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万里の陽光、千尋の月闇

09.煙ゆく心が、濡れて



その日は、朝から雨が降っていた。
鳴海は机に頬杖を着いた姿勢で窓の外を眺め、眉間に皺を寄せている。

「はぁ……また雨かよ。」
晴天を見たのはさて何時だったかと思うほど、此処最近、雨が多い。
雨が降ると、湿気めいた空気が室内に篭る。すると、そのせいで煙草が湿気る。
「客も来ないし、何だかなぁ。」
雨が降ろうが空が晴れていようが、元々千客万来の事務所ではないのだが。
そんな事は棚に上げ、鳴海は新聞の一面に目を落とした。
今度は、何処ぞの高級官僚の不正が発覚したようだ。”通り魔”らしき事件が未解決なままだというのに、何たること。
これもそれも、天気が悪いせいか。

「あーあ。世も末だねぇ、全く……俺が若い頃なんか、もうちょっとこう――」
聞く者が居ないのに、鳴海が構わず一人でぶつぶつ呟いていれば、僅かに開いたドアの隙間から黒猫が一匹入ってきた。
猫は室内に居るのが鳴海だけなのを認めると、つまらなそうに鼻を鳴らし、口を開く。
「何だ、居るのはお前だけか。」
「俺は此処の所長なんだから、居るのは当たり前だろ。」
鳴海は生意気な黒猫、ゴウトの台詞に顔を顰めたものの、ふと、まじまじと相手を眺めて。
「あれ……。何処かへお出掛けかい?」
「む。ああ、ヤタガラスにちと召喚されてな。」
「今から? ――雨だよ、外。」
「そうだ。……ああ、そうなんだ。それなのに、向こうは此方にお構い無しに召喚してくれたんだ。少しは猫を大切にしろというんだ、全く!」
憤慨しつつも、己が存在を猫だと肯定したゴウトの台詞を聞いて、鳴海は苦笑した。
何故ならば、あの書生が、何かにつけて”彼の方を獣と同等に見るな”と静かに、けれど無表情に咎めてくるのだから。
それなのに、当のゴウト自身のこの発言。――さて、ライドウが聞いたらどう思うだろう?
しかし気持ちが分からなくも無い鳴海は曖昧に笑うと、こつこつと机を叩いて言葉を返す。
「御役目さんも大変だねぇ。それで、今日は遅くなるの? あの子に何か言っとくことは?」
「ふむ。そうだな……では一応伝えといてくれるか? 俺はカラスの処に行っている、遅くなるやも知れん、と。」
「分かった。じゃあ行ってらっしゃい。」
「お前から素直に見送られると、何だか妙な気持ちだな。言い飽きた言葉だが……鳴海よ。七綺に何かしたら、承知せんからな。」
ゴウトは鳴海にきっちりと警告をした上で、顰め面をしたまま開いたドアの隙間から部屋の外へ出て行った。

後に残ったのは、雨の音。
鳴海は懐から煙草を取り出すと、口端に捻じ込んで溜め息を吐く。

「――やれやれ。信用無いねぇ、俺も。」
それからライターを取り出すと、かきりと音を立てて火を点けた。
「しかし……ヤタさんもわざわざ雨の日にゴウトを呼び出すって、何事なのかねぇ?」
まあ俺には関係ないだろうから、考えるだけ無駄か。
窓ガラスを伝う雨雫を見遣りながら煙を吐くと、鳴海は、さて今日も暇になろう一日をどう過ごそうかと考えるのだった。


◇  ◇  ◇


ライドウが戻ってきたのは、それから一刻を過ぎた頃だった。
時計の針は、昼を少し回った時刻――二時半辺り。
「お帰りー。遅かったな。買出しでもしてたのかい?」
「――。」
読んでいた新聞を置いて鳴海が話しかけるも、ライドウは無表情に部屋の中を見回すばかりで返事をしない。
鳴海は眉を顰め、溜め息と共に叱咤を一つ。
「ライドウ、帰ってきたら何て言うんだっけ?」
「……ゴウト殿は、何処に。」
「……教えてあげるから、俺の質問に答えなさい。」
すると、ライドウは、く、と微かに首を傾げて鳴海を見つめ、少し間を空けてから言った。

「……おかえり……なさい。」
「ただいま――って違うから。逆だよ、逆!」
「ああ。――ただい、ま。」
「……おかえり。」
ゴウトだと対応が早いだろうに、どうして鳴海だとこうも不誠実な反応なのだか。
一緒に暮らしているのは、ゴウトだけじゃないんだぞ。というか俺の”家”なんだぞ此処は!
――などと、色々言いたくなる。
ライドウはというと、視線のみを鳴海に注ぎ、言葉を待っている。
そして彼が聞きたいのは、鳴海の愚痴などでは勿論無い。
鳴海はわざと新聞をばさばさと音を立てて畳みながら、黒猫から受けた伝言を口にした。

「ゴウトはヤタさんに呼ばれて出掛けたよ。」
「……――八咫の、御方……に。何故――」
そこでライドウは視線を鳴海の背後の窓ガラスに向け、言葉を繋ぐ。
「……何故、雨天に彼の方を。……雨滴は、彼の方が厭うものであると、言うのに。」
「さぁてね。何か緊急なんじゃないの?」
しかしライドウは鳴海の声を聞いていないのか、窓の外、打ち付ける雨に目を留めたまま押し黙っている。
「……ライドウ? 何だ、もしかして寂しいのか?」
からかう口調でそんな台詞を投げかければ、ライドウが鳴海に視線を戻し、首を傾げた。
「……物は一通り、買出しにて補充してある。」
「あのね、俺は感情面で聞いてるの。……ってそうか、お前さんはそういうことが分からないんだっけ。えーっと……」
さてどう説明したものか、と鳴海がこめかみを押さえ考え込んでいれば、ライドウが不意に背を向けて戸口に向かって歩き出した。
「待て待て、ライドウ! 話の途中――……おい、何処に出掛けるんだ!」
引き止めても無駄なのを瞬時に悟った鳴海が途中で質問を変えて叫べば、ライドウは肩越しに一瞥を向けて。

「……祓いに。」
「払い? 何処かの店でツケでもしたのか?」
「……彼の雨は、俺の責だ。直ちに、祓わねば……」
「おい、ライドウ? 何だよ、分かるように話せよ。」
しかしライドウは目を伏せて帽子の庇を押し下げると、鳴海の質問に全く答えぬままに足音を立てず、部屋から出て行ってしまった。
唖然とする鳴海。
ライドウの考えは未だに読めないし、理解が出来ない。
予想すらも、難しく。
だからとりあえず廊下に出ると、ずっと先にいるであろうライドウの気配に向かって叫ぶ。

「遅くなるなよライドウ! ……ゴウトが心配するからな!」
その台詞に、ライドウが一瞬だけ反応した気がしたが――足音は聞こえず、やはり返事も無く。
ただ雨の音が聞こえる中で鳴海は溜め息を吐くと、さて煙草でも吸うかと髪を掻き掻き、部屋へと戻っていった。

帝都は雨で曇り、霧で煙る先は見えない。