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刹那の宵、瞬きの暁

21.平伏迷子



「七綺、帰ったぞ。」

ゴウトが外出先から帰宅したのは、日が傾き空が鮮やかな夕焼け色に染まった頃。
いつもならば、もう既にライドウが戸口のところでゴウトを待っている筈なのだが、その日は戸口どころか玄関先に人影が見当たらなかった。

「――……七綺? 七綺、何処に居る?」
迎えが無いことを怪訝に思い、ゴウトが庭先へと回り込めば、縁側に腰掛ける人影が、一つ。
相手はゴウトの声を聞きつけたようで、顔を上げると、片手を振って笑いかける。
「や。お帰り、ゴウト。」
だが、そんな相手の――鳴海の出迎えを受けて、ゴウトは顰め面になった。
「……お前からの出迎えなど要らん。七綺は何処だ?」
唸るゴウトを見て、鳴海が肩を竦めて言い返す。
「そう険悪になりなさんな。あの子なら、今ちょっと取り込み中。」
「取り込み中? どういうことだ。」
「服を繕ってるの。書生くんは、縫い縫い作業中~。」
あはは、と言っておどける鳴海に、ゴウトの表情がますます険悪めいたものになっていく。
何故なら、ライドウが服を繕う理由が思い当たらないからだ。

服が破けるような大きな動作を、ライドウはしない。
それに支給された衣装は全てが新しく、生地もまだ強度を保っている。
ゴウトは一瞬、鳴海の傷を見て、ライドウが繕っているのは彼の服ではないかと思った。
が、よくよく考えてみれば、鳴海の裂けた服は確かあの日――ライドウが鳴海に斬りかかった日の夜に、ライドウ自身が直ぐに縫い直した筈だった。

「……七綺に何かしたのか、鳴海。」
きりりと目を吊り上げて、ゴウトが唸る。
鳴海はというと、庭先に視線を向けたまま、曖昧に笑って答えようとしない。
「お前、まさか――……」
ゴウトの唸り声に強い怒りが混じり、太くなる。毛を逆立て、今にも飛び掛らんばかりの状態だ。
床に立てられた爪はライドウの手入れの甲斐もあってか、綺麗な鋭角の三日月型である。
あれは、きっと、痛い。

「ゴウト、落ち着けって……ちょっと……」
さすがに鳴海が身動ぎし、腰を浮かせた時だった。
す……――と、空気に冷たい対流が起き、室内の温度が下がるような不思議な気配がした。



◇  ◇  ◇



奥の襖が音も無く開かれ、中からライドウが姿を見せた。
右手に裁縫道具の小箱、左手には畳んだ白いシャツを持っている。ライドウはゴウトを見ると、すぐさま足元にそれらを置き、足早に近づいてきた。
そして足音無く畳の上を滑るようにしてゴウトの前までやって来ると、片膝を付くなり従属の姿勢をとって口を開く。
「……貴方の出迎えに、赴かず……至極、すまないことをした。」
抑揚の無い静かな声は、見事に鎮静剤の役目を果たした。
怒りが冷めたのかゴウトが一度ぶるっと身を振るい、逆立った毛並みを治めてから言う。
「いや、別に構わんさ。謝らんでいい。それより、鳴海から取り込み中だと……何やら裁縫をしていると聞いた。何があった?」
問われたライドウは、一度だけ鳴海にすいと視線を流した。ぎくり、とする鳴海。
だがライドウは視線をゴウトへと戻すと、ただ一言。

「障害物に、身を引っ掛けた。……それだけだ。」
「書生くん……」
――見逃してくれた……いや、庇ってくれたというのか?
鳴海は驚きのあまり目を丸くする。
だがしかし……それは、鳴海の願望に過ぎなかったようだ。
ライドウはやはり、何処までもゴウトの存在だけが重要らしい。
姿勢を整え、ゴウトに向き直り言葉を継ぐ。

「ゴウト殿……そろそろ、夕餉の支度に取り掛かろうと思う。何か、ご希望はあるだろうか。」
「ん? ああ、いや……特には無い。いつもどおりで構わないぞ。」
「承知した。」
そう言うと、こくりと頷いて立ち上がり、そのまま来た時と同じく静かに部屋を出て行こうとするので、寸でのところで鳴海が呼び止めた。
「待った、書生くん! ……俺には何も聞いてくれないの?」
すればライドウが肩越しに鳴海を一瞥して、口を開く。

「お前は……帰るのだろう。……食べてから、行くのか。」
蔑視の視線だと窺えるのは気のせい……だろうか。
笑みを強張らせた鳴海が、眉を情けなく下げて言い返す。
「あっは……そうだね……流石に、空きっ腹で山を下るのは辛いと思うんだ。」
「俺の知るところでは、ない。それに……辛いだけで、死に至るほどでは、ないだろう。」
冷たい声が形なす言葉は、何処までも冷たく心に痛い。
このままでは、本当に空腹状態で森の中を歩かされる。
あの長く暗く辛い三重苦の迷路の中を。
それも、今から――日が傾き始めた、今時分から。

冗談じゃない!
鳴海は、がばりと畳に両手を付くと、そのまま前に上体を折り曲げて叫んだ。

「そんなこと言わずにさ、作ってよ……というか、あの、ほんと……御飯を食べさせて下さい! それと、御免なさい――すみませんでした!」
叫びの最後に、もう一度同じ詫び言を付け足せば、ライドウが溜め息に似た吐息を吐いて、ゴウトを見遣った。
そして首を僅かに傾けて、訊ねる。
「如何する……ゴウト殿。」
「お、俺か!?」
鳴海の急な土下座に瞠目していたゴウトは、ライドウに話の水先を向けられて、暫し沈黙する。
何故、鳴海が七綺に謝っているんだ?
それに、気のせいか――七綺の機嫌が悪いような?

「……ゴウト殿。この人間の夕餉も、用意した方が良いのか。」
「……ん? ああ……そうだな。」
再度、名を呼ばれたところでゴウトが我に返り、ライドウを顧みて答えを返す。
「何か知らんが、鳴海も随分と反省しているようだから、作ってやれ。」
「……承知した。」
ライドウはこくりと頷くと、畳の上に置いていた裁縫箱と服とを持って部屋から出て行った。

そうして、黒い影が去った後の、部屋の中には。
べたりと畳に上体を付けて伏しているいい歳をした大人と、それを怪訝そうに見つめる黒猫が、それぞれ一人と一匹。