万里の陽光、千尋の月闇
03.日常に、欠片
人の声がする。賑やかな音がする。
かつかつと鳴る靴音。鈍い音のするあれはクラクションというものだったか。
笑う声がする。慌てる声がする。
様々な人々の声が、音が、聞こえる。
無音でない世界が、心地良い。
その人影は、神社の鳥居に背を預けて佇んでいた。
黒尽くめの外装と、朱に塗られた鳥居との色の対比のせいか、往来を歩く人々が、チラチラとそちらへと視線を向ける。
だが人影は人々からの好奇な視線など気にした様子もなく、無表情のまま、学帽の庇を少し下げたのみ。長い外套に身を包んだ書生は、両腕を組んだまま静かに立っていた。
誰かを待っているかのように、じっと。
青年は暫く目を閉じたまま、そうして周囲の雑音、雑踏に耳を澄ましていたようだが、不意に目を開けると顔を上げて前を見た。
だが、その焦点は街の人々に合わされているのではない。
青年の目は、どちらかというと下方――地面に近い距離に落とされている。
彼の視線の先で、相手が笑いかけてきた。
「――待たせたな、七綺。大事ないか?」
相手の笑みを受けて、七綺と呼ばれた青年は微笑する。
「俺なら大事無い。……お帰り、なさい……ゴウト殿――。」
覚えたての言葉を放つ声は今だに抑揚が無かったが、出迎えの言葉を口にしたその表情に氷の欠片は何処にも見受けられはしなかった。
◇ ◇ ◇
事務社の中へ入り廊下を歩いていると、視線の先に女の姿が見えた。
鳴海の部屋の戸の前に立っているものの、中へ入ろうとせず、両腕を組んで何やら考え込む仕草をして佇んでいる。
考えに没頭しているのか、こちらにはまだ気づいていないようだ。
「ゴウト殿……不審者だ。」
ライドウが立ち止まり、素早く腰元の帯刀に手を掛けた。警戒すら通り越した行動の速さに、ゴウトはギョッと目を剥いて首を振る。
「ま、待て七綺! そうと断定するのは尚早というものだ。それに、相手は女性だぞ?」
「……警戒に、性別の関係があるのか。」
「いや、無いが……ま、まあともかく、刀から手を離せ。あの者と会話をして、正体が判明するまでは何もするな。」
「だが――」
「――まずは対話だ。分かったな、七綺?」
「……解した。貴方に、従おう。」
ライドウは頷くと、ゴウトに言われるまま女の方へ近づき、その背後から話しかけた。
「……何用だ。」
「きゃあっ!」
女が文字通り飛び上がり、ひどく驚いた声を上げた。その反応は無理も無い。誰だって、背後から足音も気配も無く話しかけられたら吃驚するものだ。
恐る恐るといった仕草で背後を振り返った女に、ライドウは視線を合わせて言い繋ぐ。
「……再度、問う。お前は、何だ。」
「え!? あ、あたしは怪しい者じゃないのよ! な……鳴海さんに、ちょっと用事があって!」
「……なる、み……。」
女の口から出た名前に、ライドウが微かに反応した。
流麗な視線でゴウトを見遣り、眼差しだけで問い掛ける。
”鳴海に会わせた方が良いのか”――と。
返事をする代わりにゴウトがコクリと頷けば、ライドウもまた頷き返し、女に視線を戻して言った。
「彼の人間ならば、その部屋の中だ。立ち入れば、会える。」
「え? ……あ、うん。そ、そうなんだけど……あの、君は……?」
「その声はライドウか? 騒がしいけど、何だ? どうした。誰か来た――」
女が問い掛けるのと、鳴海が部屋の戸を開けたのは同時だった。
「あ、探偵さん!」
「タエちゃん!? 何だ、ライドウと話してたのは君だったのか。」
鳴海とタエのやりとりを見て、ゴウトが彼らには聞こえぬ声で言う。
「ふむ。どうやら知り合いのようだな。……警戒を解いても良さそうだぞ、七綺。」
「……承知した。」
ライドウは頷くと、構えていた姿勢を軟化させ、刀の柄から手を離した。
だがゴウトは、それでもライドウが完全に警戒を緩めたわけではないことに気づいていた。
研ぎ澄まされた気配は、まだタエに向けられている。まるで刀の切っ先を突きつけるかの如く。
疑い深い?
