刹那の宵、瞬きの暁
05.無畏施耐性
長い一日が終わり、新しい一日が始まりを告げた翌朝。
日が明けきらぬ薄紫の空が広がる庭先に、十四代目は立っていた。
両腕を組み、空を見上げて静かに佇んでいる。
考え事をしてるのか、それとも空を眺めているのか。
様子を窺おうにも、どうにも無表情だから考えが掴めない。
そこへ、丁度ライドウを探していたゴウトが通りがかり声を掛けた。
「まだ夜の中だというのに、早いな。もう起きているのか、七綺。」
「ん――。」
ライドウが腕を解き、ゴウトの方へ向き直る。
「……ああ。目付役殿。そういう貴方も、御早い目覚めだな。」
そう言って頭を下げて会釈するライドウの姿勢は、全くに正しい形をとっていて、見ているだけで少々息苦しい。
とはいえ、言ってみても直ぐには直せないようだから、今はとりあえず苦笑だけを浮かべて。
「……名は言っておいた筈だが?」
そこを指摘すれば、ライドウは二、三度瞬きをして首を傾げた。
「……ああ……そう、か。呼び名は、ゴウト……だったな。……すまない、ゴウト殿。」
敬称が付いているのにも何か一言言ってやろうと思ったが、これも今は止めておく。
「俺の名を忘れていた訳ではないようだな。安心したぞ。」
ゴウトが笑うも、対しライドウは首を振り、生真面目な口調で言い返した。
「目付役殿の名を忘失するなど、赦されないことだ。」
「……真面目に返すな。冗談だ。」
ああ。果たして、このライドウが冗談を口にする日は来るのやら。
すっかり癖になった溜め息を吐いて、ゴウトは眉根を寄せた。
◇ ◇ ◇
しかしながら、この十四代目に何かを教えるというのは想像していたよりも難しいことが分かってきた。
それは例えば、今しがたのこと。
何とか食べられる朝食を摂った後、ゴウトがここで、昨日は風呂に入っていなかったことに気づいた。
この葛葉には、身だしなみを整える癖はついているのだろうか。
そう考え、ライドウに風呂に入ってきたらどうだと告げてみれば、相手は瞬きを一つして、一言。
「水に、浸かれと。……何故。」
”水に浸かる”というのが、このライドウには”入浴”という意味になるのだろうか?
おかしな表現をするな――と思いつつ、ゴウトは言う。
「お前は大きな動作をしていないから汚れは少ないかもしれんが、昨日は式神と戦った際に、汗をかいただろう? だから、風呂にでも入って汚れを落として来い。」
「……分かった。貴方が、そう言うのなら。」
こくりと頷いて、浴場のある方へ踵を返しかけるライドウを、ふと何かが気になったのか、ゴウトが寸前で呼び止めた。
「待て、七綺――……一応、訊いておくが……風呂というのは何か、知っているよな?」
問い掛けを受けたライドウが、肩越しから視線を向けて答える。
「……湯浴みをする場、だろう。」
返ってきた答えに、ゴウトがふうと息を吐く。
「……ああ。知っているのなら、良い。じゃあ、ゆっくりしてこい。」
「ゆっくりするものだったろうか……。よく分からない、が――……では、行ってくる。」
「ああ。」
足音も立てずに廊下の向こうを歩き去るライドウの背を見送りながら、ゴウトは安堵の表情を浮かべて大きく天井を仰いだ。
流石に、「風呂とは何だ」と聞かれたらどうしようかと思った。まあ、知っていて何よりだが。
はあー……と長い吐息を吐いて眼を閉じ、ゴウトは物思いに耽る。
……そういえば。
今の会話の中で、一つ気になる点があった。
ゆっくりしてこいという言葉に、何故ライドウが首を傾げていたのだろう。
「よく分からない」とは、何に対して言ったものなのか。
杞憂であればいいが、しかし――どうにも、気になる。
「……様子を見に行くか。」
安堵から、一転。
心配になったゴウトは、ライドウが今しがた歩いていった道筋をなぞる様に、その後を追った。
ただの思い過ごしであれば一番良いのだけども、どうにも妙な予感がするのだ。
何せ、あのライドウは予想の遙か斜め上をいってくれるのだから。
◇ ◇ ◇
「……。……七綺。何を、している?」
浴室へと入った早々、ゴウトの足が止まった。硬直した、というべきか。
浴槽の前には、脱衣を済ませたライドウが居た。髪を洗っている最中だったのか、漆黒の髪が濡れており、より一層艶やかになっている。
床には、その時に零れ落ちたであろう水滴があり、幾つかの水溜りを作っていた。
