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刹那の宵、瞬きの暁

10.未踏開拓者



さくさくさく。
さくさくさく。

枯れ草を踏みしめながら、一人の男が薄暗い森の獣道を歩いていた。
外見は、山登りには不向きであろうスーツ姿。生成り色のジャケットは、人の多い街中ではさほどではないが、この昏い中では不自然なくらいに目立っている。
歩行は幾分、力無く気怠いものだが、視線は油断なく周囲に向けられ、身に纏う気配も隙が無い。

どれくらい、この道ならぬ道を歩いたことだろう。
景色は最初から一定のままで、全く変わり映えを見せようとしない。
男が不意に、足を止めた。
そして辺りを見回しながら、ごそごそと懐を探り出す。
「あー、疲れた。」
億劫そうに息を吐きながら取り出したのは、煙草とライター。
小さな箱から一つを抜き出し口端に捻じ込むと、片手に持ったライターで火を点けた。
それから、ふーっと紫煙を吐き出し、がしがしと頭を掻きながら呟く。
「しっかし……行けども行けども昏い森だな。」
今日は快晴だというのに、空を仰いでみても鬱蒼とした木々の枝葉に隠され、青は隙間から少し覗くのみで、青天が微塵も窺えない。
此処はまるで、外から隔離されたような世界だ――と、そんな事を思う。
上下左右、何処まで行っても陰が付いて来るような景色を前に、男が眉を顰めた。

「あーあ……来るんじゃなかった。」
男は――鳴海は、ぱらぱらと地面に落ちる灰を見つめながら、もうこのまま帰ってしまおうかと考えていた。


◇  ◇  ◇


この森に来る切っ掛けになったのは、一つの依頼が舞い込んできたからだ。それが一般のものだったら良かったのだが、どうしてか政府の上層部から来たものだから、堪らない。陸軍だか海軍だか、とにかく御偉方からの調査依頼……というか、ほとんど命令状だった。
ちなみに、此処に来る際に鳴海は一応、方位磁石を用意していたのだが――これが、見事に役に立ってくれない。特殊な磁場でも発生しているのか、針は常に不安定に揺れるばかりで正しい方位を示さないのだ。
北を指したかと思えば、南を指したり西に動いたり、ふらふらと。御蔭で、鳴海の心情も不安で揺れてきた。来た道を引き返そうにも、深く入り込んで居る為に、直ぐに戻れそうもない。
それどころか、無事に岐路に辿り付けるかどうか分からない有様。
帰還以前に、もう生きて帰れるのかどうかすら怪しい。
多分、これはヤバイ。
暗い森、何の気配もしない周囲、変わらない景色。
役に立たない磁石、役に立たない後悔。
此処は、とにかく人の無力さを教えてくれる。
「……ほんと、来るんじゃなかった。」
短くなった煙草を地に落とし、足で踏み消しながら途方に暮れかけている時だった。

「……やはり、人……か。」

閑散とした森の中で響いたのは、冷徹な声。
闇の奥から届いたように、冷たい声だった。
ぎくりとして声のした方を振り向けば、何時から其処に居たのだろう、黒い人影が立っている。
(……何だ?)
鳴海が目を凝らしてよく見れば、それは外套を身に纏った一人の青年だと判明した。
更によく見てみれば、学生帽を目深に被っている。そのせいで、相手の表情は窺いにくい。
(何でこんなところに書生が……?)
いや、その前に。
全く、気配を感じなかった。――足音、すらも。
突然の人影の出現に戸惑っている鳴海に、相手が更に声を投げる。

「お前は、何だ。」
誰だ、ではない。
「何か」と訊くそれは一応、誰何の質問なのだろうが、全く疑問符がついていない為に命令形に聞こえる。
相手の声は抑揚が無く、纏う気配と同様、無機質で冷たいものだった。
それに加えて、刺すような視線――いやそれは最早、殺気に近い。
身体ごと貫いてくるような視線を受けて、鳴海がその場に固まる。
冷気で四肢が強張るような擬似感覚を覚えながら、鳴海がそのまま立ち尽くしていると、青年が僅かに首を傾げて、もう一度言った。

「……お前は何だ、と訊いている。それとも……言の葉を繰ることが出来ないのか。」
外套の下から覗く、青年の腰元には日本刀。
刀の柄を親指で静かに押し上げ、今にも斬りかからんとするような姿勢でいる相手に、鳴海の硬化が解ける。
沈黙のままでいるのは危険だ、と鳴海の何処かでもう一人の自分が警告を発した。
「ま、待った! ……か、会話をすることは、可能だ……と、思う!」
殺気に気圧されて声が強張ったが、どうにか首を振って反応を示すことが出来た。
さて、何を言えばいい? 何と言えばいい?
どう言えば、相手の殺気を消すことが出来る?
消すことが出来ずとも、せめて……和らげることが、可能ならば。
鳴海は色々考えたが、相手の放つ冷気に押されてなかなか答えが纏まらない。
「……。」
長い沈黙に不審を抱いたのか、青年が無言のまま、かきりと柄を押し上げる。
鞘から覗いた刀が、小さく煌くのが見えた。

