刹那の宵、瞬きの暁
20.憐鎖の檻
接触した箇所だけが、妙な存在感を現していた。
冷たい氷にでも触れているように、掌が痺れる。
ひりつく様な、感覚。
軽い火傷に似た、疼痛。
眩暈のする幻惑の、直視。
深い色をした漆黒の瞳が、じっと此方を見つめている。強い毒の魔性の瞳。
そのままで居れば、きっと瞳の闇に引き摺りこまれて正気を失うだろう。
――いいや、もう既に……自分は、正気でないのかもしれない。
鳴海は自嘲した笑みを口元に浮かべ、相手を見ながら言う。
「なあ……書生くん? ゴウトに何もしなければ、お前さんは何もしないんだよな?」
腕を掴んだまま再度、同じことを問えば。
「ああ。……それが、彼の方と交わした誓約だ。」
ライドウ静かに言い、こくりと頷いた。それはまるで、親の躾を守る小さな子供。
無機質で恐ろしい、と感じていた人形が、今はそんな幼子に見えるなんて。
人の順応性は大したものだと思いながら、鳴海は言葉を繋ぐ。
「本当に、何もしないんだ?」
「……。」
念を押すように訊ねれば、ライドウが首を傾げて沈黙した。
何度同じ事を言えば、気が済むのか――そう視線だけで返された答えは、鳴海にとっては充分なものではないらしい。
鳴海は相手の口から返事を聞きたいようで、冷たい凝視から目を逸らさずに、問い掛ける。
「お前さんは、自分の身に何が起きても――何があっても、本当に何もしないのか? ゴウトが無事であれば、それでいいと?」
「――……。」
同じ言葉の繰り返しに難儀したのか、ライドウが溜め息のような息を吐き、口を開いた。
「主従は、絶対の理……それから逃れることは、許されず……また、禁忌である。故に……俺は理に従い、約を違えるようなことは、しない。……絶対に。」
「ふ……ん? じゃあ、さ――」
鳴海はライドウの手を引っ張ると、相手の背後に広がる闇へと引き込んだ。
常に音を立てないライドウの動作のせいか、大きな音は立たなかった。
だからそれに――ゴウトが、気づくこともなく。
◇ ◇ ◇
タン、と襖を閉めれば、それだけで簡単な密室が出来上がった。
薄暗い室内には、押し倒されたものと、それを見下ろすように笑う男の人影。
男が――鳴海が笑みを深め、感嘆した声を上げる。
「へぇ……ほんとに抵抗しないんだね。それとも――……これから何をされるのか、分かってすらいないのかな?」
薄闇の室内、静謐の中。
獣が爪を獲物の肩に食い込ませて、哂う。
しかしそんな鳴海からの嘲弄を受けても、ライドウが表情を崩すことはない。
ただ、ひたと鳴海を見据えて言う。
「お前の思考は、理解出来ない。……邪魔、だ。退け。」
薄い闇の中ですら煌く、深淵な漆黒の瞳が威嚇するように光った。
鳴海の下から逃れ出ようと、ライドウが身を捻じる。
無理矢理の抱擁から逃れる猫のようだ、と感じ、思わず微苦笑すれば、ライドウが鳴海に視線を留めて口を開く。
「……何故、笑う。」
「ん? あはは、いや別に。見事なまでに忠実な子だなぁ、って思ってさ。」
「俺の発問の仕方が、悪いのか……お前の言の葉は、明確な答えになっていない。」
「あっは。明らかにして欲しいのは、むしろお前さんのほうだよ。――君は、謎が多すぎる。」
「意味が……分からない。」
無表情のまま、ライドウが視線を逸らした。まるで、鳴海に対し呆れたかのように。
そして、閉じられた襖へと目を向けて言う。
「とかく……これ以上、お前の言動を理解する気は無い。……用があるなら、早く済ませろ。俺は、ゴウト殿の元へ行かなくてはならない。」
ライドウの言葉に、肩を押し掴んでいた鳴海の力が若干緩まった。
困惑した顔をした鳴海が、がしがしと頭を掻きながら言い返す。
「無抵抗なのは嬉しいんだけどさ……何か、こう……張り合いがなくてつまんないな。」
身勝手すぎる台詞を吐いて、鳴海が苦笑した。
「ねえ。本当に、何も感じてないの? 本当に、何とも思わない?」
「お前の示すものが何か、分からない。何を感度し、何を思想しろと言うのか。」
「んー……じゃあさ――こういうことをしても、その鉄面皮は健在かな?」
そう言うと、鳴海はライドウの襟元に手を掛けるなり、服を引き裂いた。
布を裂いたそれは、まるで悲鳴を上げたかのように嫌な音を上げた。
ボタンが幾つか弾けて、飛んでいく。
「……。」
ころころころ……と、部屋の隅にボタンが転がっていくのを視線で追いながら、ライドウが言った。
「ものを壊すのは、容易いことだが……修復は、そうでない。解して、いるのか。」
どうやら、ライドウは破けた服のことについて言っているらしい。
鳴海が機嫌のいい猫のように目を細め、笑う。
「服の心配だけ、ですか……あっは。ほーんとに君は面白いねぇ。」
身を屈めて顔を近づけるも、ライドウはそれでも、鳴海を見ない。
逸らされたままの視線。虚空の瞳。
それが、何だか焦れったくて。
鳴海はライドウの顎に手を掛けると、強引に自分の方へ向かせた。
漆黒の瞳を覗き込みながら、鳴海がライドウに囁きかける。
「服よりも、自分の身を心配しなよ。本当に……食べちゃうよ?」
「……。」
鳴海が耳元で囁き、ライドウの首筋を撫でる。
それは身体の輪郭に沿いながら、徐々に下へと流れていく。
肌の質感を確かめるように動く手が、そうして下肢へと伸びた時だった。
ライドウが、そっ……と。
鳴海の手の動きから、目を背けた。
何かに怯えて、逃げる……ように。
そして小さな吐息と共に、言葉を吐き出す。
「檻の中も、外も……俺の世界は結局……全て、同一か。」
そうして瞳を閉じたのは、何の為だろう。
呟かれた言の葉の意味は、一体……?
