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白猫ジェラシイ

12.遠い背中


白い子猫は、必死な様子で彼の背中にしがみ付いていた。
その為、背には白猫の爪が加減無く立てられているのだが、当の書生はというと、無表情を保ったまま。
正座した膝の上に鳴海のものであろうワイシャツを広げ、しげしげと眺めている瞳に熱は無い。そのシャツの前面には、最初から付いていたものでは決して無い、褐色の模様が一つ二つ付いていた。
そこへ視線を落としたまま、彼――ライドウは、静かに呟く。

「これは、染み抜き……というのを、行うのだったな。」
「みぃ、みいぃ!」
ライドウ、ライドウ。
「使用する道具、は……確か――」
「……みにゃーーー!」
落ちるから早く助けてよ!とでも叫んだのか、ライドウの背中で鳴き喚いていた声が殊更大きくなった。
だが、ライドウは肩越しから僅かな視線を其処へ投げると、その冷めた瞳――元より此れが普通の眼差しである――を白猫に向けた。
そして静かな声で、言葉を紡ぐ。
「阻害、だけでは飽き足らず……喚声にて、煩いを掛けるか。」
「にゃあ! ……にゃあ、みゃあー!」
でも、だって……ライドウが!
「口上は、受け入れない。……其処より、降りろ。」
「みゃうー……。」
おりられない。
子猫が潤んだ瞳でライドウを見上げるも、彼の書生の声音は何処までも冷たい。
「……己でとった行動の、結末だ。降下出来ぬ訳が無い。」
「……みゃあ。」
……無理。
白猫はライドウをジッと見上げ、そしてひと鳴きして向けるは哀願。

「……にゃ、……なあぅ。」
ごめんなさい。
切望の眼差し、震えた声。
ライドウは無言で手にしていたシャツを置くと、上体だけを捻じって片手を背に回した。
そうした上で、溜息を吐くような声音で静かに告げた。
「足掛け、だ。……降りろ。」
「うにゃー!」
助かった、とばかりに、白猫は体から力を抜くと、たちまちのうちにライドウの手の中へと真っ直ぐに落ちた。ゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄ってみせて、ライドウの許しを請おうとする。
だが、ライドウは猫を転がすように床に降ろすと、再び前に向き直った。
それからもう一度、鳴海の汚れたシャツを広げながら、子猫に言う。
「……謝罪を向けるは、俺ではない。この着物が所有者である鳴海に、持ってゆけ。」
ライドウの声は何処までも冷ややかで、まともに此方を見てくれない。
怒っているのだろうか?

「みゃ……にゃあ! にゃああ!」
子猫――シロは、鳴いてライドウに駆け寄りその腕にしがみつくと、まるで事の経緯を説明するかのように鳴き始めた。

それは、ライドウが帰宅した時のこと。
窓辺で寝そべっていたゴウトが彼の書生を迎える為に窓の桟から机上へと飛び移ってみせたので、シロも同じようにしようと考えたらしい。
ライドウはゴウトに優しいから、そうすれば自分も優しくしてもらえると思ったのだろう。
それで、此方(窓辺)からあちら(目の前に見えた机)へ、飛び移ろうとした。
簡単なことじゃないか――しかし、その結果が冒頭であった。

助走、及び跳躍の不足。
部屋の奥、いつもの場所で新聞を広げ、鳴海は優雅に(ゴウト曰く「無職暇人が如く」)珈琲を飲んでいた。
そこへ、目測を誤った白い塊が飛び込んだのだ。
……後の惨劇は、語らずとも予想が付くだろう。
淹れ立ての珈琲はぶちまけられ、机や床へ飛び散り、阿鼻叫喚。

最も被害が大きかったのは勿論というか「鳴海」、その一択である。
シロを両手で受け止めて衝突を防いだ代償は、しかし何とも不憫な結末に至ってしまう。
鳴海は宙を舞った珈琲カップの中身をまともに被る羽目になり、酷い有様に陥ったのだ。
先ず、シャツからズボンから珈琲色一色に染まりあがった。
チョッキは、丁度脱いでいたので難を免れた。
被疑者ならぬ被疑猫シロは、鳴海が手を高く上げてくれたお蔭で珈琲色に染まることは無かった。運が良かったというべきかはさて知れず。

