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万里の陽光、千尋の月闇

07.雫落ちて、傾く



「また雨、か……。やれやれ、梅雨入りには大分早いだろうに。」
窓辺に居るゴウトが、窓の外を見ながらウンザリとした口調で呟いた。
ようやく青天を覗かせたと思ったのも数日。少し置いて帝都にはまた雨が降り、連日曇り空が続いている。
猫の身であるゴウトは水が苦手な為、湿気が張り付くだけでも苛立ってしまう。
不機嫌よろしく唸るゴウトの側に、いつも付き添っている書生の姿は無い。
それもその筈、こうして踏査に出掛けない日は、ライドウを学校へ出向かせているのだ。
他者に対する応対や会話などに不安があるが、だからといってこの事務社に閉じ込めておくのは良くないだろうと考えた上でのこと。
あれでもライドウは表向き、学生でもあるのだから。

「七綺は上手くやっているんだろうか……。」
窓ガラスを伝う雨の雫を目で追いながら、ゴウトはふっと溜め息を吐いた。
流石に学校で無闇に刀を抜くことはしないだろうが――その辺はよく言い聞かせてあるし、禁じてもいるが――それでもこうして不安になるのは、すっきりしない天候のせいかもしれない。
「人の感情を抱いたお前は……ふふっ。どんな姿なんだろうな?」
あのような美貌が凍り付いている様は、本当に勿体無いと思う。
それ故に、他者との接触が少しでも人間らしい心を育む糧となってくれれば、どんなにありがたいことだろう。
雨音に耳を傾けながら目を閉じ、人らしく動く七綺を想像してゴウトが感慨に耽っていれば、こつこつと足音が聞こえてきた。
音は少し置いてドアの前で止まり――きい、と開かれた隙間から人影が現れる。
顔を上げる、ゴウト。

「こんにちわー、鳴海さ……って。あら。猫ちゃんだけ?」
首から大きなカメラを提げた女性の名は、確か――。


◇  ◇  ◇


「――ゴウト殿。帰還した。」
「きゃあっ!」
ゴウトが顔を上げて振り向いたのと、タエが室内に入ろうとするのと、そして――彼女の背後に立ったライドウが声を出したのは、同時のことだった。
突如出現したと思わせるあまりの無気配さに、タエが悲鳴を上げたのは無理もない。
大きく前につんのめりながらも、タエは何とか体勢を整えて振り返った。
そして背後に立った影の正体に気づくと、ほっと胸を撫で下ろしながらも抗議する。

「ラ、ライドウ君! 黙って後ろに立たないで。悪趣味よ!」
「……悪しき心算は、全くに無いが。」
ライドウは言われた事の意味が理解出来ないのか、僅かに首を傾げてタエを見た。
――”これは以前に見たことのある人間だ。”
ちらりとゴウトに視線を向ければ、猫は緑の瞳で”刀を抜くなよ”と告げている。
そこで漸く、敵では無いのかと理解したライドウは瞬きで応じると、氷の気配を幾許か鎮めてタエに向き直り、口を開いた。

「……何用だ。」
端的な台詞と、にこりともしないライドウの無表情さに、慣れていないタエは眉を顰める。
「あのねぇ、ライドウ君? 貴方は、もう少しお客様に――というか、女性に対する行動に気をつけなくっちゃ駄目よ。」
ライドウに、ずいと詰め寄るタエ。そのせいで必然的に距離が近くなったのだが、彼女は其処に潜む危険性にまだ気づいていない。
「今みたいなこと、夜にでもしてごらんなさい。女の人はまず悲鳴を上げて、お巡りさんを呼んじゃうんだから。そうなると、貴方も困るわよ。分かる?」
タエは気丈にもライドウの胸元を突付き、下から睨みつけた。
だがライドウは不思議そうに首を傾げ、やはり無表情に言い返す。
「……宵刻、女などに、声は掛けない。……用が、無い限りは。」
「ちょっと! 女”など”って何よ。女性蔑視だわ、そんな言い方――……!」
尚もぐいとライドウに詰め寄ったところで、女性論を揮おうとしていたタエの言葉が止まった。
帽子の庇から覗く漆黒の瞳が、此方を凝視しているのにようやく気づいたのだ。
が……どうにも、少しばかり遅かったようで。