ライドウの瞳に、一瞬だけ何か、感情の光が宿った気がした。
鳴海が唖然とした顔をして、ライドウから身体を離す。
身裡に沸いた欲望は、今のですっかり消えてしまった。
静かな言葉。
冷たい声。
凍りついた表情はいつものままで、何の抑揚も無く放たれた言葉も無機質なままであったが、何故かそれらを悲しい声だと感じたのはただの錯覚だろうか。
「……書生くん?」
鳴海が戸惑いの視線をライドウに注ぎ、沈黙する。
身の下に横たわる目を閉じた人形は、しなやかな姿態を投げ出して何処までも無防備なまま。
裂かれた服の間から覗く肌は、恐ろしく滑らかで白い陶器のよう。
けれど――今の言葉が気になって、それ以上の行為に及べない。
その時、空いた距離に風の流れを感じたライドウが瞳を開けた。
行動を起こさない鳴海を見て不審に思ったのか、首を傾げて言う。
「……どうした。食べるのだろう、俺を。」
向けられた視線は何の色も宿してはおらず、冷たさだけで鳴海を射抜く。
見間違いだったのだろうか?
呟いた声に、眼差しに、切ないものが混じっているように思えたのも、みんな――……幻?
思い悩む鳴海を、ライドウは子供のようにまじまじと見つめて口を開く。
「食べない、のか。」
これではまるで、純真な子供に悪戯を仕掛けたようなものだ。
鳴海はライドウの上から退くと、情けない微笑を浮かべて言い返す。
「冗談、だよ。あはは……本気にしたかい? 今のは全部、冗談。悪ふざけでした。」
だがライドウは鳴海を凝視したまま、目を逸らさない。
まるで心の中を通し見るようなライドウの視線を気まずく感じたのか、鳴海は先に相手から目を逸らすと、くるりと背を向けて言う。
「ははっ……お前さんが、あんまりにも無反応だからさ。だから、どこかで表情が崩れないかなぁー……とか何とか思っちゃったわけで……。」
胡坐をかいて背を丸めた姿勢から、鳴海が言葉を繋ぐ。
「だから、つい……ね。調子に乗っちゃって。あははっ。」
よくもまあ、こうも直ぐに偽りの言葉を並べ立てれるもんだ、と自身で呆れながら、鳴海は喋る。
「あはは……ごめんね、悪い大人で。あーでも、斬らないでね。反省してるんだし、うん。」
相手からの返事がない為に、それはほとんど独り言になっていた。
ライドウの方を、振り向けない。
強い罪悪感が、身裡に沸いて――……動けない。
「ほんと、ごめん……ね。」
もう一度小さな声で謝罪の言葉を呟けば、背後でライドウが動く気配がした。
ああ、このまま自分は斬られるのか……と思い、鳴海は目を閉じる。
だが、想像していた斬撃は無く、そのままで。
「……? 書生くん?」
振り返れば、相手は身を起こして周囲に散らばったボタンを一つ一つ拾い上げているところだった。
「何してるんだ?」
思わずそんな事を問えば、ライドウは畳に落としていた視線を鳴海へと向け、言う。
「……お前によって散逸したものを、拾い集めている。……早く修繕しなければ、彼の方からの咎めを受けてしまうかもしれない。」
畳の四方に散らばったボタンを、無表情のままに――けれど、必死に探すライドウを見つめながら、鳴海は深い溜め息を吐くと、腰を浮かせて言った。
「手伝うよ、書生くん。……俺にも一応の責任があるんだし。」
「一応……ではない。確実に、お前が起因して在る事象、だ」
「ははっ……そう、だよねぇ。」
冷たくぴしゃりと言われ、鳴海は情けない笑顔で肩を竦めると、そうして人形と二人、畳の上を這いずるのだった。
おはじきを探す、子供のように。
必死になって。
黒猫に見つかる前に、そそくさと。