刹那の宵、瞬きの暁
07.無価値変異
月が雲間に隠れ、全くの闇が覆う夜の中を、一匹の黒猫が駆けていた。
夜目にも鮮やかな緑閃を煌かせ、疾駆するその表情は険しい。
怒りのためか、焦りのためか、眉間に深い皺を刻み込ませて駆け走る。
ただ、ひたすらに。
「……ヤタガラスッ!!」
闇を薙ぎ払うかのように牙を剥き、そしてボソリと呟き出たのは怒りの欠片。
深い緑瞳に激しい烈火の色を宿し、夜の中をひたすら疾走しながら。
その黒猫は――ゴウトは、庵であったことを思い返していた。
◇ ◇ ◇
その日も朝から、ライドウに他愛ない事柄を教えたり聞かせたりしていた。
彼は、些細なものでも大切な事だと思っているのだろう、生真面目な姿勢を全く崩さずに、ゴウトの話に耳を傾けている。
口を開くことは無いが、けれど時折、頷いたり首を傾げたりの動作をするので、ちゃんと聞いてはいるようだ。顔が無表情のままなのに対し、反応が、幼い童子に見受けられるものに似ているから、何だか微笑ましかったりもする。
そんなライドウを苦笑交じりに観察しながら、そうやって暫く話を聞かせていたのだが、けれど。
どうしたことか、ライドウは不意にその動作すらしなくなり、完全に動きを止めたのだ。
元々、寡黙な方だから沈黙するのは珍しいことではないのだが、しかし何故か、妙に気になってしまった。ゴウトは話すのを止め、ライドウに言った。
「七綺、どうした。」
相手の顔を覗き込むようにして訊ねれば、ライドウが何度か瞬きをしてから、何でもないと言って首を振った。どうやら、珍しく自失していたらしい。
ライドウは生真面目な詫び言を口にした上で、その理由を言った。
それは、想像以上の――いや、想像すら出来なかった、驚愕の言の葉だった。
「貴方の瞳の色は美しいな、と……憧憬の念を抱いていた。」
突然の賛辞を受けて、ゴウトの眼が丸くなる。
美しい? 憧憬?
それ以上の美貌を持った存在の癖に、いきなり何を。
絶句しかける、ゴウト。
だが、この直後、抱いた驚きが驚愕へと変わる光景を見ることとなる。
ライドウはもう一度、賛辞を口にして、それから静かに――微笑したのだ。
それは初めの出逢いの時に現れた、あの怖ろしい絶対美の艶麗の笑み。
ぎくり、と凍りつくゴウト。
鮮烈の威力は、衰えを知らないのだろう。最初に見たのと同じままで、艶やかに砕けた美が、虜囚に陥れようとする。
「……っ。」
陥落しかける、その寸前。
ゴウトはどうにか頭を振って、絡みかけた縛鎖を断ち切った。
否――断ち切れた、といった方が正しい。
そして、どうにか平然とした風を装いながら、相手の賛辞を咎めれば。
「……。」
ライドウが押し黙り、目を伏せた。
室内の音が、ぴたりと止む。
しんとした静寂に、ゴウトが息苦しさを覚えた時だった。
「ゴウト殿、俺は――……。」
目を伏せたまま、ライドウが――七綺が、ようやく口を開いた。
が、しかし。
その言の葉は、あまりにも不可解な代物でいた。
「俺は……――貴方の側に居ては、ならないものだと思う。」
「……何、だと?」
ゴウトが眉を顰めて、七綺を見る。
その際に、そうするつもりは無かったのだが、強く睨みつけてしまった。
そんなゴウトの視線をどう捉えたのか、七綺は顔を上げるなり、床に両手をつき頭を大きく下げた。
「今更、このような事柄を告げて、すまない。……貴方が、気分を害すのも、無理からぬこと。」
平伏の姿勢をとりながら、不可解な言葉と謝罪を口にする七綺に、ゴウトがますます強く眉根を寄せて言い返す。
「もう少し解りやすく語れ、七綺。それから――頭を上げろ。」
「……。」
だが七綺はそれに従わず、尚も土下座のまま沈黙している。
