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白猫ジェラシイ

08.氷の天蓋


この世界は、いつも水が多い。――鼠色の空を見上げながら、白猫はそんなことを思った。
水は、あまり好きじゃない。どうしてか背筋がぞわぞわして気持ちが悪くなるからだ。
けれども、こんなにも多く水が滴る光景を見るようになったのはいつからだろう。
少し前までは、こうも水と触れ合う機会など無かった気がする。

いつ頃から、こんな色の空ばかりを見るようになった?

「――白猫。」
ひやりとした声。
背筋に氷が当てられたような錯覚がした。
振り返れば、自分を見つめているニンゲンが、無表情に一人。
綺麗な顔は崩れることが無い。唯一の例外を除けば。
赤い唇が、目の前で動く。
「……もう少し、中へ来い。そこではまだ、雨に……濡れる。」
雨音に掻き消される事無く響く声は心地よく、空気に凛と染み渡る。
白い手が手招く――が、そこまで。
引き寄せてはくれず、触れても来ない。

……撫でてくれても、いいのに。
白猫は少し不満げだったが、直ぐに機嫌を直す。
思い出したのだ。
視線を上に向けて、ニンゲン――ライドウを見上げれば、帽子の庇や頬を伝う雫がぽたり、ぽたりと落ちているのが見えたから。

此処は、深川町奥にある路地裏。
そしていま居るのは、朽ちかけた廃屋。
所謂、あばら小屋である。
ゴウトは居ない。カラスの使いに呼び出されたらしく、同行が出来ぬとのことであったので、ライドウは独りで踏査に出ようとしたところ、白猫が走ってきて、半ば強引に着いてきたのだ。
当然ながら、ライドウは首を横に振った。だが様子を見ていたゴウトが苦笑交じりに許したものだから、結局は白猫を受け入れざるをえなくなってしまって、今に至るのである。

当初、白猫はご機嫌だった。
空は青いし温かいし、ライドウと一緒だから、嬉しかったのだ。
それが、歩いているうちに晴れていた日差しが弱まり、曇ってきたなと思った矢先に、この雨に遭遇し、そうしてこの廃屋へと逃げ込んだのである。
雨宿りには不向きな建物だが、白猫は濡れていなかった。何処も。尻尾の先の毛一筋すら。
それはライドウがその腕の中に抱え込んでくれているから、というのもあるが、更に自らが羽織っている外套の裾を持ち上げて傘のように天蓋としているのもあった。
だから白猫は濡れておらず――代わりに、ライドウが濡れていて。

「みゅー……」
貴方はそれで良いのか、という声音で白猫が問えば、ライドウは前を向いたまま、無表情に答える。
「……俺は問題無い。雨を受けるのは、慣れている故。」
「にゃあ!」
一瞥すら向けずに答える彼の目は、霧で煙る周囲に注がれている。
警戒しているのもあるだろうが、もとより彼はこうなのだ。
他に、意識を向けない。己の使命と、彼の目付役である黒猫の業斗童子にのみ、まともに注視する――そういう性格なのだ。
しかし白猫は、幼い故にそれが面白くない。
ああ、こういうヒトなのだ、と解ってはいるけれど、全くに面白くないのだ。
白猫は雨に濡れるのにも構わずに、ライドウの腕より抜け出ると、そこを足掛かりに、よいしょと上体を伸ばして。

「ミャアッ!」
と、抗議した。
ライドウの視線がゆっくりと流れ、そこでようやく白猫に移った――移って、くれたのだった。


◇  ◇  ◇


「……如何した。」
形の良い唇が動き、吐息めいた声を吐いた。
冷えた眼差しが白猫に向けられ、闇より深い黒瞳がその存在を捉える。
無表情は変わらず、だが。
「ミア! ミーア!!」
猫は鳴いた。獣の声で、猫として。
かつて、自分の言葉を解したニンゲンは居ない。
だがどういうことか、ライドウには伝わるのだ。これには白猫も不思議に思うばかりだが、彼はそういうニンゲンなのだろう、と考えるしか答えがない。
猫が鳴いた後の目の前――いや目の上で、ライドウが反応を見せた。
僅かに首を傾げると、猫を見つめて口を開く。