タエはライドウを見上げた状態で、そのまま動かなくなってしまった。
ぽかんと口を開け、魅入られたかのように冷え冷えとした美貌を見つめている。
気丈な振る舞いを見せていた女記者は、静かな虜囚となりつつありて。

「――マズイ!」
傍観していたゴウトがぎょっとし、身を起こした。
「あ……。」
タエは、ふらふらとライドウに寄りかかると、手を伸ばして無遠慮にその頬に触れた。
肌は見た目通り、陶器のように白く、滑らかで……冷ややかで。
頭が、ぼうっとする。
何だかどうなってもいいような。
「お、おい七綺! その者を正気に戻せ!」
弛緩していくタエの表情に妖しげなものを危惧したゴウトが叫べば、ライドウは小さく頷き、懐から符を一枚取り出した。

「――タエ。」
冷ややかな低い声が名前を呼んだところで、タエはあっさりと我に返る。
「え? え? ……きゃあっ!」
そして自分の手がライドウの頬に触れていることに気づき、身体が相手にしな垂れかかっていることに驚くと、短く叫んで飛び退いた。あたふたと視線を逸らし、両手で自分の頬に触れながら、タエは矢継ぎ早に台詞を吐く。
「ご、ごごごめんなさい! ああ、あたしったら何てはしたない! もう、何をしてるのかしら!」
「……俺の頬に、触れていた。」
質問ではなかったのに、ありのままの現状をさらりとライドウが答えたものだから、タエは一層顔を赤くして、じろりと睨んだ。
「そ、そうだけど、も! ……イジワルね、ライドウ君てば。そう言う貴方も、少しは自覚して頂戴。」
「自覚……それは、何に対して言っている。」
「君の顔よ、かーお。その綺麗な顔!」
再びライドウの胸元を突付くタエだが、流石に視線は逸らされている。
「俺が……綺麗。……そう、なのか。」
「あら、無自覚なの? そっか、だからそんなに素っ気ないのね。」
「……俺は、美醜のことは、未だ分からない。……けれど……その言の葉は、確か賛美の一つであったな。」
ライドウはそう呟くと、タエの頬に手を伸ばして言葉を繋ぐ。
「俺などに、賛美とは。……貴方は、優しい、な。」

氷が、砕ける。

「――……感謝を。」
「ら、ライドウ……くん……っ!?」
現れた絶佳の微笑に、タエの目が大きく見開かれた。
ぎくんと強張る四肢。またか、とゴウトが再び同じ言葉を投げようと口を開きかければ。

「ラーイド~~~! たっだいま~~!」
賑やか過ぎる声が、廊下を伝って此処まで届いた。
「おお……丁度良い時に。」
ゴウトが大きく安堵の息を吐き、声の主の帰りを、この時ばかりは大きく歓迎したことを知る者は居ない。


◇  ◇  ◇


「あっれ。タエちゃんじゃない。」
ドアを開けて帰宅した鳴海は、タエを見て親しげな笑みを浮かべた。
だが彼女は赤い顔を隠すようにソッポを向き、口を開く。
「な、鳴海さん、帰ってきたのね。ええと……今日のところは、これで失礼するわ。」
妙にドギマギした素振りでライドウから離れると、鳴海と入れ替わるように戸口に向かうタエ。
擦れ違い様に鳴海が彼女の肩に手を掛け、引き止める。