(あわわわわ。やばいやばいやばい!)
鳴海の焦燥感が増し、混乱がひどくなる。
色々なものが渦巻き、ごちゃごちゃになる。
何かないか、何か――。
そうして、鳴海の口をついて出た言葉は。

「俺は……唯の、旅行者だ! 此処へは……その、……新緑を、見に来た!」
……などという、明らかに怪しい嘘しか出てこなかった。
この森は暗くて観光には不向きでいるし、また鳴海の格好も、散策者にしては可笑しいものであるわけだが、けれど今の鳴海としてはこれが精一杯だったのだ。
必死の嘘は、相手に通るのか否か。

その、結果は。

「りょこう、しゃ……。……よく、解らない……が。まあ、いい。事情は、把握した。」
言うなり、青年は呆気なく柄から手を離すと警戒と構えを解いた。
「え。――……わ、分かってくれたの?」
あまりにも簡単に騙せた(それとも、騙されてくれた?)せいか、鳴海は唖然と呟いた。
すると、それを聞いた青年が、癖なのか、また少し首を傾げて言い放つ。
「今の言の葉で、お前の全てを理解したわけでは、ない。唯……害意が見受けられない故に、構えを解いた。俺の行動は、何か間違っているのか。」
「あ……。い、いやそんなことは無いさ! 正解だ。合ってるよ、それで。」
合ってはいないし、正解などでもないが、とにかく一難は去ったようだった。
(はぁ……とりあえず、助かった……のかな。)
鳴海が心中で溜め息をついて安堵しているところに、相手の声が掛かる。
「……。リョコウシャ、というのが何をするものか知らないが、此処から先は禁足地。早々に立ち去れ。」
「えー……と。……禁足? なに、何があるの?」
鳴海はわざと軽薄に振舞い、相手に笑い掛けて更なる警戒を解こうとする。
けれど、相手はその能面のような表情を委細崩すことはなく、淡々と言葉を繋ぐ。

「何も、在りはしない。」
「え、でも……禁足、って事は、何かあるからなんだろ?」
「リョコウシャが意識を向けるようなものは、無い。……ところで、お前は迷い児なのか。」
「迷い児って。そんな子供みたいな言い方……」
苦笑しかける鳴海だが、その笑みは相手の冷たい視線の前で、硬化した。
感情の無い瞳の闇は、鳴海を取り込もうとするかのように深い。言葉を飲み込んだ鳴海に、青年は言う。
「迷い児なら、正しき道を示して帰してやればいい、と……そう、示されている。けれど、お前は違うと云う……俺の役目は、此処までだな。」
独り言のように呟くなり青年が踵を返すのを見て、鳴海は慌てて声を掛ける。
「あ、待ってよ! なあ、お前さんはこの辺りに住んでる子なのか? この辺りに詳しいのか? 良かったら、この先の道案内をしてくれないか!?」
鳴海の言葉に、青年は歩みを止めると肩越しに振り返って言葉を紡ぐ。

「過心は、滅を生む。……故に再度、お前に告げる。此処より奥には行くな。――以降、立ち入れば、容赦はしない。」
「え、あ、ちょっと……!」
「――……。」
鳴海が尚も言いかけるより早く、今度こそ青年は立ち去った。
現れた時と同じように、全くの音も無く、森の奥に続く闇の中へ。

「……消えた?」
いや……歩き去った、のだろう……が。
何という、見事な気配の消し方。
出現も撤退も、全く感じ取ることが出来なかった。
最初から、最後まで。
あれは、なんだ。なんだったんだ。
人の形をしているが……人じゃ、ないのか?

「……ま、いいか。」
額の汗を拭いつつ、鳴海が気を引き締める。
何故なら、これから向かう先は禁足地なのだから。
鳴海は青年の警告に従わず、また退くこともなく、足を踏み出すことにした。
調査に俄然ヤル気を起こしたのは、あの青年があまりにも得体の知れないものでいたからかも知れない。冷たい美貌を持ち、何処までも無機質感が漂う、あの無貌の人形が。

「さぁーてさて。この先には一体何があるんでしょうかね~?」
明るい口調でおどけながら、鳴海は昏い森を突き進む。

その先に待つものの恐ろしさを、甘く見ていることに気づかぬままに。