と、まあ、ここまでは良い。
問題は、ここから先にある。
入浴の最中にしては室内はシンとしており、暖気の気配がない。
浴槽に水が張られているところを見ると、浸かる気ではいるのかもしれないのだろうが、ならば何故、湯が沸かされていないのか。
見送ってから、そんなに時間が経っていないのもあるけれど……しかし。
室内の各所に眼を留めながらそんな事を考えていると、髪を掻き揚げたライドウが振り返り、ゴウトを見て口を開いた。
「ゴウト殿。何故、此処へ。……それ程の時間を費やしている気は、無かったのだが。」
「いや、そういう意味で来たんじゃない。別のことが、少し気になってな。……七綺、もう一度訊くが――何を、してるんだ。」
「何を、とは。……言われたとおり、湯浴み、を。」
「湯を沸かしたのか? 湯気が立っていないじゃないか。」
ゴウトが問えば、ライドウは浴槽を見て、一言。
「何か、問題か。……水のままでも、相違はないだろう。」
折しも、季節は冬が終わったばかり。
なのに、この葛葉は、湯浴みならぬ水浴みでも構わないと言う。
「あのなぁ……。」
ゴウトが思わず額を前足で押さえて呻けば、彼の者は首を傾げて。
「悩み事かゴウト殿。……気鬱の原因は、やはり俺にあるのか。」
「まあ……な。」
「そうか。煩いごとが多くて、すまない。」
ライドウが眼を伏せて、無表情のままに呟いた。髪先から、冷たい雫がぽたぽたと落ちていく。
冷えた室内に滴る水音。それが余計に寒さを増長させる。気分すらも滅入るほどに。
ゴウトはもう溜め息をつく気すら失せたようで、ただただ眉間に皺を寄せつつ、ライドウに言う。
「謝らんで良い。……それよりもな、七綺。この寒期に水浴びは止めておけ。身体に障る。」
「俺如きの身体の為に、貴方に憂いて頂けるのは勿体無いことだ。」
「……恐悦したのなら、湯を沸かした上で入ってくれ。」
「しかし、時間の消費がある。……貴方を無駄に、待たせてしまう。」
何処までも此方を優先させてくるライドウに、とうとう耐え切れなくなったゴウトが大きな声を上げて叫んだ。
「だから!そう俺に気を遣うなと言うに!!いいから、湯を沸かせ!真っ当な湯浴みをしろ!!」
ゴウトが歯を剥き出して怒鳴るのに対し、相手はけれど、やはり無表情のまま。
抑揚の無い無機質な声で、答えを返す。
「……承知した。」
こくりと頷いて、ライドウがようやく湯を沸かしにかかる。
「全く……。」
ゴウトが呆れつつライドウを見上げれば、白い陶器のような肌が視界に映った。
青褪めて見えるほど白く、滑らかな肌。
……滑らか?
水に浸していたのなら、少しは震えがあるなり鳥肌が立つなりしていてもおかしく無い。
いいや、まだ中に入っていなくとも、この寒気が漂う室内で丸裸の状態なのだから……随分と寒いはずだが。
「……七綺、お前……寒くないのか?」
「何故。」
背を向けたままで、ライドウが訊き返す。
「いや、な。この寒さの中、裸でいるのなら何かしらの反応があると思うんだが……その割には震えておらんようだから、気になってな。お前、寒さに耐性があるのか?」
「ん、……――……。」
ゴウトの問いに、そこでライドウが押し黙った。
浴槽の淵に手を掛け、水面に眼を落としたままそうして長く沈黙するライドウに、ゴウトが疑念を寄せる。
元々ライドウは饒舌な方ではないから、沈黙という行為そのもの自体は珍しいことではない。
しかし、今――何かを言いかけた上で、口を噤んだことが気になった。
「何だ、どうした。」
「……。……。」
「七綺?」
「……一通り、習った。」
「習った? 何をだ。」
首を捻るゴウトに、ライドウは振り向くことのないまま驚愕の告白をする。
「全てに於いて怯むことがないように、と言われ……痛覚に対し耐性をつけることを習った。」
「……!?」
「だから、寒い、というのは……よく、解らない。」
「七綺……。」
「痛覚、に対する反応は……どうすれば、いいのだろう。それらは禁じられていたから……やはり、よく、分からない。……愚鈍な葛葉で、すまない。」
淡々と語られたものは感情が露呈していない分、余計にゴウトの胸をざわつかせた。
「七綺……お前は――……」
だから、表情が変わらないのか。
声に抑揚が無いのも、そのせいだと……?
