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刹那の宵、瞬きの暁

02.虚無との接触



そうして庵に足を踏み入れた業斗童子だったが、直ぐに呆気にとられる事になる。

庵は、全く人気が無かった。
人が居ない――それはつまり、無人ということ。

他に音は無く、生き物の気配すらないほどの静謐の空間。
業斗童子は、そのあまりにも静か過ぎる様に首を傾げつつ、見落としはないかと入り口の土間に足を踏み入れた。そして中を丹念に見回してみたのだが、やはり動くものは何も無い。

そこにあるのは、ただの檻。
生活感が全くない、空の檻。

此処には本当に人が住んでいるのか?と。
そう首を傾げたくなるほどに、とにかく無機質な空間だった。
塵一つ無い様は、まさに言葉の示すとおり。

――無塵。

業斗童子は、胸中で自問自答する。

場所を間違えたか?
いいや、それは無い。道中は獣道だったが、ほとんど真っ直ぐの道程だったから。

ならば、時間を間違えたか?
これも、否。時刻は関係ない筈だ。その点に関する事柄は、何も聞いていないから。

「これはまた……どうしたものか。」
空の檻を前に拍子抜けし、天井を仰いで溜め息を吐いた時だった。

庭先の方で、音がした。
衣が擦れる様な音と、微かな気配。そちらへ耳を傾ければ、また小さな音が一つ。
気配も、それに合わせて、ゆらりと蠢いた気がした。
どうやら、十四代目は庭の方へ居るらしい。
あれが十四代目ならば……と、仮定した上での話だが、それも直ぐに仮定では無くなるだろう。
今の気配には、微かだが葛葉独特のものがあった。

「何だ、居るんじゃないか……全く。裏で一体、何をしているんだ。」
新米の雛鳥の癖に、目付役の到着すら待てないというのか?
煩わしさを感じて眉を顰めかけたが、しかし気配の察知に安堵して、それは苦笑へと変わった。
まあどうであれ、居るのならば、それでいい。

向きを反転して庭の方へ歩いていけば、そこには確かに人影があった。
此方に背を向けているので、あいにくと顔は分からない。
しかし、相手の格好から大よその見当が付く。
全身、黒尽くめ。学生帽と、外套。
今度の葛葉は、書生の身分だと聞いていた通りだった。

ならば、早速と。
声を掛けようと思ったその行動は、より近くに近づいたところで、瞬時に停止させられることになる。


◇  ◇  ◇


立ち竦むように身を硬直させたまま、業斗童子は思考だけを巡らせた。
それだけが、唯一に動かせるものだった。

(あれは、何者だ?)

幽玄な気配。遠い幻でも見ているような。
そんな思いを抱くほどに、それは不思議な気配を纏っていた。
形は、ヒト。だが、その中身は全くの異質。
人と言い表すには、どうにも奇妙なそれはまるで影法師。


(あれは――何だ?)


その思考を聞きつけたかのように、不意に相手が此方を振り返った。
黒い影の音の無い動きに、ぎくりとする業斗童子。
相手――十四代目であろう青年は、硬直している黒猫に眼を留めるとゆっくりと口を開いた。

「気配から察するに……貴方が目付役殿か。」

全くに抑揚の無い声だった。無機質以上に無機的な声。
――虚無の声、とでもいうのか。
感情は無く、静かに、けれど震えるように肺腑に響き渡る声だった。
浸食の振動。何もかもが、怯えて震えるような。
業斗童子が、思わず、ぶるりと身震いする。

何という……冷たすぎる声。
意識すら凍てつくような……いや、全てを飲み込むような無の声。
猫は汗を掻かない体質らしいが、今の業斗童子の全身は、冷や水を被ったように冷たくなっていた。脳裏に、カラスの使いの言葉が浮かぶ。

『呑まれぬように。』

ああ、あれはこういう意味だったのか、と。
不可解な謎が、ここにきて一気に解けた気がした。
確かに、これは呑み込む存在だ。
全てを。

――そう、きっと何もかもを。


「目付役殿では……ないのか。」
返事の無いことに対し、青年が僅かに首を傾げて再度、訊いてきたところで、業斗童子の硬直が解けた。
首を傾げる仕草が普通の人間らしい反応に見えたせいもあり、意識もようやく正気に返る。
どうにも、この葛葉は直視出来そうにない。
業斗童子は頭を振って気を持ち直すと、青年から視線を逸らした上で、答えを返すことにした。

「ああ、いや……違わない。そうだ、俺がお前の目付役だ。名を、業斗童子という。……ゴウト、で良い。」
「そう……か。話は使者殿から既に伝え聞いてると思うが、……再度、告げておこう。」
青年が、体の軸を真正面に整えて姿勢を正し、静かに言う。

