刹那の宵、瞬きの暁
16.螺旋呪縛鎖
檻から出されてから、どれほどの時間が過ぎたことだろう。
未だ檻の延長線上にある場所ではあるが、此処では美しい緑色の瞳を持った目付役殿が側に居る。
それだけで、息が詰まるようなあの感覚がないのだ。
――呼吸が、し易い。
その一つだけで随分と事情も違ってくるのだから、目付役殿の存在は尊いものなのだと実感する。これには至極、感謝の念を抱いても、まだ有り余るくらいに。
と、ここまではいいのだが、最近、外部からの不遜な人間が一人此処に迷い込んできた上に、あろうことか居付いてしまった。
この人間は無粋に侵入した上に、畏れ多くも目付役殿に危害を加える行為を仕掛けたので、俺としては一刻も早く滅す必要性があると判断している。この気持ちは、今でも変わりはしない。
けれども、目付役殿は――ゴウト殿は、それを許可しない。
害意を向けられたというのに、寛大な態度を以ってしてその人間を許したのだ。
彼の方は何と優しく、御心が広いのだろう。
ゴウト殿が見せた振る舞いの見事さに、俺は改めて至上の敬意を払わずにはいられない。
故に、俺は今の状況を享受する。
異端者が何をしようとも、俺は刀を抜いてはならない。
だがそれは、ゴウト殿に何も仕掛けないことを前提としての、約束事であるが。
彼の方は今頃、夢の中にいるだろう。
俺の祈りが叶えられたのならば、きっと良き夢に身を委ねている頃合だ。
いつも叶いはしなかった願いだが、今この時だけはせめて。
少しでもいいから、聞き届けられていれば……と、思う。
息を吐いて夜空を見上げれば、怜悧な三日月が瞳に映る。
月はいつも遠くにあり、こうして長々と見ることは出来なかった。
けれど、今はこうして眺めることが出来る。何の邪魔も入らずに、それこそ飽くまで。
檻の外は、良い世界だ。
気持ちが揺蕩うて、心地良い。
此処には、鮮やかに咲き乱れる紅花もないから。
望むことが許されるのならば、もう今暫くは。
この場に居たい。ゴウト殿と共に。
この美しい月を眺めて――静かに、静かに……過ごしたい。
◇ ◇ ◇
夜の闇は全てを包み込む。
音も存在も覆い隠し、静寂ばかりが支配する世界。
ライドウは、夜が一番好きだった。
尤も――ライドウ自身は今だに「好き」という感情が、良く分かってはいない。
けれど、これまでにゴウトから教えてもらった言葉を、自分なりに解釈して判断した結果、夜に抱く気持ちは「好き」というものに値するのだと考えた。
縁側に腰を下ろし、広がる宵闇に身を浸しながら、空を仰いで目を閉じる。
静かな夜の闇は、まるでゴウトの毛並みのそれと同じく艶やかで美しい。
「……。」
ライドウが微かな笑みを刻んで、瞑目している時だった。
「息災のようですね。十四代目、葛葉ライドウ。」
闇の中に溶け込むような、ひっそりとした声が何処からともなく降ってきた。
ライドウが目を開け、周囲に視線を向ける。だが辺りにあるのは宵闇に包まれた木々ばかりであり、声の主の姿は何処にも見えない。
しかし、ライドウには相手が見えているのだろう。
顔を上げると、闇の中のある一点に視線を留めて言葉を返す。
「……ああ。さした障りは……今のところ、無い。」
そう言うと一歩前に足を踏み出し、そのまま静かに地面に片膝を付けて跪く姿勢をとった。
恭順の意を示した行為か、片手を胸の前に当て、少し項垂れるようにしながら言葉を繋ぐ。
「……貴殿がわざわざ赴いたのは、何かしらの異変が、生じた為か。」
「いいえ、火急のものではありません。ただ――そろそろ穢れを祓う頃だと、思いまして。」
「……。」
ライドウが視線を闇に向け、無言のまま影を透かすように見つめた。
