黒猫、萌ゑしは書生
09.櫛猫
櫛を梳けば猫は満足げに喉を鳴らすものである
ごろごろごろ、と機嫌よさげに喉を鳴らした黒猫が、ライドウの側で仰向けになっている。
彼の名は、ゴウト。
無防備に腹を向け、目を閉じて。
そうして催促するは一つの行為。
「七綺……手が、止まっているぞ。もう少し、上の辺りを。」
「あ、ああ。済まない。この辺か?」
「おう、そうだ……うむ。」
ごろごろごろ。
言われて再び手を動かせば、ゴウトは「それで良い」とばかりに唸り、気持ち良さげに目を閉じた。
何とも猫らしい猫の有様。……ねこじゃらしは怒るくせに、この違いは如何したことか。
そんな目付役――今は相棒となったゴウトの姿態を前にして、ライドウは苦笑する。
恐るべし、櫛梳き。
ライドウはゴウトの毛を櫛で梳いてやりながら、そして時々は撫でてやりながら、猫に奉じる。
陽だまりのような光景の室内には、幸せな人と猫がそれぞれ一人と一匹。
◇ ◇ ◇
切っ掛けは、道具の整理をしていた際にライドウの懐から櫛が一つ零れ落ちたことだった。
それがゴウトの目に留まり、ライドウを呼び止めたのが先ずは始まり。
「七綺、いま何か落としたぞ。」
「え?」
ライドウが振りかえれば、床に落ちた櫛を丁度ゴウトが咥えて持ってくるところであった。
黒猫は軽やかな仕草で机上に飛びあがると、ライドウと視線を合わせ、口に咥えた櫛を差し出した。それを受け取りながら、ライドウが言う。
「あ、済まない。有難う、気が付かなかった。」
微笑み、櫛を懐へ仕舞おうとするライドウに、ゴウトが訊ねた。
「七綺、その櫛はお前のものか?」
半月型の櫛は黒塗りで、朱で模様が描かれている上に金箔が少し付いていて、ちょっと高級な感じがした。
櫛の一つや二つくらい、所持していても別に問題は無い。書生としての身だしなみの為に持っているのかもしれないのだったら、尚更のこと。
ただ、ライドウが持つにはその櫛は何処となく女性的で、珍しい気がしたのだ。
ゴウトの問い掛けに、ライドウが――七綺が、微苦笑を浮かべて頷く。
「これは……――うん。……俺の、だ。」
ゴウトの機嫌を損ねぬよう控え目に目を逸らしたつもりだろうが、緑色の瞳は容易く誤魔化されたりはしない。
ライドウは何かを隠している。
が、言いたくはないようだ。
気になる。
だが、訊けない。
追求するには気が咎める、七綺の寂しげな眼差し。
だからゴウトは仕方なく気づかぬ振りをして、言った。
「そうか。なら……それで梳いてもらっても構わんよな?」
「え? 梳くって……ゴウト、を?」
「俺のこの艶やかな毛並みを前にして、他に何があると言うんだ?」
そう言って、少々自画自賛めいた台詞を吐いてみせれば、七綺の微笑はますます柔らかに崩れて。
「ああ。……ああ、そうだな。じゃあゴウト、ここでは何だから部屋へ行こう。」
七綺の瞳から寂しげな色が消えていることに安堵し、ゴウトは共にその場を後にする。
その際、気分を変えてやった駄賃代わりだ、と言わんばかりに彼の腕に飛び込み、抱えさせるという行為をとったが……別に贅沢ではあるまい?
なにせこちらは、隠し事をそのままにさせておいたのだから。
◇ ◇ ◇
「また手が止まっているぞ七綺。何か考え事か?」
不意に咎めの言葉を受けたが、ごろろと喉を鳴らした状態から言われては何の効果も無い。
七綺はゴウトの喉を指で撫で上げてやりながら、言い返す。
「ん、済まない。――……今日の夕食は、どうしようかと。」
「飯なら、有り合せのもんで構わんだろう。それに、お前が作るものは何でも美味いのだし。それの何を悩むと?」
「しかし、昨日と同じでは鳴海殿が――」
「七綺の手料理に文句を言う莫迦者など。放っておけ。……むぅ。それよりも七綺よ。ちと耳の後ろをカリカリしてくれ。」
「え? あ、ああ……此処か?」
「うむ、うむ……ぐるる、気持ちが良い……うむ……」
呟きながら、ごろりと七綺の膝上に横臥した黒猫は、何ともあまりに無防備な姿で居て、すっかり猫のような――いや、正しく猫なのだが――しかし、この寛ぎぶりは珍しい。
ここで、彼の書生は考えた。
今なら――酩酊に似た状態に陥っている今ならば、肉球に触れても怒られないのではないか?
七綺はひとり頷くと、かりこりとゴウトの耳裏を掻いてやりながら、口を開いた。
「あ、あのさ、ゴウト――」
「そうそう。先に言っておくがな……肢に触れても構わんが、足裏には触るなよ。」
「……。」
「返事は? 七綺――いや、葛葉ライドウ?」
ぐ、と唸るライドウ。ここで継ぎ名を出すとは。
「――ライドウ?」
「わ、分かり、ました。」
「うむ、素直で良い。そうだ、手が疲れたなら休んで良いからな。」
「……。」
狡い。
思わず素直に眉を八の字に下げたライドウ――七綺を目の端で盗み見しつつ、ゴウトは素知らぬ顔で言った。
「うむ、お前の膝は実に気持ちが良い。故に、少し眠らせてもらうぞ。」
「ゴウト、そろそろ食事の仕度を……」
言いかける書生の言葉を遮るように尻尾を振ると、ゴウトは身を丸めて眠りの中へ。
――暫くして、帰宅した鳴海がガランとした食卓を前に口を尖らせつつ、ライドウにこんこんと文句を言うことになるのだが、彼の猫は口を挟まず、満足な大欠伸を一つしただけだった。
ああ。
猫も狡い時がある。