「七綺。」
「……。」
「――面を上げろ! 十四代目、葛葉ライドウッ!!」
「――……ゴウト、殿。」
焦れたゴウトが大きく怒鳴ったところで、七綺がゆっくりと上体を起こした。
その表情に全く変化はないが、項垂れるようにして軽く俯いている姿が、何処と無く気落ちしているように見える。
沈黙した七綺を見据えながら、ゴウトは一度息を吐き、そうして気を静めてから再度、声を掛けた。
「……話せ、七綺。詳細を。」
七綺が再び口を開いたのは、幾許かの間を空けてからだった。
「……承知、した。……表現の不足が多々見受けられると思う、が……尽力する故。」
その物言いに、ゴウトが怒りを和らげ、苦笑する。
「そう、話す前から不要に畏まるな。――……さぁ、話せ。」
「分かった。」
そうして七綺は静かに語りだした。
初めは極力、平静さを保って聞いていたゴウトだったが、七綺が話の終わりに、”カラスから聞かされた言葉”を言ったのを切っ掛けにしたかのように……そこで、感情が爆発してしまう。
彼の書生は無表情なまま、カラスから告げられた言の葉を、口にした。
「俺は、ヒトではない。故に、俺の存在に生の価値は無い。……そう、教えられた。」
淡々と、冷たい声で酷い言葉が紡がれる。
「だから……これ以上、貴方の時間を俺に割くのは……止めておいたほうが、良い。」
そう言って、語りの最後に、そっと目を閉じた様はまるで全てを受け入れた罪人のようだった。
価値が無い?
誰が?
七綺が?
――何故?
それに、ヒトではないというのはどういう意味だ?
誉れ高い葛葉の名を継ぎし者が、どうして今……咎人のように、見えた?
渦を巻く思考の中から必死に答えを探しているゴウトに、七綺の言葉が重ねてかかる。
「俺は、全ての価値を無に還す。……貴方の時間を無価値にしたくは……ない。」
だから……どうした。
それが、どうしたというのだ。
それで俺が納得すると思っているのか?
そんな説明で、俺が身を引くとでも?
俺がお前に従うとでも言うのか、言いたいのか。
俺がお前の為に使った時間は無価値になるから、教鞭を揮うな?
ただの言の葉の羅列を並べ立て、何を生意気に。
驕るな雛鳥。……図に乗るな、若輩者!
「――ふざけるな、愚か者がぁっ!」
家鳴りを起こすような怒号を上げたのは、いつ振りだろう。
大声に驚いたのか、七綺が顔を上げてゴウトを見つめた。
そして何か言い掛けようと、相手が口を開きかけるより早くゴウトは庵を飛び出した。
これ以上、七綺と対話していても話の内容は理解出来ないままだ。
だったら根源の元に向かえば良い。
禍々しく愚かで、怖ろしくずば抜けた美貌を持ち合わせ。
けれど何処までも人に戻る様を見せない、十四代目葛葉ライドウ。
そんな風に彼を人形に仕立て上げた、繰り師――ヤタガラスに、強い怒りが湧き上がる。
牙を振るう気は無い――が、けれど、しかし。
爪を制御できるかどうかは、ゴウト自身、計りかねていた。
否――自制が出来るかすら、自分でも解りはしなかった。
そして、どれくらいの時間の中を駆けたのだろう。
ゴウトが足を止めた先は、志乃田。
名も無き神社、その石鳥居の前。
息を切らしながら鈴鐘の前に立ち……勢いよく、鳴らした。
がらん、がらん、がらん!!
静寂で支配された神社内に、騒々しく鳴り響く鐘の音。
「ひゃあー。なんや、こんな夜更けに。かなわんわぁ……。」
「冷静な目付役が、激情してるとは……珍しいですね。」
ひそひそ、ひそひそと。
囁く石狐たちの会話を背に受けながら、ゴウトが鈴鐘を睨み上げて影を待つ。
そうしてカラスの使者が姿を現せば、出迎えたのは怒りの炎を全身に宿した、一匹の黒猫。