白猫ジェラシイ
10.夜祭日和:弐
「……ミャアッッ!」
鋭い声を上げると、白猫はライドウの襟元にがぶりと噛み付いた。
毛は逆立ち、服を掴む足には爪を立てている。何処までもつれないライドウに拗ねたのだ。
ぐるると唸りながら服を噛み、ちらちらと窺うようにライドウを見ているのは、それでも気にして欲しいから。
『ばか。』
『ライドウの、ばか。』
『……ばか、ばか、ばか!』
小さな唸り声が、つれない書生を非難する。
こども故に語彙は拙く、それを罵倒とするにはどうにも未熟なものだったが、白猫は純粋に悲しんでいたのだ。
真意をさて、ライドウが汲んだかどうか――書生は音の無い溜息を吐くと、庇を少しだけ押し上げた。
そして白猫を無表情に見詰めると、感情の無い声で言う。
「……お前は何故、怒りを着物に向けた。矛先を向けるならば、俺にしろ。」
言うなり、猫が噛み付いている襟元に腕を伸ばすと、その小さな口元を手で掴んで布から離し、代わりに自分の指を押し当てた。
白猫が目をまん丸にしてライドウを見上げれば、氷の声が先を続ける。
「この着物は、ゴウト殿が、俺のようなものの為に、しつらえて下さった貴品だ。……故に、傷を付けることは、許さない。……噛むならば、これにしておけ。」
「にゃ、にゃあ……。にゃあ!」
押し付けられた指先に、白猫がいやいやと首を振るが、書生は応じない。
「案ずるな。痛覚に於いては……耐性が、ある。強弱の有無は問わない故、気の済むまで、噛み続けるが良い。」
「にゃ……、みゃあ……みゃあ……!」
「いや七綺、お前それは――」
「貴方より頂いた品に傷を付けられるならば、この方が良い。……指は十ある。ひとつくらい、喪失しても――」
「七綺っ!」
「ニャアッ!」
「……。」
二匹の猫が同時に声を上げて、ライドウを見つめた。ライドウは視線を逸らしてまた帽子の庇を押し下げてしまうと、抑揚の無い声で呟いた。
「……咎めを受ける理由が、分からない。」
夜空に打ちあがる花火がライドウの横顔を一瞬照らしたが、無表情な顔には何の感情も浮かんではいなかった。
暫くの間、白猫は幾らか泣き喚き、やがて疲れたのかライドウの手の平の上で眠ってしまった。押し付けられた第一指、親指の先を咥えたままで。
気の済むまで噛み付いておけ、と言うライドウの言葉に従ったのだろうか?
――いいや。
猫は確かに親指を口に咥えたものの、歯を立てることなど一切せず、軽く含んでいるだけだ。そうして、そのまま眠ってしまったのだ。泣き疲れた子供の如く。
それで、花火が終わるよりも早くに帰ることになった。
どうにも花火鑑賞をする雰囲気ではなくなってしまった為だが、誰も異議を申し立てることはなかった……というより、元々が猫と寡黙な書生の一行だ。議論はあまり、盛り上がらない。
静かな夜道を、ただ真っ直ぐに歩いて行く。
時折、小さな小さな泣き声が聞こえたくらいで、後には静寂だけがあった。
◇ ◇ ◇
事務社に戻ると、ライドウは着替えるために自室へ行き、ゴウトは簡単な日報を纏める為に事務室へと、それぞれ足を向けた。
ゴウトは初め、ライドウの手の内で眠る白猫に目を留めると、そのままでは着替えがしにくいだろうから俺が預かっててやろうか、と申し出たのだが、彼の書生はしかし、首を横に振って。
「……構わない。この程度、煩いには、ならない。」
ゴウトを優先させたのか、そう言ってライドウは一礼し、黒猫を見送った。
長い廊下を歩いている最中、ゴウトはふと、もしかしたらあれは白猫を起こさないようにとのライドウの気遣いであったかもしれないと思ったが――いいや、そうだ。そうに違いない、と考え、事務室へと入っていった。
ライドウは部屋の中央に立ち尽くしたまま、白猫を見詰めていた。
母親の乳をしゃぶる子どもそのままな格好で眠りに落ちている白猫の姿は、今は安らぎに満ちている。その光景から目を逸らすと、ライドウはぼそりと呟く。
「……お前は俺に何を求めている。」
冷えた声、冷えた眼差し。
しかし眠る白猫がその冷たさに気づくわけも無く、時折、ちゅく、ちゅく、と小さな音を立て、指に吸い付いてくる。
ライドウは不意に視線を白猫に戻すと、その無防備な身体に空いているもう片方の手を伸ばした。
だが、手は白い毛並みに僅かに触れたところで止まり、一時、中空で戸惑いを見せ――それを帽子の庇を引き下げる行為に代えると、ライドウは首を振って言葉を吐いた。
「……ゴウト殿は、お前を純粋だ、と……そう、言った。」
語りながら、ライドウは猫が眠る手の平に力を入れ、指を動かそうとした。
このまま力を込めれば、小さな身体は容易く潰せるだろう。
それは悲劇――……だが、辛うじて実行されることは無く。
ライドウは一度目を閉じて息を吐くと、腕から力を抜きつつ言葉を繋ぐ。
「……幼いが故に、愚かなもの。お前は俺の側に在ってはならぬ存在だ。」
静かに眠る猫の背を指先でそっと撫で、ライドウは目を伏せる。
「推知らず、姦計持たず、望むもの……それは何時か――砕かれる。」
小さな身体の丸みを確かめるような手つきで撫でる仕草を、ライドウは自覚していない。
見詰めるの眼差しの柔らかさと、その瞳に混じった感情の意味に、今は気づかず。
「俺に何かを望むなら、猫よ、お前は――」
「七綺、着替えは済んだか?」
ライドウの言の葉が、そこで途切れた。
戸口の隙間、廊下の影より出現した黒猫――それはライドウの目付役、ゴウト――が、部屋に入ってきたからだ。
ゴウトはライドウがまだ着物であるままなのを見て一瞬怪訝そうな顔をしたが、直ぐに手の平の影より覗いた白い塊に気づいて、笑う。
「何だ、邪魔をされたままか。よし七綺、やはり白は俺が見ておいてやるから、ここへ下ろせ。ああ但し、何度も言うようだが”優しく”な。」
言うなりゴウトは寝台にあった毛布を引き摺ってくると、それをライドウの前へ寄せた。だがライドウは無言で立ち尽くし、動こうとしない。
「七綺?」
ゴウトが見上げて名を呼べば、そこでライドウがようやく頷いて。
「……分かった。煩いを掛けて、済まない。」
「ハハッ。いいさ、もう慣れたこと。」
「……。」
言われるがままに、ゆっくりとした動作で白猫を下ろせば、ゴウトが毛布を口に咥えて、その小さな身体に掛けてやった。
それを見たライドウは何か言おうと口を開閉させたが、結局何も言わずに立ち上がると、背を向けて着物を脱ぎ始めた。
遠くの空より、花火の音が一つ聞こえた気がした。