万里の陽光、千尋の月闇
04.雨疵に、滴り
「私を、殺してください。」
突如目の前に現れた長い髪の美少女に胸をときめかせたのも束の間。美少女が開口一番に口走ったのは、何とも物騒な言葉だった。
鳴海は驚き、言葉を一時失う。
こんなことを言われて、「分かりました。」などと承諾するものは先ず居ない。
……普通、ならば。
だが、鳴海の隣にいた青年は運の悪いことに”普通”ではないようだった。
氷の相貌を全く崩すことなく無表情に少女を見返しながら、その青年が口にしたのは恐ろしいことに承諾の言葉。
「それが、お前の望みか。……解した。その言の葉を、なぞろう。」
謎の美少女の物騒な言葉に対し、こちらの美青年もまたそれに負けずとも劣らぬことを口にしたかと思えば、何とも簡単に刀を抜いたのだから、これ以上に驚きようが無い。
少女が目を閉じ、青年が刀を構える。
それはともすれば一枚の絵に見える光景。
だが――とにかく状況が不穏すぎ、見蕩れる余裕など何処にも無かった。
「莫迦! ライドウ、刀を引け!」
そんな彼らの間に、ただ一人、恐らくまともであろう鳴海が割って入り制止したのは当然のこと。
しかし、悲しいことに鳴海の言葉だけではライドウは直ぐに従わない。
それを素早く悟った彼の書生の目付役――ゴウトが、加勢するように叫ぶ。
「命を安く見るな! ――鳴海に従え、七綺!」
ライドウはゴウトの声を聞き、そこで漸く無言のままに刀を下げたが、それでも暫くは少女を見つめており、刀を鞘に戻したのは長すぎる凝視の後だった。
(……ライドウ?)
鳴海は寡黙な書生の視線を訝しんだが、疑問を抱く間もなくそれは赤尽くめの異形者によって、一度端へ置いておかれることになったのだった。
◇ ◇ ◇
「……ほら、ライドウ。手、見せて。」
「己で、出来る。……構うな。」
「黙ってろ。ほら貸して。――手当て、するから。」
事務社の一室。
鳴海は言うことを聞かないライドウを強引にソファへと座らせると、相手が何か言うのも構わずに腕を掴んだまま、薬箱を探った。
そして、先程在ったばかりのことを思い返す。
視界の悪い場所。
不吉なことを言う少女と、戸惑いながらも会話をしている最中だった。
何処からか兵士の格好をした異形な者達が現れたかと思うと、問答無用、とばかりに襲い掛かってきたのだ。
鳴海は拳銃を抜こうと思ったが、その前に何故かライドウに目が向いた。
漆黒の冷たい眼差しが、一瞬だけ瞬く。
何だ?――と考える間も無く、気づけば鳴海はその腕にゴウトを抱えて脇に退いていた。
視線の伝言。
霧のように舞う雨の中を、黒と赤の色彩が踊る。
こちらの目で追うのがやっとなくらいの速さで繰り広げられる乱戦は、そのうち立ち込める霧で見えなくなった。
ばしゃばしゃと水音がする。
刀の鳴る音。
銃声。
――不意の、無音。
勝ったのか、負けたのか。
土煙が引くのと同時に、兵士達は消えていた。
少女の姿も無い。
誘拐されたのだとしたら……結局、勝負は負けたことになるのだろう。
「……何だか面倒なことになりそうだな。」
そう呟いてライドウの方を振り返った鳴海は、顔に張り付かせていた笑みを硬直させる。
面倒ごとは、既に起きていた。
「――七綺っ!」
腕に抱えていたゴウトが飛び出し、血相を変えてライドウに駆け寄った。
ぽたり、ぽたりと。
雨の音に紛れて聞こえる筈も無いのに、血の流れる音を聞いた気がした。
避け切れなかったのだろうか? 珍しいことに、ライドウは右腕に傷を負わされていた。
雨水に混じって、地面に赤い筋が流れていく。
傷の具合は酷いのか、見れば学生服の色はどんどん変色していた。
ますます深みを帯びて黒く染まる服。二の腕辺りから下が、不吉な色に変じていく。