「……俺が此度、十四代目葛葉ライドウを襲名したものだ。この存在に、葛葉として幾許かの認識の許可を頂ければ……幸いに、思う。」
何とも真面目な言葉を口にして、その葛葉が深々と一礼するのが眼の端で窺えた。
どうやら、礼儀作法はそれなりに弁えているようだ。
声は変わらず無機的なままだが、仕草はまだヒトの面影がある。
そこに、少しばかりの不思議な安堵感を覚えながら、ゴウトが息を吐いて言った。
「俺にまで許可の有無を求める必要は無い。構わずそのまま葛葉を誇り名乗れ、十四代目。」
「そう、か……理解した。……感謝、を。」
礼の言葉には聞こえぬ声音で言いながら、ライドウがまた一礼した。
ゴウトはその側に歩み寄ると、改めてその青年……ライドウを継いだ者を見上げ、全体的に観察する。
仕草を見たからか、それとも単に慣れただけなのか。とりあえず、視線は向けられるようになっていた。目が闇に慣れたように。

十四代目葛葉ライドウ。
体躯は細身だが、決して弱さを感じさせるものではない。
均整のとれた体、とでもいおうか。普通、といえば普通。
けれど、視線を上げて顔に眼を留めたところで、「普通」という表現は覆されることとなる。

短く揃えられた艶やかな漆黒の黒髪。それと同じ色の双眸は、髪の黒よりも尚深い闇色をしていた。見つめていると、そのまま瞳の闇に吸い込まれそうなほど、その色は深い。
色は、ある。
なのに、その瞳が映しているものは何なのか、読み取ることは出来ない。
例えるならば、硬質な硝子玉――いいや、それどころか見事な黒水晶であるのに。
整いすぎていて逆に恐怖すら感じる美貌の中で、その瞳が余計に焼き付く。
陶器のような滑らかで白い肌が、闇を一層引き立たせているせいなのもあるのだろう。
人間離れした顔立ち、というべきか。
それに加えて――この、瞳。
これらが収束して、冷たさに拍車を掛けている気がする。
しかし、その声、その顔、それらのどれもが不快ではない。むしろ、ずっと眺めて居たいほどの美貌なのだ。
ただ、この瞳に直視され続けていたら何かが狂うかもしれないが。
人形のような感情の無さ、神経を研がねば感じ取れないほどの不可思議な気配。
影のような存在、朧げな輪郭……なのに、圧倒されるこの矛盾さは、一体なんだというのか。

「お前は何者だ?」
つい、そんな言葉が口をついて出た。
すると、僅かに首を傾げたライドウが言葉を返してくる。
「……今、名乗りはしなかっただろうか。葛葉ライドウ、と。……これでは未だ、不足か。」
疑問なのに、その声音は全く懐疑的なものを含んではおらず、淡々と聞き返されたのみ。
堪らず、ゴウトが苦笑する。
疑問の感情が含まれていないのは、疑う気すら起こらないからなのだろうか。
いいや、もしかしたら呆れているのかもしれない。
この、目付役の思考の鈍さに。
やれやれ……目付役が初手からこのような姿勢で、どうするのだ。
この十四代目ライドウは、此方を酷く不安に思っていることだろう。
苦笑を湛えたままゴウトがライドウを見上げ、言葉を返す。

「下らぬ物言いをしたな、すまん。……頼りない目付役で、さぞ呆れたことだろう?」
すると、それを聞いたライドウが口元を軽く指先で押さえ、僅かに目を瞠った。
その微かな表情の変化に眼を丸くしているゴウトに、更なる驚きが振りかかる。
「何故、謝罪を。頼りない……などとは、一向に思っていない。」
「……ん? いや、しかし……。」
「目付役殿の軽視など、許されるものでは無い。それは不敬に当たる上、至極無礼なこと。御役目殿に対しては、絶対に侮蔑の感情を抱いてはならない……と。そう、習っている。」
「……。」
この十四代目は……何というか……。
いや、こちらを高く評価してくれているのは悪いことではないし、有り難いのだが。
だが――この、均衡の無さは。
戸惑うゴウトに対し、ライドウは表情を崩すことなく深々と頭を下げ、言葉を繋ぐ。

「何もかもに不得手であるが……貴方の足手まといにはならぬ様、絶対の対処をする。……以降、共人となることを御許し願いたい。」
「あ、いや……こちらこそ宜しくな、十四代目。」
未だに掴めぬ新たな葛葉を前にして、ゴウトは最後まで戸惑ったまま。
出逢いの初日は、そうして終る。

虚無の胎動、漆黒の目覚め。
これが、始まりの始まり。