――違う。躾けられたせいなのだ。
人としてではなく、葛葉の唯刀として。
ゴウトは痛みを噛み締めるように顔を歪めたが、ライドウに気づかれる前に表情を戻すと、鳴海とタエを部屋の中へ入れるよう、視線だけで指示を送ったのだった。
◇ ◇ ◇
ライドウは、鳴海とタエ、二人分の珈琲を作り終えると、足音も立てずに戸口の方へ向かい、そしてそこで両腕を組むと、壁に少しだけ背を預けて目を閉じた。
ソファにも座らず、黙ったままそこへ佇むライドウが気になったのか、タエが話しかける。
「ねえ書生くん。君は座らないの?」
するとライドウが視線を上げ、タエを見た。
「……俺の位置は、そこではない。……刀の歪曲は、許されない。」
「え? わい……何?」
「あー……つまりね、タエちゃん。ライドウは、いつでもお客さんを迎えられるようにしておきたいんだよ。そういう意味。」
鳴海はライドウの言葉を捕捉するように喋りながら、ライドウを見て少しだけ眉根を顰めた。
銃の照準を合わせるような視線だな、と思った。
少なくとも、人を人として見るそれではない。ゴウトに向ける視線とも違う。
冷たい氷眼。温度が全く無い無の瞳。
その上、相変わらず分かりにくい言葉を語る。意味があるのかどうか解らない言葉を。
会話を噛み合わせる気が無いのか、それともこちらの理解力が足りないだけか。
それ以前に、ライドウは――この人形のような青年は、人をどう思っているのか。
だが、タエは鳴海ほど鋭くはなく、気にもしなかったらしい。
美貌の青年からの眼差しに僅かに顔を赤らめたもの、不意にクスクスと笑いだした。
「何だか分からないけど、君は真面目なのね。……何処かの誰かさんと違って。」
そこで、ちらりと鳴海を見るタエ。鳴海は、わざとらしく肩を竦める。
タエは直ぐにライドウに視線を戻すと、にこにこしながら話しかけた。
「書生くん。もし私に遠慮してるんだったら、気にしなくていいからね?」
「……俺は、控えていない。お前は――」
「――七綺。女性に向かって”お前”というのは止せ。」
ゴウトが、他者には分からない声を繰ってライドウに諌めの言葉を吐いた。
咎めを受けた氷の書生は一瞬だけゴウトを見遣るも、素直に頷き、言葉を紡ぎ直す。
「……貴方、は、貴方のとおりで在ればいい。」
それからライドウは鳴海に視線を移すと、首を傾げた。
「俺が煩いで在るなら、部屋の外に移るが。」
「何でそういう流れになるかな、お前さんは。良いから、そこへ居なさいな。」
「……分かった。」
鳴海とライドウのやりとりは。大体が短いものでいる。
それは大したことではないのだが、第三者のタエはそれをどういう風に受け取ったのだろう。
突如、鳴海に鋭い眼差しを向けると、噛み付くように口を挟んだ。
「なるみさーん? もしかして貴方、この書生くんを苛めてるんじゃないでしょうね!?」
「うーわ。俺を悪者にするかね?」
理不尽な言い掛かりだと思いながらも、鳴海は話の方向を逸らす為、そのまま逆に質問し返すことにした。
「――それよりもタエちゃん。今日は暇なの? 事件とか追いかけなくていいの?」
「え? ――ああ! そうだわ、忘れてた!」
そこでようやく自分の目的を思い出したタエは、膝の上に鞄を置くと、忙しない動きで中をがさがさと探り出した。
四つ折りにした新聞紙を取り出すと、その一箇所を指差しながら口を開く。
「これ! この事件、知ってる?」
「……うん?」
鳴海は机越しに身体を伸ばすと、示された箇所に眼を落とした。
墨一色の小さな記事だった。
目立たないタイトルで、『深夜の凶行、またか!』と書かれている。どこかの往来で、人が殺されたらしい。だが、情報が足りないのだろう。ざっと眼を通したところでは、通り魔の犯行らしい、と短く締めくくられていた。
何もかもが曖昧で、ありきたりな記事だ。
鳴海が記事を読み終わって顔を上げると、タエが好奇心を宿した視線で訊ねてきた。
――気にならない? 探偵さん?
鳴海は肩を竦めると、首を振って態度だけで答えを返す。
――今はまだ、どこの夜も物騒だからね。珍しいことじゃないだろ。
タエが子どもの様に頬を膨らませるのを見たが、鳴海は苦笑だけを返しておいた。
それから何気なく、ふとライドウの方を見遣って……ぎくりとする。
氷の視線が向けられていた。
見慣れた瞳、であった筈なのだが――身体の芯が、ひやりとした。
「……ライドウ? 俺の顔に、何か付いてる?」
動揺を隠しながら鳴海が訊けば、相手はじっと見つめたまま口を開いた。
「……調査を、するのか。」
「何を? ……ああ。もしかして、この事件のことを言ってるのか? いや、これは俺向きの仕事じゃないでしょ。こういうのは、公僕さんのお仕ご――」
「あら! 書生くんは興味あるの? 何なら、鳴海さんの代わりに調べてみて――」
「だーかーら! そういうのは警察に任せときなさいってばタエちゃん! ライドウはまだ見習いなのに、話を持ち込むんじゃないの!」
タエが会話に乱入してきたので、それを何とか制しながら鳴海は断る方向で話を進めていく。
そのやり取りの最中、鳴海は、そっとライドウの様子を窺ってみた。
まだあの目付きで見られているのかと思ったのだが、氷の視線はとっくに外されており、ライドウは足元のゴウトを見遣りながら何か話しているところだった。
(……殺人、なんて物騒な記事を見たもんだから、気が尖っていたのかな?)
「ねぇ探偵さん、この事件調べてみてよ! それじゃなかったら、何か良いネタ頂戴!」
「あああもう! ミルクホールでも行ってなよ!」
鳴海は考えようとしたが、その前にタエが何かと話しかけてくるので考えが纏まらない。
仕方なく思考を中断すると、彼女を追い返す為に色々な台詞を考える。結局、かなりの時間を浪費するのに集中するばかりで一日が過ぎてしまった。