それなのに、そのような状態にあってもライドウは無表情なままで、ゴウトが何か言うのを黙って聞いているだけ。
ライドウの様子を、じっと見つめる鳴海。
確か以前に、ライドウは痛覚に対して鈍感だというようなことを、ゴウトから聞いたことがある。
こうして表情を変えずに立っている姿を目の当たりにすると、やはりこの青年は――……。
「鳴海っ! 何を呆けている。事務社へ帰るぞ!」
ゴウトの怒声で鳴海は我に返った。目の前にいた筈のライドウの姿は、とっくに無い。
顔を上げると、前方遠くに霧雨に紛れて消えていく黒い影。
ライドウは雨から庇うように左腕に黒猫を抱え、とうに事務社へと帰っていくところだった。
無音の歩行は雨の中でも見事で、水音すら立っていない。
「ちょっとライドウ、上司を置いていくんじゃないの!」
その後を追うのは、鳴海の立てる姦しい水音。
◇ ◇ ◇
鳴海は包帯を巻き終えると、ライドウの腕に軽く触れながら言った。
「――はい、お終い。傷の具合はどう?」
「……さしたる障りは、無い。」
ライドウは無表情に答えたが、何か思うところがあるのか、じっと包帯の巻かれた箇所を見つめている。包帯を強く巻きすぎたか?
「ちょっとキツイかい? 動かしにくかったら言えよ、巻き直してやるから。」
するとライドウが顔を上げ、首を振った。
「この布が有るほうが、動かしにくい。」
そう言って今巻いたばかりの包帯を外そうとするので、鳴海は慌ててその行為を制し、叱る。
「莫迦、外すんじゃない! それは保護の役目もあるんだ。化膿したら、それこそ大事だろ!」
傷は辛うじて重傷ではないのだが、こうも痛覚に無自覚だと、別の意味で重症だ。
鳴海が眉間に皺を寄せると、追い討ちを掛けるようにライドウが言う。
「……腕は、二つ有る。何かあったとしても、もう片方で代用すれば済む。」
淡々とした物言い。
達観している風に取れないことも、無い――が、ライドウの場合は完全に違う。
「自分の腕だろ? そう物みたいに言うなっての!」
無頓着なのだ。
特に、己自身の命に対して。
「命は一つしか無いんだ。大切にしなきゃダメだろ。」
鳴海は、ライドウの頭を子供を叱るような軽さで、ぱしん、と叩いた。
当然ながら、ライドウは何故叩かれたのか分かっていない。無表情に鳴海を見つめ返すと、また首を傾げて言い返す。
「これは、俺の身体だ。お前のものでは無い。」
「屁理屈言うんじゃないの、ったく……。でも――よく考えると、お前さんが怪我するなんて珍しいよな?」
顰め面から一転、鳴海はライドウの顔を覗き込むと、からかうように笑った。
「葛葉クンにしては、ちょっと迂闊だったんじゃない? 雨で足が滑ったのか? それとも、視界不良で戸惑ったか?」
「……。否。俺は、為すべき役、をしただけだ。」
「――役?」
目をぱちくりさせた鳴海に、ライドウは無感動に続ける。
「お前は、彼の方を……ゴウト殿を、護った。故に俺は、お前を、守った。……それだけだ。」
「俺を……守るって……。じゃあ、その傷は――。」
自分に攻撃が来た事など、知らなかった。
戦いを目で追うのに必死で気が回らなかったのか、雨で音を消されて気づかなかったのか。
どちらにせよ――情けない。
鳴海は、がくりと項垂れ、そして今自分がライドウにとった態度を反省した。
「……すまん。」
「謝罪は、不要だ。これは、回避しきれなかった己が咎だ。」
「違うだろライドウ。俺のせいだよ。ほんと、ごめん。……あーもう! 俺は何やってるんだか!」
ガシガシと髪を掻いて歯噛みした大人は、そうしてあることを思いつく。
「――あ、そうだ! 代わりに、俺が暫く家事を手伝うよ。」
「……それは、全くに必要無い。足手まといになる。」
