刹那の宵、瞬きの暁
22.還り狗、行き途
さくさく、さくさく、と。
来た時と同じような音を立てながら、鳴海は山道を歩いていた。
行きと同じ光景、同じ道のり。月照らす、薄暗い獣道。
だが今度は一人ではない。
ちらりと前方に目を向ければ、少し先に位置した人影が、全く音を立てずに歩いている。
足音一つ、声一つ、気配すら無くして歩くそれは、鳴海の背筋を凍らせるには充分でいた。
その影は闇夜よりも尚深く、纏う気配は夜の帳よりも静寂。
全く見事な静物、けれどそれは――彼は人形ではなく、れっきとした人なのだから驚かされる。
長い長い獣道。
光あるものといえば、空に浮かぶ朧月か、人形の――書生の持つ小さな行灯だけ。
無事に森を抜けられるのは、嬉しい。
人の灯火がある街へ帰り行けるのは、嬉しい。
けれど、けれど。
少し寂しい気分になるのは――どうしてだろう。
◇ ◇ ◇
どれくらい、こうして黙々と道を歩いただろうか。空はまだ相変わらず薄暗いままだが、少しずつ闇の色が和らいできている。ゆっくりとだが、朝が近づいてきているのだろう。
けれど、それ程の時間が経過しながらも、この沈黙状態が明ける気配は無い。
そんな中で、相手は無言。
ずっと、無言。
鳴海の足音だけが唯一の音だという、何とも切ない状況に辟易したのか、鳴海が大きく溜め息を吐いて沈黙の口火を切った。
「あー……あの、さぁ。書生くん。」
さく、さく、さく。
鳴海の声に重なるのは、乾いた草を踏みしめる音。
「……何だ。」
対し、返された声は冷たく、重なる音が何もない。
周囲の静けさと相まってか、その低い声は艶やかな絹のように滑らかで、鳴海の肺腑に染み通る。
夜の空気に負けず劣らぬ、冷気のような声。人工物の灯と人が集う街の喧騒に慣れている鳴海に、この静けさと冷たさは少し辛かった。
前方を歩く書生……ライドウを見つめながら、鳴海は話し掛ける。
「何だ、っていうかさ……その……会話、しない?」
と、商談でも持ちかけるように問うてみるも。
「……お前と向かい合って話すことなど、何もない。」
振り向きもせずに、ライドウが即答した。それも、斬り捨てるような拒絶の答えで以って。
「冷たすぎて泣けてくるな、その台詞。」
鳴海がやれやれと首を振り、そして途方に暮れた目をして空を見上げた。
(あーあ。つまんないの。折角こうして二人きりになったっていうのに。)
ライドウの無音歩行に対する当てつけのように、ざくざくざくと、わざと大きな音を立てて歩きながら、鳴海は一人、心中でごちていた。
(しかし本当に音を立てないな、この子。気配の消し方も然ることながら、凄いというか何と言うか。)
綺麗で艶やかな人形、冷たい美貌を持った怜悧な人形は、けれどこれでも一応、人間なのだという。
声に抑揚が無く、無表情で、本当に人形のような風体で在るくせに、ヒトなのだ。
人に成りきれていない、何とも不思議な青年。
猫にしか心を寄せていない、変な子供。
そんなおかしな人形じみた人間に、自分は一度、殺されかけたのだから堪らない。
(平和ボケでもして勘が鈍ったか、鳴海?)
自身に問い掛けながら、鳴海は夜空に瞬く星を目で追う。
闇の中で煌く、星の砂粒。空に掛かるは猫の爪を模ったような細い三日月。
猫の、ような――……。
そして。
おかしな、といえば……もう一つ。
(ゴウトって言ったっけ? ……あれも変な猫だったよな……)
人語を解し操る、緑の瞳が印象的な黒猫を思い出す。
猫の割に説教好きで、いやに人間臭いところがある不思議な動物。
美貌の人形の保護者的存在に見えたが、実際のところはどうなのだろう?
