刹那の宵、瞬きの暁
18.射嚇忠告
朝。
芳しい匂いに鼻先をくすぐられて、鳴海は目を覚ました。
こと、こと、と。
何かが煮立つ音がする。
それと共に漂ってくる香りは、食べ物の匂い。
寝起きだというのに、さっそく食欲が刺激されるその匂いによって頭に浮かび上がった美食の幻影に口元を緩めながら、鳴海は一つの事を考えた。
これを作っているのは、誰だ?
此処の庵には、猫が一匹と、人間が”一応”二人居るのみで他には何も無い。
その中で一番しっかりしているのは黒猫だが、しかし食事の用意が出来るとは到底思えない。
人語を解し、会話する不思議な生き物とはいえ、姿かたちはやはり唯の猫に過ぎないのだ。
猫が行うには少し――いいや、大層な苦行になるであろう作業。
なので、猫は除外する。
まあ、ここまで考えなくとも最初から猫を数には入れていないのだが、万が一、ということもあるかもしれないのだし。
とはいえ、そんな仮定をしてみるも、やはりそれまで。
猫が料理をする、などということは本気で想像が付かない。何があろうとも。
とりあえず、そうやって猫を除くと、台所に立って料理をしているのは人間ということになる。
人間二人の内の一人、鳴海は……自分は、まだこうして布団の中。
ならば、あれは。
――該当するものは、たった一人しか居ない。
「……よ――……っと。」
鳴海は何を思ったか、そこでむくりと起き上がった。先程までの寝汚さは、何処へやら。
大きな欠伸をすると、目を擦りながら身なりを整え、襖を開けて廊下へ身を躍らせた。
それは物憂げながらも、機敏な動作。
人形が食事の支度をしているなんて、想像もつきやしない。
だから、見に行くのだ。
何てことのない光景だと言うのに。
昨夜の出来事も気になっていただけ、余計に。
◇ ◇ ◇
「ああ。やっぱり。お前さんが、犯人か。」
戸口に凭れかかりながら話しかけると、水場に立つ人影が、静かな動作で鳴海の方を振り返った。
「……。」
黒い着物に身を包んだ青年は、何も言わずに鳴海を見つめる。
凝視、といったほうがいいのか。その顔には全くに表情が無く、まるで能面のよう。
光ある朝に見ても、ぞくりとする。冷たい相貌に戦慄を覚えるが、けれど恐ろしく美しいものだから、一度見つめられれば、なかなか瞳を逸らすことが出来ない。
まるで罠のような視線を受けながら、鳴海がそのままで居ると、青年が――ライドウが少し長めの間を置いた後に、ようやく言葉を紡いできた。
「……遅い、覚醒だな。」
「覚醒って……いや、間違っちゃあいないんだろうけどさ。」
不思議な物言いに少しばかり耐性がついたせいか、相手の言わんとすることが理解できた。
「ま、表現の仕方についてはどうでもいいか。」
鳴海は愉快そうな顔をして肩を竦めると、相手に笑い掛けて口を開く。
「ともかく――お早う、書生くん。」
「……。」
「挨拶、返してくれないんだ?」
「……同じ言の葉を返して、どうなるというのか。」
「一応、それが礼儀なの。それとも、お前さんはあの猫様にもそういう態度をとるのかい?」
「お前とゴウト殿は、対等な存在では、ない。……が、ここは、お前の意思に添おう。同じ言の葉を返せば、いいのか。」
「ん? ああ、そうだな。」
「解した。――……おはよう。」
「……完全に棒読みな台詞からの挨拶、有難う。」
無理矢理に言わせたせいか、冷たい言の葉はいつもより素っ気無く感じた。
何だか妙な気まずさが流れる。鳴海が、壁に凭れさせていた体の重心を、肩の傷に気遣いながら寄せ代えた。その会話の空いた間を縫うように、ライドウが微かに首を傾げて口を開いた。
「……疑点を、問う。」
「ぎてん? あ、何。質問?」
「そうだ。……お前が、先刻に口にした、はんにん……とは、どういう事だ。」
「うん? 何か気に障ったかい。」
「……確かに俺は、出来損ないのものでは、在る。しかし、唐突に愚弄される覚えはない。」
「ぐ、愚弄!? いや……えっ? 何?」
突然放たれたライドウの台詞の意味が飲み込めず、鳴海は首を傾げて答えに淀む。
言い掛かりか、それとも何かしらの誤解をしているのか。
――この場合、後者のような気がする。
「あの、書生くん? ごめん、意味が分かんないんだけど……」
とりあえず、もう一度相手の言葉を聞こうと、鳴海が訊ね返した時だった。
何処かから、別の声が割って入る。
「それは半人前の、はんにん、だろう。」
鳴海の足の間を通り抜けるように、しなやかな黒い塊が台所に入ってきた。
「あ、ゴウト……」
鳴海が思わず名を呼ぶと、ゴウトは一瞥して、ふん、と鼻先で笑った。
どうやら、ライドウの対応に戸惑っているのを愉快がっているらしい。そのまま鳴海を押し退けるようにしてライドウの前に立つと、相手を見上げて話しかけた。
「七綺。鳴海が言っているのは、犯罪者のほうの、”はんにん”だ。」
