TOPMENU

万里の陽光、千尋の月闇

06.形雛は、軋んでいく



鳴海事務社。
屋上に立ったライドウは一人、空に広がる青を眺めていた。
帝都一帯に広がる本日の空模様はというと、良くはない。
生憎と雲が多く鈍色に淀んでいるのだが、それでもライドウの視線は外れないまま。
さりとて珍しいものが在るわけでもないだろうに、ずっと其処でそうしている。

「……――。」
不意にライドウが短く息を吐いた。
そのまま目を閉じるなり幾度か深呼吸をした後、ついと指先を上げる。
何事かを呟いていて唇は動いているのだが、声は生憎と囁きに近いため聞こえない。
「……祓い……式……罪にて……し……」
祓いの言葉なのか、呪言の類であるのか。不可解なライドウの行為は、なかなか止まない。
その内、空の何処かで遠雷が聞こえてきた。
ますます淀む、曇り空。
近づく遠雷。

それは、一瞬。
全ての音が消え、ライドウの声が音として浮かびあがる。

「……を、――殺し奉り……故に……我が詛……」
「七――……な……」
「……伏し、禍ツ……――穢れを……呑――」
「――七綺! 七綺、何処だ?」
「……っ。……ゴ、ウト……殿。」
不吉な声は一つの声によって遮られ、その鼓動を止める。
遠雷の音は小さくなり、いつしか彼方へ消えていった。


◇  ◇  ◇


「今、のは……彼の方の、声。」
ライドウは覚醒したように目を開けると、音がした方を振り向いた。
「ゴウト殿が……俺に、何か。」
言うなり階下へ向かおうと足を向ければ、ライドウの声が聞こえでもしたのか、ゴウトから返事が飛んでくる。
「屋上に居るのか? ……ああ、待て待て。今、俺が其方へ行く。」
声に続いて、かしかしかし、と軽やかな足音が近づいてきた。
それはライドウが立っている戸の前までやって来ると、ピタリと立ち止まって。
「――七綺、俺だ。済まんが戸を開けてくれ。」
戸口の前、猫の催促。
「……承知した。」
声に応じ、ライドウがその通りにすれば、少し開いた隙間から、艶やかな毛並みをした猫がするりと滑り込んできた。
黒猫はヒゲを揺らしてライドウを見上げると、美しい緑瞳を細めて口を開く。

「怪我の具合はどうだ、七綺?」
親しげに笑いかけてやれば、帽子の陰に隠れた書生の氷が融解する。
微動だにしないライドウの表情も、その時ばかりは冷たさを潜めて。
口端を僅かに、ほんの微かに持ち上げたライドウがゴウトを見つめ返して答える。
「ああ。……悪くは、ない。」
証拠でも示すかのように、ライドウは右腕を上げた。
だが、何処となくまだぎこちがない。
その細かな異変を、ゴウトが見逃す筈も無く。
「七綺。お前の言葉を疑うつもりはないが、もう少し休養をとった方が良さそうだぞ。」
「……否。」
反抗か、ライドウが珍しくゴウトに対し首を横に振った。
目を丸くするゴウトに、ライドウは静かな声で言い返す。
「貴方の気遣い、有り難く……思う。だが……この程度、行動に支障は無い。」
それから空を一瞥すると、ゴウトに視線を戻して言い繋ぐ。
「不敬、に当たるだろうが……どうか、これ以上の気遣いは、無きよう。――踏査の、再開を。」
「そうか……まあ、お前がそこまで言うのなら。だがな、七綺。無理はするなよ?」
「……意見の受諾に、感謝を。」
そうしてやっと、行動の許可が下りた。
ライドウは帽子の庇を軽く下げて黙礼すると、黒猫の後に着いて歩きだす。
その時、また遠くの方でゴロゴロと雷が鳴ったが、僅かに振り向いたのはライドウだけ。

「……散れ。」
ライドウが冷たい視線と短い言葉を投げると、音はぴたりと止んだ。
一閃の命令に乗せられたのは、殺意ではなかったか?

「七綺、どうした? 中へ入らないのか。」
「ああ。……今、直ぐに。」
そして何事も無かったかのように踵を返すと、ゴウトが待つ屋内へ戻っていった。

遠雷は警告か、それとも嘲笑であったのかは、知れず。


◇  ◇  ◇


「今日も空は曇り、か。……梅雨時はもう少し先なんだけどねぇ。」
事務社室内では、窓越しから外を眺めていた鳴海が不満を零していた。
目の下の大通りを往く、黒い影。大きいものと小さいものが、それぞれ一つずつ。

「まだ怪我が治っていないってのに。これも若さってやつか?」
仕事に熱心な氷の書生。
出掛ける仕度をしていた最中、ひっきりなしにゴウトが傍に付き添っており、己の相棒を心配げな表情で見つめていたっけ。
あの猫も猫でやや過保護な気がするが、そうなる気持ちは理解できないこともない。
何せ当の書生ライドウは、己を軽視しすぎているから。
命も存在も、己の全てを見ていない。
自分に投げられる賞賛などは一切受け入れず、首を振って否定して。

どうして?

「劣等感? いや、違うな……。卑屈って感じじゃあないもんな、あの子のは。」
現に鳴海は、これまでに”卑屈”な表情を随分と多く見てきた。
過去から現在に至るまで、様々な感情を。
妬み僻み、逆恨み。
しかしライドウの表情に、そういった陰は無い。
”無表情だから、はっきりしたことは解らない”という常々の理屈は、この際さて置いて。
ライドウの気配や瞳には、もう少し何か別の陰りがあるように思えて仕方が無かった。
闇色が深すぎるあの双眸。
妙に気になる瞳は、一体何を映しているのか。

――無表情に閉じ込められた氷の中には、何が押し込められている?
答えは、まだ出ず。
口に咥えていた煙草を、灰が落ちる前に灰皿に押し付けた。
机上に広げられた新聞に視線を落としながら鳴海が呟くのは、聞くものもいない独り言。

「天気は悪いし、社会は何だか物騒っぽいし……。けれども帝都の若き守護者くんは、怪我をおして頑張っている、か……どういう方向へ向かってるんだろうなぁ、これは。」
言いながら大きく伸びをして、鳴海は欠伸を一つ。
新聞の右隅には、また正体の不明な通り魔の記事が、一つ。