詳細な関係は、結局把握できないまま。
ただ、目の前を歩くこの青年がひどく敬っている存在である……というのが、分かったくらいか。
けれど、彼らのことが公に出ることは無い。鳴海は、報告書を偽造することにしたのだから。
それに嘘偽り無くまともに書いたところで、面白おかしい童話めいたものになるだけだろう。
……と、いうか。
実際に書き上げたら、本当に御伽噺のような代物になってしまったのだ。
森の奥の庵で猫と静かに共存している、美貌の人形の話。――などと、そのように愉快な御伽噺を提出した日には、自身の評価に傷が付きかねない。
いいや最悪、もう仕事は回ってこないだろう。社会というものは、とりわけ厳しいものだから。
故に、この一件は捏造決定。変な評判をつけられるよりマシだ。
そんな御伽噺の筆記は、手持ちの手帳用紙を何枚か消費したところで力尽き、後は帰ってから纏め上げる事になった。
ともかく、色々あったが、もうこれまでなのだ。もう此処までなのだ。
この人形めいた青年とも、あの黒猫とも会えなくなるのだ。
この道を下れば。
此処の先を行けば、もう……それきり。
「つまんないなぁ――……」
思わず声に出して呟いたところで、不意に鳴海が仰いでいた夜空が大きく歪んだ。
「う、わ――っ……!?」
鳴海は、空を見ながら歩いていた。
星を見つめながら、考え事をしていた。
獣道は直線で、特に目立つような障害物は無く、別に空を見ながら歩いても平気だろうと思っていた。
だから、足元に注意を払っていなかったのだ。
――小ぶりの石の存在に気づいたのは、足を見事に引っ掛けてから。
視界が、ゆっくりと傾ぐ。
星がぐにゃりと曲がり、流星のように大きく伸びる。
地面に後頭部をぶつけ、無様に痛みで身体を丸める自身の姿が脳裏に浮かんだ。
が、けれど。
想像していた衝撃も痛みも無く、視界の湾曲も途中で止まった。
「……あれ。」
砂粒みたいに小さかった星が、大きな黒曜石へと変化していた。
深い闇色の星――いや、これは……ヒトの、瞳。
「……あ。書生くん。」
ライドウが、背後に倒れかけた鳴海の身体を支えて、転倒を阻止していた。
細身の体躯の割に意外と力があるのだな、と腰元に当てられている冷たい手の感触を感じながら、ぼんやりとライドウの瞳を見つめていると、相手が首を傾げて口を開いた。
「お前は……上を見ながら歩くのが、常なのか。」
「え? いや……あはは。そんな、まさか。あ、俺が転ぶの止めてくれて、ありがとう。」
「……礼を言われることは、していない。」
言うなり、ライドウは鳴海からスッと離れると、行灯を持ち直してまた歩き出そうとした。
素っ気無く置かれはじめる距離を見て、鳴海が慌ててライドウの袖を掴んで叫ぶ。
「待った! 待ってよ書生くん! 距離、空けないで……先に行かないでくれ。」
鳴海に袖を引かれたせいで動きを止められたライドウが、肩越しに鳴海を一瞥した。
「……お前の言の葉は……――お前は、奇妙なものだ。」
「奇妙なのはお互い様だろ。……それに、今の俺の言葉ってそんなにおかしかったかい?」
「……俺は、案内役としてお前の先を歩いているに過ぎない。それなのに、お前は先に行くな、と言う。これは、奇妙なことではないのか。」
首を傾げて話すライドウに、鳴海が苦笑して言い返す。
「俺は、君のように夜目が利くほうじゃない。それに、こんな暗い道を平気でスタスタ歩くのには慣れてないんだよ。」
「……この灯りでは、足りないのか。」
鳴海の目の前で、ライドウが首を傾げて行灯を持ち上げてみせた。
金赤の光が揺れ、二人を夜の中に浮き上がらせる。
灯りが赤寄りの色をしているせいか、硬質なライドウの顔が柔らかく見えて。
鳴海の心音が、少し高くなる。
「人は、闇に対し畏怖の念を抱くと……聞いたことが、ある。」
静かな声が言の葉を紡ぎ、間近で鳴る。
それに併せて、鳴海の心音も強く鳴る。
「だが……人よ。いたずらに、畏懼することなかれ。」
「え? ……あ――」
戸惑う鳴海を尻目に、ライドウは、ずいと顔を近づけて更に言葉を繋ぐ。
「俺が就いて在る限り――闇に食わせたりは、しない。」
大きな黒瞳が、鳴海を真正面から捉える。
ライドウの言葉は相変わらず謎めきすぎていて、鳴海には良く分からない。
「あの、書生くん……」
それは俺を守ってくれるっていう意味だと解釈していいのかな?――そう聞き返そうとしたが、近距離からの美貌の直視によって麻痺してしまい、言葉が出てこない。
そんな鳴海の強張りを、どう思ったのか。
ライドウはまた鳴海から距離を空けると、相手に向けて片手を揚げた。
「な、なに?」
鳴海が目を丸くしながら揚げられた手に目を遣れば、ライドウがその姿勢のまま口を開く。
「……これ、を。」
「これって……行灯? 俺に? 持てってこと?」
「そうだ。」
こくり、と頷くライドウ。鳴海が眉間に皺を寄せ、頭を掻いて言う。
「えー……っと。もしかして、君。俺が、夜道を怖がってるとか思ってる?」
「……違うのか。」
「……大いに違います。」
いい年をした大の大人が子供に心配されているという事に気づき、鳴海は額を押さえると大きく溜め息を吐いた。
けれど、その口端がうっすらと嬉しそうに持ち上がっていたことを。
ライドウも、そして鳴海自身すらも気づいていなかった。