「――! この、意地っ張り!」
鳴海は、くっと歯噛みすると、そのまま勢いよく立ち上がって叫んだ。
何事かと見上げたライドウの、その氷の相貌にビシリと指先を突きつけると、鳴海は宣言でもするように言い放った。
「葛葉ライドウ! 一週間の安静を命じる!」
「……この程度で、役に立たぬ俺では無い。それに……従う道理が、ない。」
「これは上司としての命令だ! いいから、大人しく従うんだ!」
しかしライドウも頑なで、首を振って撥ね付ける。
「享受、出来ない。――従えない。」
「駄目だったら、駄目!」
「……何の押し問答をしてるんだ、お前達は。」
同じ会話が永遠に繰り返されようとするのを、呆れた声が遮った。
二人が声のした方を見れば、黒猫が一匹、戸口から入ってくるところだった。
◇ ◇ ◇
「ゴウト殿。お帰りに、なっ――」
まずライドウが反応し、相手に近づこうと立ち上がりかけた――のを、鳴海が肩を突いて押し、元のとおりに座らせてしまった。
その上、鳴海はライドウが何か言うより早くにゴウトに向かって話しかけ、会話の先制権を奪う。
「お帰りゴウト。丁度良かった。お前さんからも言ってやってくれ。この、意固地で意地っ張りな書生くんにさ。」
「それはどちらも同じ言葉だぞ、鳴海。……それはともかく、一体何を喚いていた?」
「聞いてくれるか? あのな、ゴウト。ライドウてば、俺が少し休めって言うのに、自分の身体を全くに蔑ろにして走り回ろうとするんだよ。」
「む……。本当か、七綺?」
ゴウトが問い掛けの視線を投げると、ライドウは少しだけ目を伏せて答えた。
「全てが真実では……ない。」
「だが、大方は該当しているんだろう?」
「……。」
沈黙するライドウ。しかし、それだけで彼の答えが肯定と分かった。ゴウトの目を見ないのが良い証拠だ。
ライドウは感情を露にしない代わりに、言い淀むことが有る場合はゴウトと視線を合わさない。
何時頃に見られた仕草なのか。それは覚えていないが、無表情なライドウの意思を悟るには有りがたい反応だった。
目を逸らしたままで、ライドウが言葉を紡ぐ。
「俺は……自らの役目に、怠慢を許すのは、認容出来ない。」
「こら。休暇のどこが怠慢だ。俺は、傷を癒す為に安静にしろって言ってるだけだろ。」
「七綺。お前には悪いが、俺は鳴海の意見に賛成だ。」
「ゴウト、殿……貴方、まで。」
気のせいか、唖然とした(ように心持ち見えなくも無い)ライドウの呟きを聞き、ゴウトは苦笑すると、側に寄って諭すように言い繋ぐ。
「ああ。何も、お前の能力を軽んじているんじゃないんだ。時には休息も大切なことだという勉強なんだよ、七綺。良いから、今回は鳴海に従え。」
「勉め……。……分かった。貴方が、そう言うなら。」
「ああ。まあ、これも学習の一つだと思えばいいさ。」
「そうだよーライドウちゃん。ちょっとくらい休んでも、悪いことなんかないんだから。」
鳴海もゴウトの言葉に頷きながら、どさくさに紛れてライドウの頬に触れて話しかける。
「ま、今回だけじゃなく、時々も甘えてくれた方が俺としては大歓迎だけどね?」
「……過剰な怠慢は、唯の害にしかならない。過ぎる言の葉は、毒となることを知れ。」
「うーわ……綺麗な顔をしてる割に、お前さんは時々冷たいことを言うな。」
頬に掛けられた鳴海の手を掴み、遠慮なく外すライドウの手は指先まで冷えていた。
元々そう体温の高いほうではないから、あまり気にはならなかったけれど。
――けれど、少しだけ。
間接的とはいえ、自分のことを守ってくれたライドウに対し、不思議な感情を抱いていた。
募る不可思議な感覚。好意のような、恐怖のような。
警戒音はまだ、聞こえない。