「……ああ。そう、なのか。」
ゴウトがライドウに説明すれば、それを聞いたライドウは意味を解したのか、こくりと頷いた。
けれども、また何かに思い当たったのか、首を傾げて呟く。
「犯罪者、か。……ならば俺は、何の罪人で在るのだろうか。」
「む……?」
ライドウの呟きを受けて、ゴウトは目をぱちくりとさせた。
そのやりとりを見ていた鳴海が額に手を当て、呻く。
「……いや、もういいから。書生くん、俺の言葉は聞かなかったことにしてくれ。」
少しはこの不可思議さに耐性が付いたと思っていたが、甘かった。
この人形じみた書生の言葉と思考を明確に把握するのは、まだまだ非常に難しい。
(この子はまだ、そう簡単に理解できそうにないな……。)
先程、自分が思った考えを前言撤回し、鳴海は疲れたように肩を落とすのだった。
◇ ◇ ◇
食事を済ませ、後片付けをしにかかるライドウを居間に残して、鳴海は縁側に腰掛けて庭を眺めていた。
部屋を退出する際に、ゴウトに、
「お前も少しは手伝ったらどうだ?」
と、じろりと睨まれたのだが、対して鳴海は自らの肩を指して、
「怪我に響いて悪化すると、困るのはそっちでしょ? 遠慮させてもらうよ。」
笑いながらそう言い返せば、ゴウトは眉根を顰め、呆れた表情で言った。
「……そうだな、むしろ邪魔になるだけだしな。――ああ、そうだ。いっそ、縁側でくたびれた世捨て人の如く日差しでも浴びてればいい。」
「……ほんっとに小憎たらしいね、お前さんは。」
「お前に好かれようとは思ってない。――そら。いいから、とっとと出て行け。邪魔だ。」
「あーハイハイ。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますよ。」
そんな簡単な小競り合いをしてから、鳴海は部屋の外へ出た。
それが、先程のこと。
ぼんやりと庭を見つめながら、鳴海は気怠く息を吐く。
「はぁ――……あぁ。しっかしこの一帯は静かだねえ……。」
呟きながら、胸のポケットから煙草を取り出しては見たものの、何となく吸う気がしない。
結局、火を点けることもしないまま、元へ戻した。
此処の庵は、とにかく他とは違う静けさが漂っている、と鳴海は思った。
鳥などの獣の声どころか、虫の声一つしない。在る音と言えば、たまに緑葉の擦れ合う音か、後はゴウトの話す声、足音くらいで、後は本当に静かな場所だった。
ちなみに鳴海は、ライドウを静物として判断し、生物から除外している。
何せライドウはあまり話さない上に、動作に於いて全く音を立てないからだ。
音も無く、気配もせず、生の存在を感じられない姿を、鳴海はどうしても同じ人間だと思えない。
初めは、特殊な訓練でも受けているのかと思っていた。
あの最悪な出会いの時に見せた行動は、一般人のものではなかったからだ。
見事な太刀筋、俊敏な動きは、訓練されたそれと同じ。
最初は、この一帯を守る、管理者か何かだと――そう、思っていた。
けれど……昨夜のライドウを見て、鳴海の考えは変わった。
死の匂いを纏わり付かせ、人の気配すら断っていたライドウは、そんな生温いものではない気がしたのだ。
何処かで感じたことのある、気配。嫌な雰囲気。死の匂い。
あれに近しい”もの”を、鳴海は知っている。
だが、浮かんだ答えは恐ろしいもので、あまり認めたくは無い代物だった。
冷たい目、戦慄する気配。
想像が当たっているとしたら、あれは――……。
(冗談だろ?! あの子はまだ……子供、なんだぞ。)
外見とは裏腹に、思考が何処か幼い子供を思わせる、アンバランスだがまだ子供の領域でいる青年の姿を思う。
まだ、大人ではない子供。孵る前の雛鳥のような。
しかし、あの立ち振る舞い、あの気配は。
(……俺の考えすぎだ、きっと……)
寒気を喚ぶ考えを振り払うかの如く、鳴海が頭を振った時だった。
「やれやれ。本当に俺の言った通りにしているとはな。」
「え? ……あ。」
呆れた声を受けて、鳴海が思考の渦から抜け出て顔を上げてみれば、直ぐ隣にゴウトが居た。
「あは……何だよ。何時の間に来たんだ、お前さんは。」
苦笑いを浮かべて頭を掻くと、ゴウトがにやりと口端を上げて言い返す。
「別に気配を断って近づいたわけではないのだがな? 余程、忘失していたんだな、鳴海は。」
「はは、まあね。ちょっと考え事を――」
「――探りごとの報告でも纏めていたか?」
「え?」
鳴海が目を丸くして、思わずゴウトを見返す。
そんな鳴海に、ゴウトは笑みを引いて言った。
「そろそろ帰れ、鳴海。もう此処まででいいだろう。」
「な、何さ急に――……」
「狗の仕事を許せるのは此処までだ、と言っているのだ」
「……。」
鳴海をひたと見据えて話すゴウトの瞳は、冷たく輝いていた。
まるで敵でも見るかのように。
穏やかな光景、その一角だけが。
他と違う空気を、作り出す。