刹那の宵、瞬きの暁
25.檻籠の日々の終息
人里から覆い隠された、昏さが目立つ森の奥。
迷い児と称した侵入者が、本当に迷い込んでしまった先に見つけたのは、静謐な檻に似た庵。
そこに居たのは、人の言語を解し操る不思議な黒猫。
それと、その猫以上に謎めき、冷たくも美しい美貌を持つ人形じみた青年が、それぞれ一人と一匹。
文章として書き出せば、それは途端に非現実的な御伽噺になる代物。
非現実、だが――事実としては、現実。
鳴海はこの件を他言無用とし、そして決して忘れないでおこう、と山道を駆け下りながら思った。
駆け下り、少ししたところで背後を振り返ってみたが、視線の先に人影は見受けられなかった。
きっと、早々に帰ってしまったのだろう。あの檻に。
猫が待つ庵に、足早に。
自分の存在は、あの人形に――ライドウに、何も残さなかったのだろうか。
「名前だけでも覚えてて欲しいんだけど……な。」
うっすらと白み始めた――いいや、それはもう森を抜けた途端にすっかり晴れた朝に成り代わっていた――空を見上げ、鳴海がひそりと願いを一つ、呟く。
あの人形はきっと、記憶に留めてはくれないだろう。
ならば、せめて……此方が覚えておこう。可能な限り、ずっと。
そんな事を考えながら、鳴海は街へ……人気のある帝都へと帰り戻る。
――尤も。
その記憶を忘却しないようとする努力が、早々に無駄になることを鳴海は知らない。
隠者の森での記憶が、一層鮮やかに塗り替えられるものが、近く鳴海の身に起こる事になるのを。
鳴海どころか、それはきっと彼ら――ライドウとゴウトも、知らないことだろう。
◇ ◇ ◇
微かな風のさざめきしか起こらない森の中、影が音もなく滑るような足取りで森の中を行く。
影は――ライドウは、庵に戻る道を歩きながら一人考えていた。
あの人間は最初からおかしな者だと思ったが、その相手から、おかしいのは此方だと指摘された。
あれが示す事柄は、どういうことだろう。人間の名は……何と言ってただろう。
確か……なるみ、だったか。
人界からの狗。何処の所属かは知れないが。
「……。」
鳴海の名前を思考に浮かべた途端、ふとライドウが何かを思い出したかのように自身の唇に触れた。
その箇所は、鳴海が口付けたところ。
刹那の熱が残したその跡を辿るように指先を滑らせながら、ライドウは考える。
そういえば……奇妙な事に、あの人間は、あの時にとった行動を”土産”だと言った。
あれは――あの行為は、檻籠の中のものだけだと……そう認識していたのだが、違うものであったのだろうか。
浮かび上がった思考に首を傾げながらも、ライドウは歩く速度を落とさず、ゴウトが居る庵への帰り道を辿っていく。
今頃。
ゴウト殿は、どうしているだろう。
ああ、彼の方の貴重な時間が失われていく。
ああ、何て勿体無いこと。
また、俺のせいで。
俺などの……ために。
ゴウトを待たせてはならない、とでも思ったのか、ライドウの歩く速度がそこで急激に上がった。
そうして完全な無音となった一個の闇の塊が、静かな森の中を走って行く。
疾駆しながら、ライドウはまた自身の唇に指先を滑らせ、考えた。
土産なら――……ゴウト殿にも分けたほうがいいのだろう、と。
ライドウはただひたすら速度を上げ、ゴウトの元へと駆けていく。
この土産に対して一番適切な分割方法は何であるのだろうか……と。
そんな、毎度見事に斜め上へずれた方向の考えを巡らせながら。
◇ ◇ ◇
「ん? ああ、帰ったか七綺。」
「……ゴウト殿。」
ゴウトは玄関口で身を丸めて待っていたらしく、ライドウを見ると直ぐに起き上がり出迎えの言葉を口にした。だが、何故かライドウはゴウトに視線を当てたまま動かない。
てっきり庵の縁側にいるものだとばかり思っていたゴウトが、自分を出迎えるために待っていてくれたというのに驚いたのだろう。
そうして、唖然としている(とはいっても全くの無表情だから、本当にその状態であるのかは分からない)ライドウに、ゴウトが苦笑を浮かべて話し掛ける。
「ん? 何だ。俺がお前を出迎えるのが、そんなに不思議なことか?」
「ああ……否――……そうでは、ない。」
ライドウは硬化を解くと、緩やかに首を振ってみせ、それからゆっくりとした動作でゴウトに近づいた。
そして静かに片膝をつくと、日頃よく見せるあの恭順の姿勢をとり、言い繋ぐ。
「……貴方は本当に、見事な存在だ。俺には至極、勿体無いほどに……。」
「こらこら、こんなことぐらいでそう畏まるな! いや、それよりも、お前は俺を過大評価しすぎだ。いいから頭を上げろ、立つんだ七綺!」
ゴウトが照れながらライドウを叱責すると、不意にライドウが顔を上げた。
「……ゴウト殿。」
「うん? 何だ、なな、……――っ!?」
ゴウトが問い掛けは、ライドウの起こした行動によって断たれた。
ライドウは、流れるような仕草でゴウトの方へ屈みこむと、その顎にそっと手を添えて。
無言のまま、静かに――ゴウトの頬に口付けた。