ともかく、とことん酷い目に遭ったのは新聞を読んでいた鳴海ひとりだけ。
当然ながら、この後シロがゴウトに思い切り叱咤されたのは言うまでも無い。


◇  ◇  ◇


「ニャウ! みゃーう! ニャウ?」
ゴウトと同じようにしたのに、どうして失敗したの。
腕にしがみついて鳴き喚くシロに、シャツの染み抜きをしながらライドウは答える。
「同形をなぞったとて……お前が、ゴウト殿と同等になることは、無い。」
小さく丸めた布で汚れた箇所を叩き続けるその視線は、シャツに向けられたまま。
「彼の方の卓越した身のこなし、見事なる俊敏さは、お前より遙か高みにある技芸。容易く真似出来る代物では、無い。」
「うー……にゃああ!」
でも、ちゃんとゴウトみたいに飛んだのに!
「……それが、どうかしたのか。未熟であれば、し損じる。――其れが答えだ。」
「みゃ……う~っ……にゃーう!」
鳴海の広げていた葉っぱが邪魔だった!
「葉、ではなく、新聞だ。しかも、それは何の理由にもならない上、彼の人間は初めから彼の場所に座していた。」
シロの言い訳(?)に言葉を返しながらも、ライドウは染み抜きをしている手を止める事無く作業に集中している。
その腕に尚も纏わり付きながら、シロはひたすら泣き喚く。自分に非は無いのだと示すように。
「みゃー! みゃーあ! にゃあー!」
「……。」
そしてシロは遂に、人間の子供に似た癇癪を起こし始めた。
静かな息を吐くライドウ。スイと軽く上げた片手にてそれ以上を制すと、氷の一瞥と共に告げるは警告。

「――姦しい。」
「みゅー……にゃうっ。」
「お前は既に、ゴウト殿より叱責されてある。故に咎は最早無い。」
「にゃー……」
シロは一度悲しそうな声を上げてライドウを見たが、直ぐに短く唸ると、ライドウの背後、その足元に身を横たえ、丸くなって大人しくなった。
「……にゃーう?」
それ、いつ終わるの?
「そう時間は費やさない。……この程度の修繕は、困難ではない。」
「にゃう? ……みゃー。うーにゃ。」
じゃあ、早く済ませて遊ぼう。
「……お前に割く時間は、無い。己が好きに在ればいい。」
「にゃー!」
「……遊戯を求めるならば、鳴海かゴウト殿に頼み行け。俺に懇望しても、俺は――……俺は、遊戯に関しては、不得手で在る故。」
「にゃーう。……なぁう?」
遊んだこと、ないの?
子猫は、純粋な質問を率直にぶつけてくる。
ライドウはシロを一瞥し、少し考えるように首を傾げたが、視線を床に戻して言い継げる。

「……以降、言の葉の交換は……妨害と、みなす。」
「にゃ!?」
「煩いたる行為は、禁ずる。約の破棄が先は、退去。……解したか。」
「……ミッ!」
ライドウの台詞に氷が混じっているのを感じたシロは、急いで口を閉じて大人しくなった。
駄々を捏ねることはあっても、本気で嫌われたくないのだ。
ライドウから少しだけ離れると、妨げにならないように隅へ――ライドウの外套が畳んである其処へちょこちょこと移動し、その上でころりと身を丸めた。
行動を眺めていたライドウが、それで良いとばかりに頷く。
そして、少しだけ微笑んでくれたのでシロはすっかり嬉しくなって、ゴロゴロと喉を鳴らし邪魔にならない程度に小さく、にゃんと鳴いた。
すっかり静かになった室内で、ライドウは黙々と、鳴海のシャツに付いた珈琲の染みを確実に、そして丁寧に、落とし始めていく。

――物陰に、於いて。
その光景を見つめる二つの影在り。
ゴウトと鳴海である。
彼らは、大丈夫かとばかりにハラハラしながら一部始終を見守っていたのだが、子猫は全く気づかぬままに、ライドウの傍らで目を閉じ、欠伸を一つ。
今回も起こらなかった惨劇に、彼らはほうと安堵の息を吐く。

もっとも、ライドウ自身は当然ながら物陰に居る彼らに気づいていたのだが、咎めや物言いが無かった為、声を掛けることも無くそのままにしておくのだった。