黒猫、萌ゑしは書生
12.逆嫉妬
逆に雛を妬ましく思う猫、嫉視するは知らぬ猫
ぱしん、ぱしんと音がする。
それは窓辺にいる黒猫が、自らの尾を打ち付けているせいだ。
戯れにそうしているのではないことは、硝子に映る苛立たしげに歪められた顔を見れば分かること。
時折、壁に掛かる時計を一瞥しては、ぎり、と歯噛みを一つ。
その不機嫌そうなこと。書生の帰宅が遅いことに腹を立てているのだろうか?と、傍で見ていた鳴海は最初そう考えたのだが、時計の針が差しているのは三時を回る手前だ。
――なお、夜の三時ではなく、今はまだ「昼」の三時である。
大体、彼が単独で踏査に出ることを許したのは、ゴウト自身なのだ。
いつまでもベッタリなのは良いことではない、と判断してしかも自分から彼を追い出すように外へ放り出したくせに(背中を押した、という表現が正しいのだろうが、鳴海にはそう見えなかった)、それなのに、彼を見送った後のゴウトは機嫌が悪くなっていた。
(ほんと、なーにを苛立っているんだかねぇ?)
鳴海は頬杖を付きながら、控え目に煙草を燻らせる。
空気も気まずいし、何より――これが最重要だが――仕事がサボりにくくて仕様がない。
机の上に目を滑らせれば、書類の小山が嫌でも目に入る。これもそれもみな、己の役目に熱心な「書生くん」の御蔭である。
勿論、本当に感謝しているわけではない。
それにしても彼は何時帰って来るのだろう、と猫と同じように窓辺に寄りて眼下を見れば、おや見覚えのある黒い影が、奥の大通りから此方へ向かって真っ直ぐに走ってきているではないか。
やれやれ、これでこの気まずい空間ともオサラバだ、と鳴海は内心でホッとする。
だが、物事はそう簡単に思い通りになどいってくれないのだ。
「帰宅が遅くなりまして、申し訳ありません!」
響きの良い声と共に、青年が帰って来た。
うむ、若者は元気で宜しい――じゃ、なくて。
「お帰り、ライドウちゃん。」
「はい鳴海殿。ライドウ、只今戻りました。」
「……。」
しかし笑顔で迎えた鳴海とは対照的に、あれほど彼の帰宅を待ち望んでいただろう猫は、しかし一瞥を向けただけで何の反応も返さなかった。
(……? ゴウ――)
その素っ気無い反応に、ライドウが疑問符を張り付かせた眼で己が猫を見て、口を開きかけたが、それより早くに鳴海が会話を掬い上げた。
「ね、ライドウちゃん。さっき遅くなったって言ったけど、何処かに寄り道でもしてたのかい?」
「あ……いえ。道中、少しありまして……」
逡巡した様子で、僅かに口篭るライドウ。だが直ぐに、取り繕うようにゴウトを見て笑いかける。
「ゴウト、遅くなって済まなかった。着替え次第、食事の仕度をするから――」
「……。」
それなのに、猫の冷めた瞳は変わらない。そこでようやく、ライドウがゴウトの異変に気づいた。
「……ゴウト? どうしたんだ。」
控え目に尋ねてみれば、相手は地を這うような低い声で言った。
「七綺。何処を、道草していた?」
「えっ!? ……な、何を急に。」
質問の意図が分からず驚くライドウ。しかし、まずいことに相手はそれを図星だと捉えてしまったようだった。
眼を吊り上げ、ゴウトが唸る。
「俺には言えんことか?」
「い、いや、そんなことは――!?」
しかしライドウが言うのも待たず、ゴウトは軽やかな跳躍で相手の前に降り立った。そして彼が眼で追うより早くにサァッと距離を詰めると、鼻先を胸元へ埋めて、ひと唸り。
「――余所猫(よそもの)の匂いがする。」
「……っ。……あ、ああ。あの時の……かな。」
ライドウはゴウトの態度に戸惑いつつ、経緯を思い出して言った。
「あの時?」
「ん、多聞天で……使者殿の用事があったので、少し寄ったんだ。用事も済ませて帰ろうとしたら、柱の影に子猫が居てさ。お腹を空かせていたようだったから、少し牛乳をあげたんだ。……ああ、捜査経費じゃないから。」
「……この、胸にある痕は何だ?」
「え? あ……――はは、これか。これはミルクを上げる為に子猫を抱き上げたら、服に潜り込んでしまって。もう、くすぐったいのなんの……多分、温もりが恋しかったんだろうと思、」
「余所猫(よそもの)風情が……俺の七綺に何と言うことを……っ」
「……? い、いや、あの、ゴウト?これは、唯の子猫――」
「七綺も七綺だ!」
「えっ!?」
「このような痕を容易く付けられるとは! 貞操観念がなっておらん!」
「て、貞操? ゴウト、だから相手は普通の子猫で、これは単なる……」
「男子たるもの言い訳なぞするな! この不貞者がっ!」
「ふっ……!? ゴ、ゴウト、あの……だから、」
「……。」
「……も、申し訳、ありません……でした……。」
「それでいい。――以後気を付けろよ、七綺。」
「は、はい……。……?」
嫉妬深い夫に不貞を疑われる妻のような気持ちとは、こういうものなのだろうか、とライドウは考えた。
どうにも納得がいかず、腑にも落ちない――が、かといって反論すると、それだけ余計にややこしい事態が待ち受けていそうな予感がした。
それに弁解したとて、ゴウトの気迫に勝てる自身が今は無い。
なのでライドウは天井を仰いで溜め息を吐くだけに止めておくと、それ以上の口述は避け、ただ黙々と着替えることにした。
その陰では、様子を見ていた鳴海があまりの可笑しさに飲みかけていた珈琲を噴出し、そのスーツに大きな染みを作っていたのだが、そんなものは彼らの知るところでは無い。