黒猫、萌ゑしは書生
11.甘深
らしくないと分かっていても深く甘えさせて
「……ゴウト。」
「ん? どうした七――どわっ!」
昼間の鳴海事務社にて、報告書を纏めるライドウを見守っていた時のことだった。
不意にタイプライタアを打っていたライドウの手が止まったので、どうしたのかと顔を上げれば、相手は向きを変えるなり側に寄ってきて、そしてゴウトを抱き締めたのだった。
「ふふ……ゴウト。」
最初は息抜きかと思ったのだが、ライドウは床に膝を付くと、ゴウトの胴に鼻先を埋めて、うっとりと目を閉じる始末。
耳元をくすぐる、囁きのような声。ライドウ本人は無意識なのだろうが、彼の真名が放つ声は艶やかで、甘い。
「な、な……っ!」
それを聞くのは久し振りであったからだろうか、ゴウトが思わずぶわりと毛を逆立てた。
嫌では無い。
嫌では無いのだ。
だがしかし――そうして目を少しでも横へずらせば、ライドウ……七綺の目を閉じた顔があり、その表情があまりにも無防備なものだから――どうにも、むず痒くなってしまって。
「どどうした七綺? な、ななな何をそう甘えてみせるんだ。」
ややどもりながら訊ねれば、七綺は口端を上げて言った。
「ゴウトが……好きだ。」
「……っ!? な、何を急に――」
吐息混じりに吐かれた糖蜜のような台詞が、ゴウトを意識ごと固まらせる。
こんな、突然。
いや、七綺は時々想像以上の行動を起こすが。
いつもの戯れ。
戯言……にしては、この甘やかさはどうだ。
温かい体温。
頬に落ちた長い睫の影が艶やかで。
七綺。
七綺、俺は。
◇ ◇ ◇
様々な想いが巡る胸中にてゴウトが返答すべく適切な台詞を選んでいると、ふっ、と短い吐息が漏れる音を聞いた。
「な、七……綺……?」
ゴウトが思想より返り戸惑いの視線を七綺に転じれば、相手の肩が震えていることに気づく。
怯えている?
否、これは――笑っているのか!?
「おい、コラ七綺……鳴海の莫迦ふざけが伝染したのか……?」
不意打ちを受けたことによる苛立たしさと、相手の感情が掴めないことによる不機嫌さを、怒気に変えて詰問すれば、七綺が、ゆっくりと身体を離して首を振った。
「ふふっ……うん、済まない。違うんだゴウト。からかっているのでも、ふざけるつもりもなくて。」
声にはやはり笑いが混じっていたものの、応じた台詞の通り、確かに嘲弄しているような様子は窺えない。七綺はゴウトに穏やかな視線を向け、胸に手を当てて後の答えを継いだ。
「俺はただ、ゴウトに――業斗童子に、感謝の気持ちを伝えたくて。」
「感謝……だと?」
「うん。……ゴウトの後輩で良かった、と思って。」
ふ、と笑って、七綺は言う。
「最初は、何となくゴウトと会った時のことを思い返していたんだ。葛葉ライドウという継名を受けた、あの日のことから考えていた。」
「……。」
彼は気づいているのだろうか?
語る己のその眼差しが、どんどん優しいものになっていることに。
「あの頃の俺は、他者との接触……とにかく人が苦手で、話術もそう得意ではなくて――きっと、ゴウトは、呆れていたんだろうと思う。」
彼は分かっているのだろうか?
告白するその罪の他愛なさ、そして真名の姿を無防備に曝け出していることに。
ゴウトは彼の書生が見せている表情の真意を読み取ることに気が取られ、返事が出来なくなっていた。
「そんな不甲斐ない俺を……この葛葉ライドウ十四代目を、ゴウトは見放すことも無く、今日この時まで導いてくれた。見捨てないで、くれて……それが俺は嬉しいんだ。」
言って、またクスリと笑い、七綺はゴウトの身体を軽く撫でた。
優しい愛撫に、ゴウトは陶然とした目で相手を見つめる。
この告白は、いつもの……ああ、そうだ。いつもの、どうという事の無い、彼が心を開いた証に見せる本心の吐露だ。そうだ、そうなんだ。
これが語っているのは敬愛の情だ。
見つめているのは憧憬の眼差しだ。
だから――ああ、だから。
動揺することなど無いんだ、業斗童子!
ゴウトは大きく息を吸うと、天井を仰ぎながら言葉を返す。
「ま、まあ俺もお前が俺の跡継ぎで嬉しい、ぞ。」
目付役としての台詞。
口の中が少し苦い。
目の前で七綺が微笑する。
「有難う、ゴウト。」
そうして白くしなやかな指先で、ゴウトの顎をそっと撫で上げた。
感謝の印なのだろう。刹那の愛撫は、しかし大きくゴウトの心の奥を引っ掻いて――。
(お前は何処まで俺を狂わせる気だ。)
むず痒い感情にヒゲを揺らし、僅かに顔を顰めたゴウトの嘆息を、彼は知らないだろう。
ただ穏やかに微笑むと、それでは夕食の仕度をしてくる、と言って部屋から出て行った。
唐突に、置き去りにされて。
ひとりになったゴウトは、気を紛らわすかのように横になると、長い溜め息を吐いた。
そして零すのは不平のような独り言。
「雛鳥め。……そんな有様じゃあ、世間を渡って行けないぞ。」
「……良いじゃないか、雛のままでも。」
部屋の外、一枚戸を隔てて七綺が呟き返した。
ピタリと戸に背を貼り付け、その位置、その距離から業斗の独り言に対しての、届かぬ返事をする。
「雛の振りでもしてないと……誤魔化せないじゃないか。」
彼の黒猫とは、いつか別れなければならないのだ。
それは己が先か相手が先か。寿命か事故か、それとも何かによって?
原因は様々あろうけれど、辿り着く答えは「別離」……その、一つきり。
七綺は眉根を寄せると、やはり戸口から、ゴウトに向かって聞こえない声音で言う。
「雛で良い。だから俺には、ゴウトが就いていないと駄目なんだ。」
明日も、何気なさを装おう。
無邪気で、愚かで、何時まで経っても成長しない雛を演じよう。
それでゴウトが離れられないんだと言うのなら――幾らでも。
「俺は、駄目な葛葉だな。」
七綺は自嘲めいた笑みを浮かべると、戸口からやっと離れ、廊下を一人歩いていった。