その顔には何の表情も浮かんでいない為に、何を思っているのかは分からない。
会話の途切れた空間を攫うように、影が言葉を紡ぎ返す。
「迅速、且つ、性急に穢れの始末をするよう願います。……これ以上のことは言わずとも、分かっているでしょう?」
「……。」
「返事はどうしました、十四代目。」
「……それは……。……俺以外のものには、託せない、だろうか。」
「何を今更のことを。拒絶の意思の表れが見受けられますね。逆らうのですか?」
「否……抗告、では……無い。ただ……。……、彼の、目付役殿の、許可は……」
「その必要はありません。これは、あの者の管理が範囲でないのですから。」
言いかけるライドウの言葉を遮って、影が言った。声音に笑いを混じらせて。
「……。」
ライドウが視線を伏せて押し黙るも、相手は尚も言葉を注ぐ。
「返事はどうしました? まだ貴方の答えを聞いていませんよ、七綺。」
そして答えを促してくる。
それも、絶対の肯定しか許さぬ口調で。
真名を、最後に付けて。
「――……。」
ライドウが逃げるように目を閉じ、黙り込む。
「応えなさい――七綺。」
影の声音に少しばかり苛立ちめいた調子が混じった。
とうとう観念したのか、ライドウは瞳を開けると、こくりと頷いて言葉を継ぐ。
「……長の緘黙、失礼した。貴殿の命に……帰順、しよう。」
受諾の返事を受けて満足したのか、影がくすりと笑った気配がした。
「宜しい。肯定の言の葉が聞けて、何よりです。――それでは、また。」
ばさり、と羽ばたく音がして、何かが夜空に飛び去っていった。
それと共に、闇の中に潜んでいたであろうその気配も消失する。
あとに残されたのは、地面に片膝を付いたままのライドウだけ。
「……。」
ライドウが――七綺が静かに息を吐き、視線を落として深々と項垂れた。
この鎖は、何処まで。
何時まで纏い続ければ、赦される。
放たれる日は……来るのだろうか。
籠から出た、籠女。
けれど外は、中と変わらぬ闇。
静寂の中、七綺は自身を慰めるかのように両肩を抱くと……そっと目を、閉じた。
◇ ◇ ◇
大きな影が静かに羽ばたきながら、宵闇の中を進んでいた。その影の外見は漆黒の鳥でいて、何処となく鴉に似ている。けれどもやはり、明確なところは夜の闇に溶かされていて、判別はつかない。
冷たい空気を身に浴びながら、鳥が目を細めて呟きごとを漏らす。
「稀型が意思を持ち始めたか……成程。使者の報告通り、これは見事に厄介だ。」
煩わしさを厭うような口調、だがその声音とは裏腹に、どうしてか影は自らの口元に笑みを刻んで笑っているのだった。
まるで、何かを嘲笑いでもするかのように。くつくつと。
歪んだ笑みを貼り付けたまま、鳥の形をした影は夜の中を進み、己の巣へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
「あれ――そんなとこで何してんのさ、書生くん。」
庵の庭先で片膝を付いたままで居た七綺に、聞き覚えのある声が掛かった。
七綺が顔を上げて声のした方を見遣れば、丁度部屋から出て来たのだろう、鳴海が縁側の縁に立っていた。シャツを着崩しており、それを簡易な夜間着代わりにしている。
「こんな真夜中に何してるんだ。――夜警でも?」
人好きのする笑みを浮かべて、七綺に――ライドウに鳴海が話しかける。
けれどライドウは何も言い返さず、黙って相手を見つめるだけ。
何の反応も示さない相手に、鳴海は頭を掻きながら言う。
「……あのさ。挨拶はなくてもいいから、せめて返事の一つくらいはしてくれよ。」
「……その方が、良いのか。……分かった。」
本当に解っているのかと言いたくなるほどの冷めた口調に、鳴海がまた頭を掻く。
