黒猫、萌ゑしは書生
03.萌芽
萌え育ちたる新芽の名は
「うむ、我ながら見事な達筆。惚れ惚れする。」
「……っ!?」
今回のゴウトは、何度俺の心を射殺せば気が済むのだろう。口に小筆を咥え、小さな手帳に器用に書き付けるゴウトの姿を目にしつつ、ライドウは心の中でそんな事を呟いた。
ゴウトの猫らしからぬ行動を見る度に、これまで何度くらくらしたことだろう。
くらくらすると言っても、それは決して悪い方向ではなく、むしろ――確実な、魅了。
しかし、このままでは怒られてしまう。
”葛葉たる者、そんな柔弱な顔をするな”と叱られてしまう。
ライドウは口元を押さえると、己の精神と呼吸を整えようとした。
(平静になれ、葛葉ライドウ。……誉れ高き継名を汚すな、十四代目。)
そうしてライドウが懸命になって立ち直ろうとしている内に、その努力を知らぬゴウトが目の先で何やらモゾモゾと身動ぎしだした。
耳の後ろでも痒いのだろうか?――と思ってライドウが足を踏み出した時に、それは起こった。ゴウトは首の後ろを口で突付くと、そこから何かを取り出したのだ。
それを見たライドウの目が、大きく見開かれる。
(くっ、首輪から手帳!? ――それに小筆まで!?)
ゴウトは字が書けたのか、とかその筆帳一式などは何処で仕立てたものなのか、とか。
そういった様々な疑問が矢継ぎ早にライドウの脳裏を過ぎっていったが、こうまで徹底していると選択する余裕が無い。
自らの手帳(言動から察するに、どうやらかなり年季が入った代物らしい)に、調べた物事聞いた情報などを書き記していくゴウト。しかもそれらの全ては、書生の為の――ライドウの行う調査に役立てようとせんが為の行為だというから、頭が下がる。
いいや、この場合は正しく”好意”だろう。
この黒猫は前回、ねこじゃらしを使用することによって現れた猫の本性でもって、見事こちらの心を陥落させてくれたが、今回の趣旨は更に上を行くものであるらしい。
「――ふむ、これでいい。さあ七綺、捜査の続きを――……? どうした? 大丈夫か?」
情報を書きとめ終えたゴウトは、顔を上げたところで目の前に佇んでいる書生の様子がおかしいことに漸く気づいた。
帽子の下、庇の影から覗く顔に赤みが差している。僅かに震えている肩も、かなり気になるところ。
具合でも悪いのだろうか? この書生は己よりも他者を優先させるきらいがあるから、心配になるのだ。
体調が悪くても、”葛葉ライドウ”を維持する為に、無理をして――。
眉根を寄せたゴウトは、ライドウの側へ近づくと声を掛けた。
「七綺、何処か具合でも悪いのか? 薬が要るなら、用立てて来てやるぞ?」
それを聞いたライドウがますます顔が上げられなくなった事など、ゴウトは知らないだろう。
いいや、気づかないで欲しい。
心優しいところは変わっていない、業斗童子。前と同じ黒猫姿の、葛葉が目付役。
ライドウは口元に手を押し当てて表情を誤魔化すと、首を振って言い返す。
「……な、何でも、ない、です。済み、ません……。」
口調が初期の頃のように丁寧なものになってしまったが、ゴウトはライドウに異変が無いことが分かっただけで充分らしい。
寄せた眉根はそのままで、今度は表情を苦笑に変えて言う。
「ふっ。そうか。しかし……無理はするなよ? ……では、捜査に行こうか。」
「あ、ああ。そう、だな……。」
帽子の庇をやや深めに下げて表情を隠し、どうにか冷静さを装って頷き返すライドウ。
だが生憎と、その心中まではなかなか平常に返ることが出来ないでいた。
◇ ◇ ◇
(はぁ……。駄目だ。そろそろ冷静に返らないと。)
己の未熟さを痛感しながら、ライドウはゴウトの後に着いて廊下を歩き出していた。
(このままでは踏査に支障が出て――……ん?)
なかなか立ち直れない己に自己嫌悪しかけながら、ふと、先を歩くゴウトの背、首元を見れば首輪で無いものがチラと見えた。
(何だ?)
何かが……ある。目を凝らして正体を掴んだ瞬間――ライドウの心臓は大きく跳ね上がり、また心が乱れた。
小さな手帳と小筆の筆記道具一式が、ひっそりと丁寧に括りつけられている。つまりそれは、ライドウと同じように、探偵として赴く仕度の証なのだろう。
用意は周到。準備は万端。
(ゴウ、ト……ッ! )
思わずその場に膝を付きそうになるところを、辛うじて側の壁に手を付くことで身体を支えた。
額に手を当てると、ライドウは――七綺は長々と溜め息を吐き出し、呟く。
「ゴウト、それは……新しい精神修行か、何かなのか?」
十四代目葛葉ライドウを継ぐ前にも、確かな修練や様々な鍛錬を積み重ねてきた、己が身。このような角度からの精神攻撃に対しても、ある一定の耐性はあるつもりだった。
しかしながら、まさか――マリンカリン以上の虜化攻撃を、此度の己が目付役が所持しているなどとは、思いも寄らぬことで。
他愛ない一挙一動に、心が乱される。
柔らかな仕草を見る度に、表情が元に戻らない。
鎮心符を使用したとしても次から次に浪費するだけで役に立ってくれないし、使い切ってしまうだろう。
帽子があって良かったと、心底思わざるをえない、この状況。
その内に、そろそろ気が落ち着いただろうかと顔を上げるも、視界の先にゴウトの姿が目に入った瞬間に俯く羽目になってしまい、七綺は遂に眉間に皺を寄せて呻いた。
今すぐにでもゴウトに走り寄り、抱き締めたい衝動に駆られる。子供のように駆け寄り、無遠慮に抱き上げ――ああ、それでは全くに葛葉ライドウらしくない、と怒られてしまうだろう。
(これから踏査に向かうというのに、こんなことをしてる場合じゃ、ないんだ……分かってる。解っては、いるんだけど……。)
何時か、”ライドウ”をかなぐり捨ててしまう刻が来るかもしれない。人気の無い廊下に独り、壁によろめきかかって悶える七綺。
いつまで待っても姿を見せないことを不審に思ったゴウトが呼びに戻ってくるまで、懊悩から立ち直れない書生がそこに居た。