「……良いから、其処へ在れ。それ以上は雨に触れる。」
そう言って、ライドウは身を乗り出した猫に手をかざした。
雨から守るような、この行為。それは優しさからだろうか?――少しばかりの期待を目に宿した白猫に、しかしライドウが口にするのは冷静な一言。
「水気は彼の方……ゴウト殿が厭うもの。煩いを持ち込む行為は、避けるべきだ。」
「にゃ……おぁう。」
やっぱりゴウトか。
白猫はがっくりと項垂れると、これ見よがしに頭をライドウの胸元にぶつけて唸る。
「ゴウト」は今ここに居ないのに。
「ゴウト」はいま関係ないのに。
一緒に居るのは自分なのに!
「う~ぐるる……う~ぐるる……」
唸りながら、ごつん、ごつんとライドウの腕に頭をぶつけていれば。
「……。」
「――うにゃっ!?」
不意に、身体を捕まれた。
持ち上げられた視線の合う高さから、ライドウが白猫を見据えて言う。

「気でも触れたのか、白猫。」
「ニャアッ!」
違う。
そうじゃない。
どうしてライドウは解ってくれないのだろう。

「……頭を其処へぶつけることが、お前の為したき行動か。」
「ウーッ……ミャフッ!!」
流石に、ちょっぴり腹立たしくなった。
なので、白猫は、そうだとばかりに毛を逆立てて頷いてみせた。
すれば、ライドウが再び首を傾げて。
「水に触れるのが……不満、ではないのか。他の異が……けれど……首肯して……――」
どうやら、白猫の矛盾した態度に疑念を抱いたようで、答えに迷っているらしい。
それでいい。
もっと迷えばいい。
もっと悩んで、「ゴウト」よりも今はそうして自分のことだけを考えて――!

「――屋根在る生域……彼の事務社に戻れば、済むことだな。問答は……無用か。」
「ニャアッ!?」
猫の一抹の望みは、何ともあっさり覆された。
ライドウは迷いを払拭すると、たちまちのうちに冷静になったのだ。
――その立ち直る様は見事だが、それはないだろう、と白猫は思った。
「にゃ、にゃあ!」
「……案ずるな。お前は俺の懐中に抱いていく故、濡れることは無い。」
「にゃ、」
そうじゃ、なくて!
「しかし……雨はまだ強い……この空に留まる気配が、する。故に暫くは……動けそうに、ない。」
「みにゃ?」
言われて空を仰げば、降雨は勢いを幾らか増しているようだった。
白猫の視線を追うように、ライドウは言い繋ぐ。
「俺は浸水しようが構わないが……大量の水は、彼の方に煩いを抱かせる。……それは、宜しくないことだ。」
「う、うにゃ!」
だから「ゴウト」は――!

「お前も……厭うのだろう。」
「にゃ、にゃぁ……」
そこで不意にライドウが氷を砕いたものだから――それが、あまりにも柔らかい微笑であったものだから。
白猫はすっかり、見蕩れてしまって。

「帰還は、あと小刻我慢だ。……解したか。」
「……にゃあ。」
「……それでいい。」
蕩けるままに首肯すれば、ふんわりと頭を撫でられて。

あああ、幸せ。
白猫は最早、怒りなど忘れてしまったかのような顔つきでライドウの胸に擦り寄ると、ごろごろと喉を鳴らして目を閉じた。
その頭をライドウが暫く撫でてくれていたから、もう反抗もしないで、唯大人しく、雨足が弱まるのを一緒に待つばかり。

これなら雨も悪くは無い、と思った。