「ま、いいや。で、それはそうと。……何で地面に膝を付いてんの。何かの修行中?」
「……違う。」
鳴海の言葉を両断して、ライドウが立ち上がる。膝元に付いた土や砂には全く目もくれず、そのまま森の方へ向き直れば、怪訝に思ったのか鳴海が訊ねた。
「何処かへ行くのかい、書生くん?」
「……お前には、関係の無い事柄だ。」
肩越しから鳴海に視線を投げて、ライドウが言い返す。だがその瞳は鳴海の後ろへと向けられているような気がした。
まともに視線を向けられずに言葉を返され、鳴海は首を振って苦笑する。
「やれやれ。ほんとに反応が冷たい子だねえ、お前さんは。」
「……。」
無言の、ライドウ。
不意に冷めた視線を森へと向けると、足音も立てずに歩き出した。
急な行動を前に、驚く鳴海。
歩き去ろうとする相手の背に追い縋るように、縁側から声を投げかける。
「待ーてよ、書生くん。あのさぁ、お出掛けするなら、あの黒い猫サマも一緒じゃないと駄目なんじゃないの?」
揶揄するようにそんなことを言えば、ライドウの歩みがピタリと止まった。
鳴海の方を振り向きもせずに、言葉を返す。
「……彼の方の助勢は、不要だ。それに――」
ライドウはここで一度言葉を切ったが、直ぐに短く呼吸してから後の言葉を紡いだ。
「穢れに堕ちるのは……俺だけで在れば、いい。」
「書生くん……?」
氷の声が、静かな夜の闇の中を通り抜けた。
無機質な、声。抑揚が無く、感情も混じっていない冷たい声。
それが、ひっそりとした夜の中に溶け込むように流れた。
空気のように。
なのに、どうしてだろう。
悲しみで沈んだような声だと……何故か、そんな事を思ってしまうのは。
その時、痛みを受けて蹲る小さな子供の姿が見えた。
ライドウに重なるようにして浮かび漂う残像に、鳴海は眉を顰める。
「え? あれ……?」
思わず目を擦ったところへ、冷たい声が掛かる。
「夜の冷気は、傷に障る……――中へ帰り戻れ、人間。」
「え? ――あっ……」
瞬きをして視線を戻した次にはもう、ライドウの姿は消えていた。
白い子供の影も、もう無い。今のは何かの見間違いだったのだろうか。
ライドウの肌の白さが見せた、錯覚だったのかもしれない。
「はー……しかし、よくもまあ全く音も立てずに消えてくれるな、あの子は。」
目の錯覚に首を捻りつつも、ライドウの見事な去り方に鳴海は感嘆の息を吐いた。
「そういや、あの子……何か珍しいことを言ったな?」
呟きながら、今のライドウの言葉を思い返す。
傷に障るから、寝ろと言った。
夜の空気は冷たいから、と。
それは、心配?
無反応、無関心、無愛想で無機的。一度は刃を向け、そして殺そうとしてきた子供。
虚無の塊のような、あの人形めいた子が……此方のことを、気遣ってくれたのだろうか?
「俺の聞き間違いとかじゃあ……ないよな?」
他に邪魔する音は何も無いのだから、間違うはずも無い。
いいや、雑音の中であったとしても、あの声ならば全てを切り裂いて明確に通るだろう。
冷たい刃の一閃は、けれど気のせいか優しくあるように思えた。
「うーん。寝ろって言われてもなぁ……。」
おかしな時分に目が覚めたものだから、当分眠れそうにない。
何も明かさずに、外へ出て行った子供。
誰も連れずに、独りきりで出て行った。
それならば、せめて。
迎え役でも務めてやろうか。
「俺は、お前さんの帰りでも待っとくよ、書生くん。」
そんな事を一人呟いて、鳴海は月見でもするように縁側に腰を下ろした。
夜の空気は確かに冷えてはいたが、けれどライドウが言うほど傷に障りそうにない気がした。
空を仰げば、見事なまでの鋭角の月。
何だか猫の爪跡みたいだな、と思いながら、鳴海はそうしてライドウの帰りを待つ事にした。