ゴウトが大きな目を更に大きく見開き、息を飲んで絶句した。
目を丸く、どころかそれこそ今にも零れ落ちんばかりに瞠目したゴウトが、はっと我に返ったのはライドウが手を離してから。
ふわり、と――ライドウが離れた際に風の対流が起こり、ゴウトのヒゲをくすぐった。
その感覚を受けたゴウトが覚醒し、叫ぶ。
「な、ななななな……何の真似だ七綺っ!」
人であれば恐らくは真っ赤になっているであろう形相をしたゴウトが、酷く動揺した声音でライドウに詰め寄ると、相手は胸に片手を当て、恭しく頭を下げた。
「……あの人間からの、土産、というものを……貴方にも、と思った。」
「み、土産だと!? ……っ、鳴海め、七綺の奴に何を――……!」
「……どうかしたのか、ゴウト殿。俺はまた、何か愚かしい間違いを……」
「どっ……どうもこうもあるか! 何だ、何をされたんだ七綺! 他には何もされなかったか!? 大丈夫なのか!?」
その驚愕と動揺が理解出来ないライドウは、詰め寄るゴウトにただ静かな眼差しを向けて。
「土産の配分が……不足していたか。……もう少し受け取られるか、ゴウト殿。」
「ま、まま待てっ!」
そんな事を言って、ライドウがまた屈みこんで来たものだから、ゴウトはぶわりと毛を逆立て、後ろへ大きく跳び退った。そしてぶるぶると首を振り、叫ぶ。
「もういい、土産はもういいんだ! この話は終わりだ、七綺!」
そう言い返し、一先ず庵の中へ戻る事にした。
逃げ込むように、脱兎の如く。
◇ ◇ ◇
「ああ、そうだ。七綺、この檻籠の生活も、もう直ぐ終息するぞ。」
乱れた毛並みを舐め整えながら、不意にゴウトがそんな事を言った。
縁側、ゴウトのその隣で刀を研いでいたライドウが顔を上げ、視線を向ける。
「それは……俺が、愚鈍なもので、あるから……か。」
「うん? どういうことだ。」
「……終息。それ即ち……葛葉の交代があるからでは、無いのかと。」
ライドウが目を伏せるのを見て、ゴウトが笑う。
「違う違う。こら、何を誤解してるんだ。――あのな、七綺。修業過程が終わるのだ。今度からようやく、葛葉としての役目を果たしに向かうんだ。」
ライドウが視線を上げ、問う。
「それは……何処へ。」
「聞かずとも分かっているだろう? ――帝都だよ。」
「……帝、都。」
「ああ。そうだ……それに関し、お前の身分も偽り、住む場所も決めておいた。――とはいえ、この辺りに俺の決定権はないのだがな。……ともかく、そういうことだから帝都に向かう準備をしておけよ。」
「貴方も……来られるのであろうか。」
「当たり前だ。修業過程が終了したとはいえ、お前はまだまだ雛鳥。目付け役の俺が、きちっと最後まで面倒を見てやるさ。」
「……そうか。」
「何か不満か、七綺?」
「否。」
ライドウがゴウトに向き直り、そして首を僅かに傾いで。
「貴方の側に居られる、ということが終わらずに済み、良かったと……思う。」
浮かべる表情は、あの絶佳の微笑。
ゴウトが一瞬目を丸くし、それから――破顔する。
「ははっ! 嬉しいことを言ってくれる。全く……お前のような葛葉は初めてだよ。」
「……不快、だろうか。」
「まさか。」
恐ろしいほどに困惑させてくるが、けれど――それ故に、深く愛しさが募るよ、お前には。
「そうだ七綺。身を寄せる場所についての説明が、まだだったな。今度の住処は事務社だ。」
「じむ……しゃ。」
「ああ、何やら俺たち向けの事件を取り扱うところらしい。……まあ、それは良いんだが……」
そこで表情を曇らせ、言い淀むゴウト。
ライドウが、くっと首を傾げて言う。
「……如何したか、ゴウト殿。」
「ん、ああ……大したことではないんだと……思うんだが――いや、しかし……。まさかな……?」
「大したことであるように、見受けられるが。」
「む――……いや、俺の思い過ごしだと思う。……だが、そう多くある名でも無いような……」
否定と肯定を繰り返し、ぶつぶつと一人ごちるゴウト。
「ゴウト殿。どういった名前が、貴方をそのように悩ませている。差し障りが無ければ……明かして欲しい。」
「あ、ああ……そうだな。今度向かうその場所、身寄り先なんだが――」
ライドウの言葉に、眉間に皺を寄せたゴウトが唸るように言った。
「……鳴海探偵事務社、と言うところらしい……。」
「……なるみ……。」
気のせいだ。きっと、他人の空似のようなものだろう。
そう何度も心の中で否定するゴウトだったが、反面、答えはもう分かっている気がしていた。
否定しても、この嫌な予感からは逃れられないのだと。
「七綺……頑張ろうな。」
「何を見張ると。」
「その”眼張る”じゃない……ああ、もういい。」
「違ったか……愚鈍ですまない、ゴウト殿。」
「いいんだ、七綺。お前のことは俺に任せろ。」
疲れた溜め息を吐いて、ゴウトが空を仰いだ。
檻から出された人形が、黒猫に連れられて帝都へ向かう。
それらの先に敷かれた運命に、今はまだ、誰も気づかない。
何処かで、かきりと。
運命の歯車が噛み合う音がした。