ほら。だから。
「お前が気になって仕方ないじゃないか、ライドウ。」
黄昏に向かって、鳴海がぼそりと呟いた。