「なになに。今日は、どうしたの。」
「ん、まあ……ちょっと、ね。」
「ふうん? あ、立ち話もなんだから、座ってよ。ライドウ、珈琲頼む。」
「その必要はないわ。私、帰るところだから。」
「え? 何で――」
「なんでも! じゃあね。……あ、ライドウ君。今度はお土産持ってくるからね。」
「タ、タエちゃん!? え、しかも、何でライドウだけ!?」
逃げるように背を向けて帰っていったタエの後姿を眼で追いながら、鳴海は呆気にとられた。
そして首を傾げつつもライドウに視線を向け、とりあえず”ただいま”と言っておく。
ライドウは沈黙したが、直ぐに思い出したのか少し間を置いてから。

「おか、えり……なさい。」
「はいはい、ただいま。ゴウトの時だと反応早いのにねぇ……ま、良いや。珈琲入れて、ライドウ。それから、今日の報告を聞こうか。」


◇  ◇  ◇


「――で。タエちゃんの用事は何だったわけ?」
ライドウの淹れた珈琲に口を付けながら、鳴海が問いかけた。
ゴウトの前に温めたミルクを置いたライドウは、考えるように少し間を空け、それから首を振る。
「……聞いて、いない。」
「んー。何か言ってなかった?」
「何も。……用事であるらしき言の葉は、聞いていない。」
「そっかー。何だったんだろ? 珈琲を飲みに寄って来た、ってわけじゃなさそうだったし……。」
喋りながら、鳴海は視線をライドウではなく広げた新聞に向けた。
不意にカップに口をつけようとした鳴海の手が止まり、眉間に皺が寄る。

「なあ、ライドウ。これ、さ――……どう思う?」
鳴海が新聞を机に広げ、ある一面の隅に在った小さな記事を指差した。
「む。何だ? 俺にも見せてみろ。」
ゴウトも興味が湧いたのか、机の上に乗って記事に目を向ける。
「何々……――”殺戮者、またも凶行”だと? ふむ、これは最近にも見たな。」
「そうなんだよ。ちなみに、今月に入って三度目。」
鳴海が相槌を打ち、顔を顰めて頭を抱えた。
「もー。コレの御蔭で、雨だってのに風間刑事に呼び出し喰らっちまってさぁ。」
「ああ、成程。それでお前は今朝から姿が見えなかったのか。道理で静かだと思った。」
鳴海の憂鬱げな溜め息に構わず、ゴウトは今になって気づいたような顔をして笑う。
「妙に居心地が良かったのはそのせいだったか。これは風間刑事に感謝だな。」
「……素敵な皮肉をアリガトウ。」
ゴウトの嫌味を、鳴海は珈琲を飲んで受け流しつつ、話を続ける。

「それより、この事件だよ。殺されてるのは政府の要人ばかり、証拠も手掛かりも無い。……だもんで、警察のお偉方がピリピリしちゃってんだよなぁ。」
ずずっ、と珈琲を啜る鳴海の視線は、そこでふとライドウに止まった。
「ライドウ。お前さんも、街を歩く時は気をつけろよ? 変に目立つんだからな。」
すると今まで黙っていたライドウが帽子の庇に手を掛け、鳴海を見た。
僅かに首を傾げてみせてから、言い返す。
「音と気配は、常に静めて在るよう言われている。……目立つことは、無いが。」
「ハイハイ、無自覚さんは黙って俺の言うこと聞いときなさい。」
鳴海は煙草を口に咥え、窓を見遣った。
「あ~あ。雨は続くし、物騒な事件も起こってるし。ライドウ、帝都を護るデビルサマナーだろ? せめてこの雨だけでも何とかなんない? ……ははっ、なんてな。」
外を眺めつつ、冗談めかして鳴海が言えば、ライドウはそっと庇を押し下げて。

「……。すまない。」
掠れた吐息のような呟きは、窓辺にいた鳴海にも、そしてゴウトにすらも届くことはなかった。
何故ならば、不意に勢いを強めた雨音に掻き消されてしまったから。
ライドウが口にした謝罪は、何の為なのか。
誰に向けて放たれたものなのかは――誰も、知らず。

帝都を覆う、鈍色の雲はどんよりと。
雨はまだ止まず、止む気配も無く。