必要なことを不必要だとされて習わせず、殲滅に対するものばかりを教え込まれ。
他に対して疎いのは、単に事を知らないのが原因だと思っていたが――違うのか、違っていたのか。
自身の意思を示さないのは、感情の表現を封じられたからか。
不平や不満を抱かないのは当たり前か。そういう悪感情もきっと、分からないのだ。
そういう風に育てられて――いや、作られたのだろう。
人を、人形に仕立て上げたのだ。カラスが。
ああ、ああ。
何てことだ。
だからこんなにも知識が不安定で、自らを省みなくて。
……何ということだ。人形は最初から人形では無かった。
――俺は、何という考えを抱いていたのだろう!
ゴウトが喘ぐように口を開閉させ何か言いかけるが、丁度その時、ライドウが水面に手を浸し、不意に口を利いた。
「ああ……湯になってきた。ゴウト殿、これでいいのだな。」
「あ、……。……ああ、そうだ、な……そうだ、その状態で身を浸せ。」
「承知した。けれど、貴方の時間が――」
「さっき俺が何と言ったか忘れたのか? 時間の消費を気にするな。良いから、ゆっくり湯に浸かれ。そして、その冷え切った身体を温めろ。」
だから、冷たいままでいるな七綺。
冷水のままで構わないなんて、言うんじゃない。
「ほら、湯の方が温かいだろう? 水よりはずっと心地良い筈だ。」
ゴウトがそう言えば、ライドウは湯を一つ掬い上げて、頷いた。
「……ああ、確かに温かい、な。……心地が良い、というのまでは分からない、が。けれど……――水に比べると、随分と柔らかい感じがする。」
柔らかい、か。成る程、そういう表現の仕方もあるな。
ゴウトが心中で苦笑して、残りの言葉を告げる。
「待っててやるから、急くなよ。――じゃあ、俺は部屋に戻っておくぞ。」
「……ん。貴方は、入浴しなくて良いのか。」
「……ま、俺にも色々あってな。」
「そうか。詮無いことを口にした。……すまない。」
「だから謝るなと言ってるだろう。良いから、とっとと湯に浸かれ。……見ていて、寒々しい。」
「そうする。」
ライドウの返事を聞きながら、ゴウトが背を向けて戸口に向かう。
ぱしゃん、と水音が一つして、声が掛かる。
「ゴウト殿――貴方の気遣いに、感謝を。」
「……。ああ。」
背後から漂いだした湯の空気に押されるようにして、ゴウトはそのまま浴室を後にした。
そうして廊下を歩きながら、今聞いた告白について思考を巡らせる。
何とも言えない感情が、渦を巻いていた。
ゴウトの表情には酷く陰鬱なものが浮かんでいる。しかし、それは憐憫ではない。哀れむことは、あのライドウをより一層最下に貶める。
哀しいのは確かな事実だが、けれど恐らく、あのライドウはそれすらも分かっていないのだろう。
そういう感情が生じないものへと作られてきたのだから。
「……おのれ、ヤタガラスめ。」
きり、と歯軋りをしてゴウトが悪態を付く。
ライドウが――七綺が怒りを示さないのならばせめて、自分が示そうと思った。
そして、一つのことを誓う。
あの人形を、人に孵してみせようと。
ともあれ、今はただライドウが――七綺が、長湯を楽しんでくれることだけを、祈った。