白猫ジェラシイ
05.透白の百合
まず思ったのは、綺麗だな、ということ。
自分と同じ色をしているのに、どうしてこうも綺麗なのだろう、と思った。
そんなことを考えている者は、”それ”が一つの植物――百合という名の花であることをまだ知らない。ただ、「あのニンゲンに似合うだろうな」と考えていた。
冷たい感じのする硬そうなものの下から覗く、あの柔らかで美しい黒の毛並みにさぞ良く似合うだろう、と。
それだけを考え、それだけを思い、花が生けられている花瓶へと近づいた。
警戒もせず、危険を知らず――無防備に。
水の入った花瓶は当然ながら重く、ゴトンと鈍い音を立てて傾いた。
それは白猫へ遠慮なく圧し掛かり、小さな身体では到底支えきれない重力は、いとも容易く猫の身体を机の縁からそのまま端へ端へと押していく。
遂には押され負けて――宙へ。
みゃあ、と鳴く隙も無かった。
ああ、落ちる。
白猫は、これから感じるであろう痛みに怯え、ぎゅっと身を硬くした。
ああ、落ちる。
目を閉じるその間際、視界の端で黒い影が走った。
それは音も無く近づき、そして――白い手が、しなやかに伸びて。
◇ ◇ ◇
次に目を開けたら、水を滴らせたニンゲンが居た。
恐らく花瓶の水をまともに被ったのだろう。黒髪は何時になく艶やかで、雫がぽたぽたと垂れていた。白猫も幾らか濡れてしまっていたが、彼のニンゲンほど濡れてはいない。
庇って……くれた?
問い掛けるように見上げれば、無表情に此方を見つめる相手と目が合った。
綺麗な瞳をしているのに、相変わらず熱が無い。
彼のニンゲンは、冷え冷えとした眼差しで猫を見つめると、髪から滴る雫を全く気にもせずに、ただ淡々とした口調で言葉を紡いだ。
「……己が手に余る行為は、禁じていただろう。」
声は、受け止めてくれた手と同じように冷たかった。
「にゃ……にゃー。」
それでも白猫は怯まず、弁解する為に鳴いた。必死に鳴いた。
あの白い飾りを……百合の花を、ニンゲンに――ライドウにあげようと思ったのだ、と。
そのようなことを伝える為に、鳴いた。
「百合……。」
ライドウは首を傾げ、無残にも床の上に散らばった花へと目を留めた。
その白い花弁を見つめ、次に床の水溜まりに視線を流し、更に欠けた花瓶を認めてから、白猫をようやく見遣った後に言い返したのは、疑問。
「……あの花が、何か俺の役に立つのか。」
「ウニャ!」
違うのだ、と猫は鳴いた。
そうじゃない。役に立つとかではなくて、自分は、ただ――!
だが、思考は巧く伝わらなかったようだ。ライドウが首を傾げたまま、猫を見つめて言う。
「……不要のものなど、俺は要らない。」
氷の眼差し、氷の声。
ああ、そんな。
不要だなんて、言わないで。
それでは、それでは自分は。
ライドウ、貴方に拾われたこの身は、どうなるというのか。
「ナー……ァ……。」
猫は、今にも泣き出さんばかりの声で啼き、潤む瞳でライドウを見つめた。
声が出ない。声が出ない。
凝っと相手を見上げ言葉を探すも、単語の一片すら出てこない。
気持ちが伝えられず、もどかしく、遂にはどうにも悲しくなってしまって、項垂れた。
その時、頭部にふわりと手が置かれる感触がした。
冷たい手はいつもの通り温度が無いが、気のせいか何だか温かく――心地よく。
だから惹かれる様にゆっくりと顔を上げれてみれば、闇色の瞳に映る自分の姿が見えた。
視線が合ったのと同時に、ライドウの静かな声が続く。
「……お前の命は、お前のものだ。違うか。」
硬質な声が紡ぐ言葉は、けれど白猫には少し難しくて分からない。
首を傾げて疑問を示す動作をしてみせれば、ライドウも少し傾げた後、言い直すように告げた。
「己が唯一を、俺のようなものに捧げるな。それは……無価値に、なる故……。」
言葉と共に伏せられた眼差しは悲しい色を帯びていた。
が、白猫は幼き故に未だ其処まで読み取ることは出来ない。ただ唯、その白い肌に長い睫の影が落ちる純粋な美しさに見蕩れていた。
ライドウの語る台詞はまだまだ解らないことが多いけれど、けれど――。
自分が惹かれたのは外見を纏う氷の美では無く、その身裡に隠されたものなのだと知らずに、ライドウを見つめていた。
しかし、彼の麗人は顔を伏せて沈黙している状態だ。
――綺麗なのに勿体無い、と思った。
それと、折角なのだから声をもっと聞かせて欲しかった。
慰めよりも我が侭だけが募っていくのは、幼き故に仕方の無いこと。
「みゃあ。みーあ。」
相手の言葉の意味を深く考えることもせず、白猫は催促でもするかのように前足でライドウの裾を軽く引っ掻いた。
その行動にライドウが瞬きをしたが、幾許彼の間を空けた後、猫を見ながら言葉を繋ぐ。
「お前は……何故――……」
「なう?」
「……否。言の葉の交換よりも、お前には為さねばならぬ行動がある。」
「にゃ?」
オネダリ成功かと思いきや、ライドウは静かに片腕を上げると、窓辺を指差して言った。
「向こうは陽光が差している。其れを以ってして、己が身体から水気を払っておくがいい。」
「みゃ? ……にゃあ!」
待って、とばかりに離れ行く彼の裾口に噛み付き引き止めれば、ライドウは肩越しに白猫を見遣り、首を振った。
「……俺が厭うているのではない。水気は、彼の方――ゴウト殿が嫌う。」
「……にゃ、にゃあ……。」
まただ、と白猫は思った。
また”ゴウト”だ。
この名前はいつもいつも邪魔をする。
どうして。
どうして――ライドウ。
「ンニャ――……!!」
立ち去る背中に嫉妬をぶつけるも、彼の者は感情には疎い。
ライドウは肩越しより猫を一瞥すると、何時もの抑揚の無い口調で一言。
「……告げておくが、ゴウト殿が帰宅しても未だ水気を纏うていたならば……彼の方に対する行動全てを禁ずる。」
そう言い捨てるも、去り際、猫にさっと近づいて。
「それと……冷たい、のはあまり宜しくないことだ。早急に、其の身を陽光に当てておけ。」
そして小さな頭にそっと触れ、無自覚、無作為の微笑を――ひとつ。
「にゃ……」
ぽかんとする白猫にそうして美しさを焼き付けた書生は、割れた花瓶をかき集め、足音無く部屋から出て行った。
その後、白猫はハッと我に返り、慌てて文句の続きを言おうとするも、既にライドウの姿は無く、ただ焦れったい思いだけを抱えて窓辺でのたうつのだった。
ライドウのばか、と思いながらも、やっぱり……すき、だと感じながら。